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桜の呪縛
桜が咲く季節になると酷く憂鬱になる。
子供の頃は特にそうだった。
些細な事をきっかけにグループという輪から追い出され、親友だと思っていた人に酷くいじめられた。
当時、中学生だった自分はどうしてそうなったのか分からず、わけも分からず自暴自棄になっていた。
実際には親友だったその子に気を遣えなかったなどそういう、些細なことだったはずだ。
当然、そのような些細な事をくまなく見ている人が居るわけがない。
誰一人として周りの人は何が原因でそうなったのか分かっておらず、だからこそ教師も生徒も誰も手を差し伸べる事なく、かえってそれがいじめを助長した。
ほどなくして引きこもりになった自分は家で寝たきりの生活を続けていた。
最初はインターネットに触れていたが次第に人の目が怖くなって出来なくなり、一日中布団にくるまって過ごしていた。
親は仕事に忙しく、子に無関心。
生きている事に希望を見い出せず、たまに部屋の外から聞こえる両親の言い争いから目を逸らし続けた。
それから一年後。
中学二年生になり、担任の教師が変わった事を皮切りに人生は大きく変わった。
『先生と一緒に学校に行こう!学校に行くのが怖いならまずは近くの喫茶店で話しをするだけでも構わない、どうかな?』
なんでもハキハキと話す、快活な男性は本年度から入ってきた新人教師だった。
体育会系のノリで最初は嫌だった。話しをしたくないと何度突っぱねても毎日毎日『喫茶店で美味しいものを食べながら勉強しよう。何かあれば先生が守ってあげる』と部屋の前で声大きくして、再三言われ続けていると次第にうるさくなって諦めて聞いてしまった。
『烏丸、いいのか!?なら先生と一緒に外に行こう!』
『……外出るのは嫌だけど、ちょっとだけなら話しできるよ』
『ああ、それでも構わない!色んな事を話そう、烏丸!』
勿論、外に出るのはそう簡単ではなかった。
一年間、暗い部屋に引きこもっていた自分には部屋の扉を開けるほどの勇気はなくて扉を少し開けて何度も先生と話しをした。
外はどんな状態か、学校はどうか。
すると決まって彼はこう言う。
『桜の花びらが舞う季節だ。これがとても綺麗で儚くてなぁ。俺は通学途中の土手沿いに咲いてる桜が好きでな、この時期になるとよくそこで花見をするんだ』
彼は不思議と学校の話をしなかった。
それは自分が行くのを嫌がっていたからか、はたまた彼自身が学校に興味なんてなかったのか分からない。
最初こそ行こうなんて大それた事を言っていたが次第にこんな景色を見た、こんなご飯があったなんて関係ない話をするようになった。
だからこそ、興味惹かれてすぐに長く話すようになった。
毎日毎日忙しいというのに、休みの日でも来てたくさん話してくれる。
部屋に入る事を許すと彼は美味しいお菓子の差し入れと共に自分が撮ってきた桜の写真を添えて見せてくれた。
『これが俺が好きな桜だ』と嬉しそうに笑いかけてくれる。それがキラキラして見えて、見ているだけで満たされた気持ちになる。
先生が持ってきてくれた桜の写真は先生の笑顔の次に自分の大切にな物になった。
『これ、貰っていい?』
『ああ、いいよ。烏丸にあげようと思って撮ってきたんだ』
そう嬉しそうにはにかむ先生に思わずこちらまではにかみながら大事そうに引き出しにしまった。
今度、写真立てを買おう。そう思いながらも同時にいつか一緒に見に行こうと約束した。
その約束はすぐに果たされた。
雨が連日降る為、これが今年最後の桜の見納めとなる見込みでしょう──なんて天気予報が言うから先生は慌ててやってきた。
『桜を見よう!』
そう慌てた顔を魅せながら全然、学校に関係のないレジャーシートを手に。
突然の事に自分はいったい何が起きたんだと驚きを隠せなかったが今日が今年最後の桜になるかもしれないという事を伝えられた。
一度たりとも外に出ていない。だからこそ、急に言われてもとても困る。だが先生と桜を一緒に見たい。そう思えば
