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第1話
「博美 さん、朝食できたよ」
ある春の暖かな朝、藤本 幸太 は珈琲を入れたマグカップを机に置いた。
幸太はブラック、博美は砂糖を一杯。インスタントだけれど、味の濃さも長年の習慣で身体が覚えていて、完璧に淹れられる。
博美は席に着き、自分の為に淹れられた珈琲をひと口飲むと、顔を綻ばせた。
「……ん、幸太の淹れる珈琲は美味しいね」
その言葉に、幸太も微笑む。席に着くと、二人で手を合わせ、朝食を食べ始めた。
「そう言えば、今日は何時に帰ってくる?」
「今日?」
綺麗な笑みをたたえた博美の問いに、幸太は今日のスケジュールを思い出す。もうすぐ四月。新卒採用の受け入れ準備に、ここのところバタバタしているのだ。早く帰れそうにないな、と思ってそのまま伝えようと口を開いた時だった。
(──あ、そうか。今日は……)
「博美さん、今日は早く帰ってくるよ」
「え、別に無理しなくていいのに……」
「いや、絶対早く帰る。だから待ってて」
幸太は眼鏡の向こうに見える恋人を、真っ直ぐ見つめる。幸太の勢いに押されたのか、博美は少し身体を後ろに引いた。うん、と言う返事を聞いて、幸太は内心ホッとする。
(危ない。すっかり忘れてた……)
──十五年前、幸太は博美が講師を務める塾に通っていた。第一志望の高校に合格し、塾を辞めるための手続きをしに来た幸太は、当時の恋人からDVを受けていた博美を助けた。それから紆余曲折あって付き合い始めた日付けが、今日だったのだ。
特別何かをする訳ではない。お互い三十代だしそんな時期はとっくに過ぎた。けれど、年度末の忙しさにピリピリしやすい時期でもあるので、この日ばかりは早く帰ってこようと約束したのが十年前。
思えばよくもこんなに続いているな、と幸太は思う。そして、その相手が博美で良かった、とも。
「幸太、時間大丈夫?」
「え? ああっ」
すっかり朝食を食べる手が止まっていて、幸太は慌ててトーストを齧りサラダをかき込んだ。
「幸太、湯気で眼鏡が曇ってる」
最後の珈琲を啜っていると、博美がクスクスと笑う。毎日の事なのに、こんな些細なことで笑ってくれる彼が、愛おしい。
「いいよ、慣れてるし」
そう言って席を立つ。後片付けよろしく、といつもありがとう、と言うと、美人な恋人は綺麗に微笑むのだ。
「幸太は、良い旦那様だね」
「そうか?」
「ふふ、そうだよ」
そう言って、行ってらっしゃいと背中を軽く叩かれる。ふわりと珈琲の香りがして、その香ばしい匂いに一日のやる気が出てくるのだ。
「うっし、行ってきます」
「気を付けて」
リビングで挨拶をし、外へと出る。暖かい陽光が、幸太の目を一瞬眩ませた。
「……春だなぁ」
そう呟いて、歩き出す。
自分たちの長い春は、ずっとずっとこれからも続くのだろうな。
年甲斐なくそう思うと、胸が温かくなった。この大切な時間を壊さないためにも、今日は早く帰るぞ、と気合いを入れる。
幸太は音痴な鼻歌を歌いながら、仕事へと向かったのだった。
(終)
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