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18.羨望(2)

 流石にここからでは彼らの会話は聞こえない。  ただ、精悍な顔つきの美丈夫に抱かれ、支えられるように歩く可憐な少女の姿は、まるで美術館の一角に保存される1枚の絵画のようだった。  まさに美男美女。改めて、お似合いの2人だなと思った。  ルディアナに伝えた言葉は全て本心だ。「人」として産まれるとはいえ、「稀人」を母に持つのならば、リョウヤの胎に宿るであろう子に待ち受けているのは試練だろう。  本当は産みたくなんかない。当たり前だ、誰がこんな希望も何もないクソみたいな世界に、苦しむことがわかっていて、自分の血を受け継ぐ子を産み落したいなどど思うものか。  だから今日はルディアナに会えて、正直安心した。彼女のアレクシスを見る目は、彼に本気で恋慕の情を抱いている目だ。それに、稀人であるリョウヤと会話をすることだって普通は拒むだろうに、しっかりと目を合わせて話をしてくれた。確かに喧嘩は売られたのだろうが、別に蔑みの目を向けられたわけじゃない。  リョウヤにとって、それはとてもとても大きなことだ。  ルディアナならば、リョウヤの血を引く子を愛情深く育ててくれるに違いない。またアレクシスも、愛しのルディアナに何かしたらただでは済まないとでも言いたげな顔で、睨んできた。しかもあんなに気障ったらしいセリフを堂々と囁けるらいだ。ルディアナに惚れ込んでいるのだろう。 「君のことは月にも奪わせない、だっけか。うっわぁ」  寒くもないのにぶるりと背が震えた。聞いた瞬間も顔が引き攣ったが、自分で言ってても鳥肌が立ってきた。死んでいるような目をした男に、こんな人間らしい一面があったとは。  ただ、想い合っている2人に育てられれば、きっと可愛がってもらえるだろう。教育も受けさせてもらえて、幸せにだってなれるはずだ。自分がいなくとも。それはリョウヤにとっても、酷く喜ばしいことだ。   「よかった、な」  心の底からそう思えて、まだ何も孕んでいない腹をひと撫でする。もしも二ホンへ帰れる方法がわかったとしても、子どもが出来ないことにはどうしようもない。忌人や稀人やの妊娠は「人」と違って数日で判明する。  だが今朝も含めて、毎朝行われる検査では残念ながら陰性だった。  早く早く、孕んでしまいたいのに。  美しい男女が玄関ホールで別れを惜しみ、熱い口づけを交わしている。目を細めて手すりに寄りかかる。 「……いいなぁ」  ぽつりと、呟く。アレクシスにでもルディアナにでもなく、愛情を持って寄り添い合う2人に対して羨ましさを覚えた。あの二人は愛し、愛され、互いに想い合っているのだ──いいなぁ。  誰かに愛されるって、どんな感じなんだろう。    それはきっと、生まれてから死ぬまで、リョウヤには一生縁のない感情だ。渇望しても渇望しても、手に入らなかったものだから。最期の最期で打ち砕かれたものだから……打ち、砕かれた?  突然、ぐうっと胸が締め付けられるように痛くなり、手すりを掴む手に力がこもった。脇に挟んでいた本がばさりと落ちる。頭の中がぐるぐると渦巻いて、ガンガンガンガンと、嫌な痛みが響き始める。 『良夜、おまじないを教えてあげるよ』 『おまじ、ない?』  果物を盗み、2人で逃げている途中ですっころび、足を捻った。橋の下に隠れ、真っ赤になった足首に涙目になっていると、兄がそうっとそこに触れて、包み込んでくれた。 『そう。痛いの痛いのとんでけって言うんだ。そうすると、痛いのなんてどっかに飛んでいっちゃうんだ』 『うそだぁ、そんなの聞いたことねーよ』 『本当だよ。ほら、痛いの痛いのとんでけ、痛いの痛いの、とんでけ……な? 大丈夫だろ?』 『ぜんっぜん痛いよ!』 『えー、本当に?』 『本当だよっ』 『どれどれ……えい』 『いたっ、ちょっと突かないでよっ』 『はは。ほら、おんぶしてあげるから乗りな、良夜』 『もー……ありがと』  遠い遠い、宝物のような愛おしい記憶は、全て本物だ。確かにリョウヤは愛されていた。なのにどうしてこんなことを考えてしまったんだろう。吸い辛くなった空気を懸命に肺に送りこみながら、胸元をぎゅっと握りしめる。ナギサがくれたオマモリは首にかかっていないが、ナギサはいつもここにいる。リョウヤの心の中に。  だから、大丈夫だ。 「痛いの痛いの、とんでけ……とんでけ……」  思い出せ、撫でてもらえた喜びを。思い出せ、時々とぼけて、笑わせてくれた兄の優しさを。思い出せ、おぶってくれた細い背のあたたかさを。ズキズキと痛む足首なんて、兄の背に揺られていたらすっかり忘れてしまった。   「大丈夫、だいじょうぶ、だ、とんでけ……いたいのとんで、け」  大好きな兄から教わった魔法の言葉を唱えながら、目を閉じる。 「うん、平気……痛くない、だいじょうぶ、だいじょーぶ……」  まぶたの裏に、もう大丈夫だよと微笑んでくれたナギサが見えた。良夜、と、耳の奥に残っている優しい声に耳を傾ければ、胸の痛みは自然と引いて行く。  ゆっくりと、まぶたを上げる。  チカチカと、突き刺さるようなシャンデリアの煌びやかな光りに、月を見た。その下では、愛を確かめ合ったアレクシスとルディアナが肩を並べて、玄関から出て行くところだ。  いいなという言葉は、今度こそ飲み込めた。よどみを晴らす。  ──しゃんと立て。俺は、良夜なんだから。  強張る手を手すりから離し、リョウヤは落ちてしまった本を、自分で拾った。

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