『少しだけ、なら……』
と勇気を出して部屋と廊下の境界線を越えるように一歩、足を踏み出した。
少し暖かくなりつつあるというに季節外れの厚手のパーカー、目深に被った帽子は外せなかった。
やはり、心のどこかで同じ学校の生徒に見られるかもしれないという不安があった。けれど、先生はそんな自分の気持ちを露知らぬ様子ではぐれないように繋いで手を引いて、かつて学校に向かう為に歩いた通学路の途中にある土手沿いへと向かって歩いていくと満開に咲く桜が見えてきて、その下まで行くとレジャーシートを広げて花見をした。
『どうだ、綺麗だろ!』
と嬉しそうに笑って先生の作ってきたサンドイッチを一緒に食べたのは今でも覚えている。
『綺麗だね、先生』
桜も綺麗だけど先生がキラキラと眩しい笑顔がとても綺麗で目が離せなかった。
先生の作ったサンドイッチは形は歪で具材の玉子焼きが厚みがバラバラな事から不器用なんだという事が分かる。
そして味も思った以上にしょっからい。
『ま、まずくないか?』
『ううん、美味しいよ先生』
しょっからいけど、母親が作るご飯よりもうんと美味しくて優しい味がした。
先生は嬉しそうに笑った後、口に含んで『美味い!』と自画自賛していた。どうやら味音痴のようだ。
それが可愛くて仕方がなく、いつまでも笑顔でいれた。
久しぶりに外に出た事をきっかけに、自分は外に出るようになった。
人目は怖くてなかなか帽子は外せなかったけれど先生と一緒に喫茶店に行って話したり、ファミレスで勉強会したりと色んなところに出かけた。
何処に行っても先生は太陽のように元気に笑っていた。好きな物はパンケーキらしくて何処に行っても頼んで『ここのはほっぺが落ちるほど美味い!』とか『これも美味しい!烏丸も食べてみろ!』と食べ差しを渡してきたりとそれはそれは大暴れだった。
それが楽しくて仕方がなく、いつまでもこの楽しくて幸せな時間が続けばいいなと思っていた。
先生が毎日来てくれる。それだけでも幸せだというのに欲張って学校で教師として教壇に立つ姿も見たいと思えば半年経たずに学校に行くようになった。
自分は勉強したいのではない。先生に会いたいだけだった。
その気持ちだけでいじめた張本人がいる教室にも平然とした顔で居座れた。
『アイツ、一年休んで全部俺達が悪いって教師に言いつけたくせに学校来るとか頭おかしすぎじゃね?』
『マジ空気読めねぇ』
当然のようにそんな陰口が聞こえよがしに耳に入る。
勿論、そう言われる事も想定できていたし、言われるかもしれないと思えば足がすくむほど怖いと思う気持ちはあった。けれど先生にもっと触れ合っていたい、先生に会いたいと強く願えば恐怖なんて払拭できた。
教壇に先生が立っているのならそれだけで自分は強く生きていける。
『烏丸、大丈夫か?』
『はい、先生!ぜんぜん大丈夫です!』
先生は優しい。何も言わなくても気にかけてくれる。だから自分は何事もないように『大丈夫』だと笑顔で応えると先生も嬉しそうに微笑んでくれた。
先生さえいればいい。
そう思えば思うほど、自分の心は、想いは変わっていく。
桜を一緒に眺めた時はまだ先生とは認識しきれていなくて、純粋に凄いや良い人だとか、単純な認識しかしていなかった。
それ以降も変わらない認識だったはず。だが、いつからかこの単純な想いは好きへと変わり、先生として、人として慕いながらもいつか先生の隣を一緒に歩いていく伴侶になりたいと自分は想いを寄せるようになっていった。
いつの日かに見た、同性でありながら想いを寄せ合い結ばれる物語のように。
先生からすれば、ただの生徒と教師という関係性としか捉えていなかったのかもしれない。
しかし、自分には一縷の光はとても眩く輝いて見え、先生に強い憧れと依存を感じていた。
ゆえにその想いは次第に不純さを帯びていく。
────時として、純粋は凶器となる。
学校に馴染み、冬が訪れた頃に先生から次第に接触する事が無くなっていった。それは自分が一人の生徒という枠組みに収まったからか、あるいは興味を持ってもらえなくなったのか。
