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49.現在(3)

「あのさ、頼むから今は娼館にでも行っててくれる?」 「どこの世界に、夫に娼館を進める妻がいる」 「ここ」 「……」 「どっか行ってよ。俺、今日はこの子たちを散歩に連れてくって約束してんるんだ、な? ごめんな、驚かせて。もー大丈夫だからな」  突然怒鳴り散らしたアレクシスに怯えていた馬の目の下の辺りを、両手でゆったりと撫でてやる。するとだんだんと落ち着いてきた馬が、ぶるると甘えるように鼻を鳴らした。  可愛く手可愛くて頬ずりをするとぺろんと頬を舐められた。思わず笑みが零れる。 「へへ、くすぐったい」  自分の愛馬と戯れるリョウヤが気に食わないのだろう、ますます険しい顔つきになったアレクシスは何度か口を開閉したが、結局何も言うこともなく顔を背け、大げさに舌打ちをした。  苛立ちを隠さぬまま、馬のように足裏をかつかつと地面に打ち付けている姿にほんの少しだけ申し訳ない気持ちになって、馬から離れた。  こいつ、本当に自分の馬のことが好きなんだな。 「……乗っていく、馬を出せ」  しばらく唇を一文字に引き結んでいたアレクシスが口を開いた。なんだ、やっぱりどっかの誰かと逢瀬じゃないか。素直に言えばいいのに、行く前に茶々を入れていかないと気が済まないだなんて、本当に性格がひん曲がっている。  使用人たちと一緒にアレクシスの馬を馬舎から出し、おまえの散歩は帰って来てからな、とひと撫でして離れる。  ふう、と息を吐く。これでやっと静かになるな。 「いってらっしゃいませ旦那様、どうぞお気をつけてねー……」  一応は妻なので、形だけだが一声かける。心は全くといっていいほど込めていない。ぱかぱかと蹄を鳴らし始めたアレクシスの馬を見届けて、他の馬舎を掃除しようと背を向けた──のだが。 「おわっ!」  ぐいっ、と腹に圧迫感を感じた。あっという間に華奢な体が宙に浮き、気付いたらアレクシスに物のように抱きかかえられ、強制的に馬に乗せられていた。  もちろんきちんとした乗り方ではないので、支えてもらっていないとかなりぐらぐらする。  慌ててのけ反るように振り向けば、かち合う赤い瞳。 「は、え、なに? え!?」 「おまえもこい」 「は? どこに!」 「いちいち騒ぐな、散歩にだ」 「な、なにそれっ、なんであんたと? ぜったい嫌だ、降ろしてよ!」  ぎゃあぎゃあ喚いてじたばたと暴れようとするが、難なく押さえ込まれて横抱きにされる。アレクシスは着痩せするタイプなので、全体的に結構筋肉質なのだ。がっちり固定された。 「この人さらい!」 「誰が人さらいだ、夫が妻を馬に乗せることの何が悪い」 「俺は嫌がってんの! 妻は夫と出かけたくないの!」 「大人しくしていろ、叩き落とされたいのか!」  その言葉に下を見て、ひえっと体が強張った。  アレクシスと違って乗馬にはてんで縁のない生活を送って来たリョウヤだ。アレクシスの愛馬は特に体も大きいので、下をちらりと確認するだけでその高さにくらりと眩暈がする。  しかもリョウヤには馬が嫌がる手足枷がついているので、馬にまたがることもできない。  抱きかかえられている不安定な状態で、1人で降りるなんてことは絶対に無理なので、咄嗟にアレクシスの体にしがみ付く。その瞬間、アレクシスの頬がほんのりと赤らんだことに気付いた使用人たちは、見てはいけないものを見た気がして一斉に視線を逸らした。 「おねっ、お願い! ユリエット、助けて!」  しかしただ1人、タイミングを見失い目を逸らせなかった者がいた。しかも間が悪いことに、リョウヤの視界にぱっと入ってしまった。その結果、ここ最近リョウヤとよく会話をしている御者、ユリエットは、腕を伸ばして助けを乞うリョウヤを助け出そうかとわずかに躊躇し。  何を見たのかざっと顔を青ざめさせて、びっくりするぐらいの勢いで平身低頭、頭を深く下げて叫んだ。 「お、お許しくださいませ、私はしがない御者でございます! 本当でございます、何もっ、何もやましいことなどございません! あのその、お、お気をつけていってらっしゃいませ奥様だ、だだだ旦那様ァ! 末永くお2人で仲良くどうぞ! はい!」  意味不明すぎる心からの叫びにリョウヤが呆気にとられている間に、アレクシスに進めと命じられた馬が、たったかと蹄を鳴らして駆けて行った。  降ろせよこの妻さらいー! というリョウヤの哀れな悲鳴が遠くなり、厩舎には静寂が訪れた。  しかし、ユリエットは頭を下げたまま硬直している。  地面に染みこむ黒は、ぼたぼたと垂れる冷や汗だ。  隣にいた誰かがユリエットの肩をぽんと叩き、ユリエットが震えながら男泣きした。  それもそのはずだ、ユリエットはリョウヤに助けを求められたその瞬間、リョウヤをしっかりと抱きしめているアレクシスから、底冷えするような鋭い視線を向けられたのだ。  帰ったら八つ裂きにするぞ、と目が言っていた。  アレクシス・チェンバレーの殺意すら滲む瞳に、一介の使用人であるユリエットが適うはずもない。  はぁー、と深い深いため息をついたのは誰だったのか。 「見たか、旦那様のあの目……」 「こ、怖すぎる……どうして気付かないんだ、奥様は」 「心臓が、止まるかと思った……」 「同じく」  と、被害を受けた者同士固まって怯えたとか泣いたとか。  * * *  ────────  ここまで読んで頂きありがとうございました、ここからの更新は未定となります。  感動等頂けると喜びます…!

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