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11.短剣

   本気であることを示すために両手で短剣を持ち直し、柄に手のひらを置いて角度を変える。ぴりっとした痛みが走り、じわりと熱いものが溢れて肌の上を垂れていった。アレクシスの視線が腹から逸らされない辺り、きっと薄く切れたのだろう。  だが、これでいい。妙な真似をすればこのまま躊躇なく貫くぞと、態度で示さなければならないのだから。 「子どもができてなくとも、この胎がめちゃくちゃになれば俺、あんたの跡継ぎ孕めなくなっちゃうね。さぞや困るだろうなぁ。俺ってそこそこ高かったんだろ? 金はぜーんぶ払い損だ。で、随分と焦ってるみたいだけど、次の稀人が現れるまで数年なら待てるの? 1年、3年、5年? それとも……10年?」 「──クズが」 「あんたにだけは言われたくねーよ」    ひしひしと肌に突き刺さってくる明確な殺意。確かに、今リョウヤがやっていることはクズだろう。無関係の、できているかもしれない我が子を盾にとるだなんて。けれども背に腹は代えられない。平気でそいういうことができる人間だとこの男に思わせるためにも、挑むような笑みは一瞬たりとも崩さない。   「ねえアレク。交渉してよ、俺と。そんな悪い話じゃないと思うよ?」 「大した心意気だな」 「そりゃどうも。ナギサにいちゃんの教育の賜物ですから」  元より自害する気などさらさらない。どうせ自死に失敗すれば待ち受けているのはさらなる地獄だ。この胎が子を産む機能を持ち続ける限り、例え寝たきりになっても孕まされる。だからこそ、駆け引きの対象となるのは他でもないここだと踏んだのだ。リョウヤの本気が伝わったのか、アレクシスがようやく椅子に腰を降ろした。  隙を見て、短剣を奪おうとしていた使用人たちを「動くな」と手で制し、前髪をゆったりとかき上げる。 「何が、望みだ?」    流れが変わった。この瞬間、リョウヤはやっとアレクシスと同じ土俵に立てたらしい。   「簡単だよ。ただ約束してほしいんだ。跡継ぎを産んだら俺を解放するって」 「約束、ね」 「そう。あと、この屋敷の中と外を自由に歩き回る権利がほしい」 「なぜだ」 「本が読みたい」 「本……?」 「うん。もちろん、外に行く時はあんたの許可は取るよ」    1階に書庫とも呼べるほどの書斎を発見した。ちらっとしかのぞけなかったが、大きな本棚がいくつも並んでいた。それとなく使用人に確かめると、あそこには様々な本が揃っているらしい。  下級層の識字率は低い。話すことはできても文字が書けない人間がほとんどだ。リョウヤはナギサから教えてもらったのである程度は読めたが、難しい字はわからない。リョウヤには学がない。まともな教育を受けてこなかったのだから当たり前だが、視野を広げるためにありとあらゆる知識が欲しかった。  この屋敷に軟禁されることが決定事項ならば、ここでできることを模索しなければ。 「言っただろ、二ホンに帰りたいんだって。でもそのためには帰る方法を探さなきゃいけない。だから少しでも情報が欲しいんだ。できる限りでいいから、あんたの家の力を貸してほしい」 「それを許可したところで、僕にどんなメリットがある」 「あるよ、メリット。俺はもう二度と、あんたから逃げない」 「……ほう?」  アレクシスの目が、リョウヤの本音を探るようにすうっと細められた。ナギサのことを聞かれた時もこんな目をしていたな。芋づる式に昨晩の暴行を思い出しそうになって唇を噛む。  ふと、アレクシスの唇にも、歯型がしっかりと残っていることに気付いた。 「もちろん二度と噛み付いたりもしないよ。あんたが望む時に足を開いて、あんたを受け入れることを誓う」 「そんな戯言を信じるとでも?」 「信じる信じないはあんたの勝手だ。でも、駄目だって言われたら何度だって脱走を試みるよ。あんたに組み敷かれるたびにめちゃくちゃ暴れまくると思う。それに、拘束されたらどんな手を使ってでも命を絶つ。あんたの子を無駄に孕まされるぐらいだったら、死んだ方がマシだ」  ──寒かった。熱のせいで指先の感覚すらも鈍くなってくる。正直、立っているのもやっとだった。足元がふらつき、腫れた顔がズキズキと痛む。喋るたびに血の味がじゅわっと染みていく。一瞬でも気を抜けば、膝から崩れ落ちてしまいそうだ。けれども今倒れたら、これまでの努力が水の泡となってしまう。 「でも約束してくれたら、あんたが求めてる跡継ぎは絶対に産む。孕み腹としての役目はしっかりと果たす」    アレクシスがぎしりと天井を仰いだ。その動作は考え込んでいるというよりも、疲れ果てている様子だった。うんざりしていると言った方が正しいかもしれない。 「……本当に、よく喋る獣だ」 「で、返事は? 俺と約束してくれるのくれないの、どっち? 言っておくけど──これは脅しじゃない」  自らの手に覚悟を込めた。だらりと、更に血が溢れてくる感触。ここに刃を立てるのは初めてではない。子どもの頃、下腹部の陰紋が嫌で嫌で皮を剥ぎ落そうとしたことがある。あまりの激痛に剥ぎきれなくて、1か月ほど痛みと熱に苦しんだ挙句皮膚は再生し、陰紋も全て元に戻った。あの瞬間、これは逃れられない運命なのだと絶望したのだ。あの時と比べたら、こんな痛み屁でもない。  相手を鋭く睨みつけ、返答次第では本気で腹を掻っ捌くと目で訴える。  目を逸らしたら負けだ。緊張感に満ちた睨み合いの末、アレクシスがふう、と大きなため息を吐いた。   「──いいだろう。要求を呑んでやる」  その一言に、ようやくまともに息が吸えた。   「ただし、約束は違えるな。おまえは命令に従って足を開き、僕を受け入れろ。少しでも逃げる素振りを見せれば四肢を切り落とし、閉じ込める。わかったな?」  アレクシスの目は、本気だ。 「わかっ、た。じゃあ交渉成立ってことで。これからよろしくね、アレク」  敵意がないことを示すため、短剣をがらんと床に放り投げる。刃にリョウヤの血が付着したそれは、ピカピカに磨き上げられた床を回転しながらくるんと滑り、ちょうどアレクシスの足元で止まった。  正確にはアレクシスが足で止め、拾いあげて手のひらの上でくるりと回した。 「──まだ話は終わってないぞ」 「え?」 「僕が望む時に足を開くと言ったな」 「……言った、けど」 「では、貴様の誓いとやらを確かめさせてもらおう」  たぁん、と、アレクシスが短剣をテーブルに突き刺した。   「今ここで服を脱げ。全員の前で足を開いてみせろ」    ぐぅっ……と喉が鳴り、唾がなだれ込んできた。

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