声をかけても決して素っ気ないわけではない、優しく微笑みかけて『どうしたんだ、烏丸』と話しを聞いてくれる。
でも、以前のように長くいれる時間は少なくなっている事は明白で、それがかえって焦りを生み出す。
また声をかけてほしい、気にかけてほしい。興味を失ってほしくない。
そういった欲望が、不安が胸の内に生まれては心を酷く掻き乱して冷静さを欠かせていく。
気付いたら自分はまともな生徒の一人になる事を恐れて悪さをするようになった。
そんな事をしなくても先生は変わらず、優しくて気にかけてくれている事は分かっていたはずだった。声を掛けたら優しく返してくれる、それは他の生徒とは違う声のトーンで。
そう分かっていたはずなのに、分かっていたはずなのに。
だけど、学校に来れば先生が他の生徒の事も気にかけている姿を見る度に腹立たしく思うようになった。当たり前の事、相手は教師という立場上、生徒に優しく接するのは当たり前なのだ。
自分が特別なはずではない事は分かっているというのに────。
最初は些細な事から始まった。
わざと忘れ物をして先生を困らせた。
『忘れないように先生が紙に書いておくから』と忘れた物を紙に書いて明日持ってくるように言われた。
また一つ、宝物が増えた。先生直筆の紙。
次は先生の困った顔が見たくて物を隠してみた。ペンやハンカチをわざと分かりやすい場所に隠すといずれもすぐにバレて職員室で怒られたが先生が必死になって怒ってくれているのがかえって優越感に浸れた。
先生が自分だけを見てくれている。
それが嬉しくてたまらなくて。
またしてしまう。してしまう度に悪い虫が騒ぎ立てて歯止めが効かなくなっていく。
靴を隠して困らせ、先生の弁当を盗んで食べて困らせ、職員室にいる先生を意味もなく呼び出して困らせて。
『烏丸、しっかりしてくれ。お前はそんな子じゃないだろ』
そう言われると心がズキズキと痛くなる。
嫌な事をしてうんざりした顔をされて酷く傷つく。そうだ、先生が望んでいるのは以前のように素直で優しい自分なんだ。
先生には嫌われたくない、もうしないでおこう。これで終わりにしよう。いい子にしよう。
そう思ってもやめたらまた見てくれなくなるかもしれない、という不安が胸の内に渦巻くと悪さをするように囃し立てていた悪い虫は悪魔へと姿を変えて、耳元で囁く。
『『やらないと先生が見てくれなくなる』』
そんな事ないと分かっていて不安に押しつぶされそうな自分は制止しようとする手を押えて罪を重ねる。
先生の嫌な事を、繰り返す。書類を隠したり落書きしたり、生徒をいじめたり、困らせたり。
冬を越して春になり三年生になった。時間は流れていくというのにやめられずに繰り返していた自分にいつしか先生は見向きもしてくれなくなった。
こうなってはもう手遅れ。誰も自分を見ることもなく、空気のように扱う。
(こうされたかったのか?先生に、好かれたかったんじゃ……)
今更それに気付いたってもう遅い。元からそうなる事は分かっていたはずだ。
何度も自問自答を繰り返し、後悔するだけ。それでも癖になった悪行は繰り返される。先生の携帯を見つけ、盗み見るまでは。
放課後、先生に居残りを言い渡されて待っているとふと教室の教壇に無造作に置かれた携帯を見つけた。
一向に先生が来ない事から少しだけ見てみようと手に取って見てみる。
大好きな先生の携帯、待ち受けはなんてことないハムスターの画像。
着信履歴もごく普通。メールフォルダはよくあるメルマガで溢れている────と思っていたら何やら特別なメールフォルダを見つけた。
よく見ると去年卒業した生徒と仲良く会話しているメッセージか何十件、何百件と見つかった。
中には先週、一緒に旅行した事を仄めかすようなものも同棲している事を仄めかす内容も。
(……自分は、先生の家なんか……知らないのに……)
一度たりとも先生の家に招待されたことなんてない。
『大事な生徒だから変な誤解されたら俺も烏丸も困るだろう?』と何度も先生は言って場所を教えてくれなかった。
あれはこのメールのやり取りをしている子と同棲するから教えられなかったのだ。
