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20.得体の知れない生き物(2)
じじ……っと赤く爛れる葉巻の先を灰皿へ向ける。空いた空間は、ちょうど手のひらが入るぐらいの隙間だった。察しの悪い稀人の視線がようやく葉巻の先を捉える、赤を凝視しながら口の中にあった魚をぐう、と飲み込んだ。
命に代わりはないというのなら、稀人にしかできない仕事を与えてやる。
「グズグズするな。主人を待たせる気か?」
殊更冷ややかに告げてやる。強引に腕を引っ張りはしない。自ら手を差し出させることに意味があるのだ。この稀人にとってはそれが一番堪えるだろう。稀人はきつく握った拳を開き、ぐいっと灰皿の上に差し出してきた。
せせら嗤う。これだから馬鹿は。
「誰が手の甲だと言った。裏返せ」
何かを手に持つたび、この痛みを思い出せばいい。稀人が、ぎこちない動作で手のひらを裏返した。一番薄い手のひらの真ん中の皮膚目掛けて、燃える赤を下ろしていく。
「……ぐ」
触れた瞬間、じゅう……と肉が焼ける音がした。躊躇なく真上から更に押し付ける。びくんと、稀人の肩が大きく、震えた。千切れそうなほど噛み締められていた下唇が、激痛のあまり解ける。
「ッ、ぁ……、ァ」
稀人の細い指がびいんと伸びて固まる。垂れた髪が邪魔で表情はよく見えないが、ちらりと隙間からのぞく額からは、ぷつぷつと汗が吹き出していた。まだ足りない。一度だけ離し、奥でくすぶっている熱い所を抉り出すため、強く押し付ける。見せつけるようにぐりぐりと回せば、稀人の食いしばった歯から更なる苦悶の声が漏れた。
──いい気味だと、うっそりと笑う。
時間をかけて、ゆっくりと引き剥がした。葉巻の先が、溶けた稀人の皮膚にくっついたような感覚があった。わずか20秒ほどの熱によって、手のひらには大きく丸い熱傷の痕がついていた。
「灰皿になった気分はどうだ」
「……、……ぅ」
腕ごと痙攣する手がガタンと灰皿から落ちた。稀人は手首を押さえてテーブルに突っ伏している。ぽたりと、稀人の汗がテーブルに落ちた。内部までじっくりと焼けているようで満足する。
これでしばらくは、耐えがたい痛みに苛まれ続けるだろう。
「これからは、貴様が僕に逆らうたびに1つずつ罰を与える。体中に火傷の痕を刻まれたくなければ、せいぜい僕に媚びて腰を振ることだな」
そして怯えろと心の中で付け加える。気分がいい。今夜はいい酒が飲めそうだった。
「……か、ら、あんたは本当に、バランスの悪い男、だな」
グラスに注がれた赤ワインを優雅に飲もうとしていた手が、止まる。
「火傷、だらけになった俺に、へこへこみっともなく腰を、振るのは、あんたの方だろうが……」
ガンと音を立てて、再び灰皿の上に置かれた手のひら。
ガクガクと、腕全体がまだ苦痛に打ち震えているというのに。
「──なんの真似だ?」
「真似もクソも、ねーよ。だって、いちいち手え置き直すの、面倒臭えんだもん……」
稀人は、奮い立たせるように顔をあげた。
「やれば、いいよ。あんたには、散々逆らってきたからね。唾、吐きかけた。噛み付いた。脅した、花瓶割った、あんたの可愛い婚約者に、捨てゼリフ吐いた、あんたの命令無視して、バートンとかいう奴に突っかかった。あとは……なに? 俺が覚えてないことでも、あんたは逐一覚えて、根に持ってんだろ。じゃあ今ここで、ぜんぶぜんぶやり返せよ。あんたの気が済むまで、俺を傷だらけにしろよ」
額から頬に流れ、ぽたぽたと顎から垂れていく大量の汗。痛々しくひしゃげる目頭。それでいて、口元に浮かべられている交戦的な笑み。ギラギラと突き刺さってくる眼光はアレクシスから1ミリたりとも逸らされず。
「……なんで言うことを聞かないんだって、言ってたよね。なんでだと、思う? あんたじゃ、考えても考えてもわかんねーだろうから……教え、てやるよ」
激痛に歪んだ顔が爛々とした凄みに塗り替えられていく様の、すさまじさ。この顔は、これからもアレクシスに逆らい続けるという意思表示に他ならない。
「だって……だってこんなことされたって、俺はなんにも、変わらない。俺は俺のままだ。俺の価値だってちっとも下がらない」
すぅうっと、稀人が上顎を震わすように素早く息を吸い込んだ。グラスを片手に、ただ稀人を凝視する。何故、どうして。こいつは、この稀人は、この生き物は──リョウヤは。
「こういうことをすればするほど価値が下がるのは……あんただけだからだよ!」
なんだこいつは……なんだこいつは!
この瞬間、生まれて始めて、細胞の全てが沸騰するような感覚に苛まれた。
目の前の得体の知れない生き物に対する苛烈な怒りに、溜まりに溜まっていた鬱憤が大きく弾ける。
「──この薄汚い愚か者を地下牢へ連れていけ!」
椅子を後ろへ倒さんばかりの勢いで立ち上がり、怒鳴る。置き損ねたグラスが音もなく倒れ、ワインがじわじわとテーブルクロスに沁みた。
「牢獄には二重に鍵を掛け、燭台に明かりも一切灯すな! 僕がいいと言うまで食事も水も一切与えず、 こいつが泣き喚いて許しを乞うても絶対に開けるな、こいつの気が狂うまでとことん追い詰めろ!」
額も、眉も、頬も、鼻も、唇も、顎も、アレクシスを構成するすべてが歪むのを抑えきれない。
ここまで激高する主人など見たことがなかった使用人たちも、驚愕に満ちた表情でおろおろとし始めた。そんな彼らの姿さえも腹立たしく、テーブルに拳を叩きつければ衝撃に灰皿がずれ、落ちた。
祖父の代から受け継いできた灰皿は、大理石の床に吸い寄せられるようにパシャンと割れた。一瞬の静寂に響いた、繊細な破壊音。
驚くでもなく、飛び散ったガラスの破片を視線だけで一瞥したリョウヤに、さらに怒りが爆発した。
「何をもたもたしている、早くしろ! 諸共罰せられたいか!!」
憤懣やるかたないといったアレクシスの命令に、使用人たちは慌てて動いた。しかし、使用人たちがリョウヤを強制的に立ち上がらせようと腕を掴む前に。
「そんなことしなくていいよ。自分で立てるし、歩けるから」
リョウヤは自分の力で、ふらつきながらも席を立った。そして迷いのない足取りでダイニングテーブルから離れ、アレクシスに背を向けた。リョウヤが身にまとっている乳白色のブラウスが空気を含み、ふわりとベールのように浮きあがる。ただそれだけだというのに、ルディアナを含む令嬢たちが身に纏っているドレスよりも、よっぽど高貴なものに見えた。
力強く、背筋をしゃんと伸ばしたその堂々たる佇まいには、どこか崇高ささえもまとわりついているようで。
そう見えてしまったことが、どこまでも屈辱的だった。
「で、地下牢はどこ?」
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