それに気付いた自分はとても虚しくなった。
あれほど想いを寄せていた相手は全く自分を見ていなかった。
ただの生徒と教師。それを改めて認識すると突如として虚しくなって自分は卒業間近にして学校に行くのをやめてしまった。
『なぁ、烏丸……烏丸の好きな桜が咲いたぞ。そろそろ卒業式だろ?……今年で最後なんだ、先生と一緒に学校に行こう』
学校に行くのをやめた途端、先生は部屋の前まで迎えに来てくれた。
どうして今更なのか分からない。だが嫌々来ているというのはなんとなく声のトーンで分かる。
伝わらないようにしてくれているのは痛いほど分かるからこそ、惨めになる。
もう行きたくない。
そう思っていても今日は三月一日、卒業式の日。
今日で先生が迎えに来てくれるのも最後なんだと思えば涙が込み上げてくる。もしかしたら今日で先生とも会えるのも最後かもしれないと思えば先生に返事をする事なく、自分はいそいそと帽子を目深に被れば自らの足で部屋を出る。
『……先生』
『ああ、烏丸。……行く気になったのか?』
『……ううん。先生、今までごめんなさい……自分は、先生の気が引きたくてあんな事をしていた……。悪い事をしている、なんて自覚全くなかったけど……今なら痛いぐらい、分かる』
仲直りがしたくて自分は打ち明けた。
変わらず、先生が大好きだから。
『……ありがとう、烏丸。俺も烏丸が好きだ、大切だと思っているよ』
『そ、それは……!それは、生徒……と、して?』
『ああ、生徒としてだ』
分かっていた。先生が自分を生徒としてしか見ているはずがない、と。
あのメールのやり取りをしている人は幸運な人だ。大好きな先生と毎日やり取りできるなんてなんて幸運で、ズルい人だ。
分かってはいたけれど、その答えは聞きたくなかった。思わず、悲しくなって顔が引きつったように作り笑いを浮かべてしまった気がするけれど、もはやそんな事、どうでもよかった。
自分が先生の一番になれないと分かった時点から、想いは砕け散ったように胸にぽっかりと大きな空白が出来ていた。
『ありがとう、先生。もう学校には行かない……先生と、最後にお花見がしたい』
開けた扉を閉めて先生の目を見てそう言うと、先生は困った顔を見せた。
その眉を下げて困り気味にはにかむ顔は相も変わらず、とても可愛らしい。
やっぱり好きだ。
もう好きになってはいけないと思っていたのに、顔を見ただけで硬く閉じた口元が綻んでしまう。
『……分かった、花見に行こうか』
その声が、少し寂しさを帯びていた気がする。
先生としては学校に言った方がよかったのかもしれない。けれど、これが最後というのならもう一度貴方と花見がしたい。
そんな欲望を前面に出した自分は先生の手を取って繋いで家を出ると土手沿いまでゆっくりと歩く。
時折離されそうになるが強く握り、距離を縮めて歩けば先生も諦めて握り返してくれた。
そしてすぐに土手沿いについて桜の木の下で立って話をした。
あの時のようなレジャーシートは無い。だからこそ、軽く話す程度。
どうしてあんな事をしたのか、先生が嫌いなのか。
色んな問いかけに自分は視線を泳がせ、言葉を選びながら答える。先生にその気がなくても自分は一時、先生に恋い焦がれたのだ。
それは嘘ではなく本当の気持ちで、だからこそこうして最後の日も一緒にいたいと願った。
良かった、今日は心の悪魔は囁かない。
『先生が好きだから』
素直にそう答えると先生は呆れたように頭を抱えた。
『そうだとしてもあれはやり過ぎだ。俺はそういうのが好きじゃない』
『ごめんなさい…先生が、見向きもしてくれなくなるかもしれないと思って……』
『そんなわけないだろう。烏丸は大事な生徒なんだから』
そう、大事な生徒。
それを聞いた時、多少なり不安や焦りはあったけれど比較的、穏やかだったはずの心に再び陰りが出始めた。
どうして自分は生徒以上になれないんだ。同性だから?女の子だったら好きになってくれたのだろうか?
しかし、本当に女の子だったら先生は好きになってくれるのだろうか?それどころか、本当に大事な生徒なんだろうか?
先生には、先生のメールフォルダには自分の知らない女のメールがあった。
先生はその人の事が────。
嘘つきだ。
そんな事、言えるはずがなかった。
先生の言葉を何一つ信用出来ないというのに自分は今も信用しそうになっていた。
何一つ、先生は自分を大事に思ってもいない。優しい先生なんてものはただの幻想でまやかしで何もないというのに、自分は気付かないふりをしてきた。
そして今も、気付かないように蓋をする。
『先生、帰ろう』
そう言って帰る事を促すと先生も理解したように歩いてくれた。
これが最後の時間。
横に並んで歩いて帰れる最後の短い時間だ。これが終われば明日からはもう他人。
今日は卒業式、先生と一緒にいれる最後の日だ。
横断歩道を渡る直前に赤信号になる。
もう昼時近くて車の交通量も増えている。
二人の間には何ひとつとして会話は生まれない。
携帯をじっと見て自分を一瞬たりとも見てくれない先生を横に自分はただ先生を見上げていた。
『せんせ……』
『なぁ、烏丸』
自分が呼びかけようとすると、まるで分かっていたように被せてきた。
一体なんだと目を真ん丸としていると先生は此方に顔を向けて微笑む。
その笑顔を見た瞬間、背筋がゾクッとした。
今まで見た事もないほど、先生の笑顔がまるで本心を仮面で覆い隠しているように見えた。
なにか、嫌な予感がする。
はっきりとは言えないが直感が逃げるべきだと自分に警鐘を鳴らしていた。
こんな時に悪魔は囁く。『アイツは黒だ』と。
そんな事ない、先生は黒なんかじゃない。何が黒だって言うんだ。
一瞬の自問自答。頭が混乱していると先生は自分の腰に手を添えて耳元で囁いた。
『最後まで思い通りに動いてくれてよかったよ。流石、烏丸は先生の大事な生徒だ────』
大事な、生徒。
それを聞いた瞬間、反射的に自分は先生を押し退けた。
全身が酷く拒絶した。先生といる事を。
けれどそれはもっともやってはいけない事だった。それこそ、先生の思うツボだからだ。
ドンッ。
鈍い音と共に目の前で人が、先生が、車に轢かれたのが見えた。
赤信号の横断歩道へと身を押し出されて飛び出た先生は走ってきた車に轢かれた。
いったい、何が起きたのか一瞬分からなかった。
けれど車に轢かれた先生がいるであろう場所から赤い鮮血が地面に広がりつつあった。それがやけに現実味を帯びていなくて、本当に先生が死んだなんて思わせないほどだった。
だが、死んだという事実が現実であるかのように周囲を歩いていた通行人や運転手達が次々に声を上げた。
『人が引かれた!』
『あの子が突き出したんだ!』
『警察を、救急車を呼んでくれ!』
次々に聞こえる言葉を耳に自分は先生が死んだんだとようやく実感を得ると虚無感に襲われた。
あれは自分が突き出したからこそ、死なせてしまったんだ。だが、それにしてもまるで誘発するように耳元で囁いた先生のあの言葉。
どうして、あれほどまでに酷い拒絶反応を感じたのか分からない。
いまだ手のひらに残る先生を押した感触を思い出しながらやってきた警察に身柄を拘束されて連行された。
そこからはドタバタだった。
お前が被害者を突き飛ばすところを見たと言っている通行人がいる、と何度も尋問された。
突き飛ばしたのは事実。だが本当に自分のせいか分からず何も言えなかったが酷く責め立てられているうちに辛くなって自分は容疑を認めた。
本当に先生は死んだのだろうか。もし生きていたらどうしてあんな事を言ったのか、教えてほしい。
逮捕されてからは両親が面会に来て酷く怒られた。
なんとか話しを付けてくれて半年ほどで出てこれたが再び人目を気にして生きていくようになった。
心のうちに疑心暗鬼が生まれ、全てのものに対して疑い目を向けてしまう。
先生が好きという気持ちは変わらない。けれど二度と会えないと思えば思うほど切なさと猜疑心に心が押し潰されそうになる。
冬が来ても自分は何一つ変わらなかった。それは冬を越えても何も変わらない。
だが、桜が咲いて花びらが舞う頃になると先生という満たされていた部分が空っぽになった心は痛みをぶり返すように疼き、切なさを募らせた。
もはや猜疑心なんてどうでもよかった。もう一度会いたい、ただそれだけが心の中を埋め尽くす。
そんな、切ない春の日差しの下で悲しみに暮れていると母親が部屋の扉をノックして声をかけてくる。
『アンタに会いたい人がいるそうだよ、行ってきたら?』
自分に会いたい人がいるなんて、到底思えない。
前々から家にいると辛気臭くなるだとか言っていたからクラブかなにかに連れ出そうとしているに違いない。
そう思って最初は無視しようとしていたがベッドから引きずり出されて家から追い出されると渋々、目的地に向かった。
相変わらず、帽子は目深に被って歩く。人の目は気になるが紙に書かれた住所、そこまで向かって歩くとかなり時間を要したものの一軒家に辿り着いた。
表札を見ても見覚えのない名前が掘られてるだけ。いったい誰か分からず、本当に此処だろうかと不安がりながらインターホンを押すと見知らぬ男性が出てきた。
『ん、どなた様?』
『あ、あのっ、烏丸と言いまして……』
『ああ、烏丸さん。……そうか、君が烏丸君か。どうぞ、入って』
全く見覚えのない男性。しかし、その声はどこか聞き覚えがあって聞いた瞬間から背筋にゾクリと震えが走る。
────あの時と同じ、嫌な予感がする。
逃げた方がいいというのに生唾を飲むほどに自分は期待してしまった。
もしかしたら、もしかしたら。
そう期待して敷地に足を踏み入れて自分は『お邪魔します』と言って中に入る。
リビングではなく二階へと通され、奥にある部屋に入ると眼前に広がった光景に息を飲む。
一面中、見覚えのある少年の姿を写した写真がビッシリとところ狭しに貼られており、その少年の姿を模したぬいぐるみやグッズ、抱き枕まで置かれている。
そしてそのベッドに腰をかけて微笑む男性に見覚えがあった。
『……久しぶり、元気にしていた?烏丸』
やけに優しい、そしてどこか狂気を帯びたその笑顔に自分は息を飲む。
ああ、忘れもしない。あの笑顔は懐かしくも罪悪感を思い起こさせる先生の、笑顔。
どうして生きているんだと目を見開いて、自分は後退りすると背後から男性に肩を掴まれて逃げ道を奪われる。
『先生、あのあと一命を取り留めたんだがなかなか元に戻るのが大変だったよ。烏丸が押したからこんな身体になったんだ、責任取ってほしくて呼んだんだが……どうだ?』
『そ、それは、先生が……!』
『ん?押したのは烏丸だろう?先生はちょーっと仕込んだだけ、いない女の架空メールを作ってみたり、烏丸が嫌な事をして孤立するように仕向けてみたり……』
これでようやく理解した。自分は先生の手のひらでクルクルと踊らされてはめられたんだ。
最初から好きという気持ちすら利用されていた事に気付いてすらいなかった。
全ては、自分が親からも周りからも信頼を失って孤立し逃げ場を失って罪の意識から先生の言う事を聞くようにする為に。
『……先生なら烏丸を大事に出来る、どうだ?ずっと、此処にいたら』
その言葉を聞いて逃げ場を失くした自分は縦に頷く事しか出来なかった。
乾いた笑いしか出ない。自分の知らない間に此処まで追い詰められているとは思ってもいなかったから。
自分はなんて馬鹿なんだと思いながら、またこうして先生と出会えて本心かは分からないが好きなんだと言ってもらえて嬉しかった。
『……お願いします。此処に、いさせてください』
『よかった、じゃあこれから一緒に暮らそう。両親にはそう伝えて奥から。よろしく、烏丸』
その後、自分は酷く後悔する事になった。
あそこまで人を追い詰め、孤立させてくる先生が優しい人なんてはずがないというのに信じ込んだ自分は逃げ場のない中で酷く扱われた。
部屋の外にも一歩も出されず、窓から見える四季折々を眺める事だけが自分に許された事だった。
桜の季節になるといつも憂鬱になる。最初は先生と一緒に入れるのならばと喜んでいたが日に日に増す歪んだ愛情に自分はどうしてこんな事になったんだと桜を眺めながら涙を流す。
あの日、先生を突き飛ばさなければ。
あの日、先生を花見に誘わなければこんな事にならなかったはずなのに。
いくらそう後悔したところで先生の事は嫌いにはなれなかった。
だからこそ、あれ以来から自分は先生が大好きだと言っていた桜が大っ嫌いになった。
────もう二度と、先生と生徒だったあの頃には戻れない。
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