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4:最終幕?
「マルセル」
それは、これまで通り親しさと優しさに満ちた声だった。
この十年近くの人生で、最も多く名を呼んでくれた声。途中、声変わりを経て幼い頃のような可愛らしさは消えたが、低くなったその声にも、俺は常に愛おしさを感じていた。なにせ、可愛い可愛い“我が子”の声なのだから。
しかし、だからこそ俺は戸惑った。この声は、もう二度と聞く筈のない声だったからだ。
「……ゲルマン?」
ハイになった状態から無理やり現実に引き戻された。殴り書いていた手帳から顔を上げてみれば、そこには結婚式の為の、真っ白な衣装に身を包んだ美しいゲルマンの姿があった。
あぁ、なんて神々しい姿なんだ。これぞまさしく、この国の未来を背負って立つ、新しい王の姿だ。
「え?」
ただ、そんな感動も一瞬で混乱へと変わった。
何だ、これは。一体どうなっている。俺の書いた脚本には、もちろんこんな場面は欠片も存在しない。何故だ、どうしてだ。一体、今何が起こっている?
落ち着け、落ち着け、落ち着け。一旦現状を台本のト書きにしろ。そうだ、いつものように。
≪最終幕?≫
〇地下牢・右端から三番目の独房(夜)
◇兵達の声は消え、静寂に包まれる独房。
◇鉄格子の向こうで、微笑みながら此方を見つめるゲルマン(18)。
◇その手には、何やら一本の酒瓶。
◇そんなゲルマンの様子を混乱しながら見つめるマルセル、こと俺……俺?
あれ。“俺”は、一体今何者だ?
「なん、で?」
なんとか“マルセル”として紡ぎ出した言葉は、戸惑いに満ち震えを帯びていた。
そりゃあそうだ。これまで、自らの脚本の通りになるように動いてきたし、周囲もまさにその通りに動いてきた。まさに、脚本というレールに乗った人生を歩んできた俺にとって、こんな不可思議な事態は初めてだ。
どうすればいい?俺は一体、何をどう口にすればいいんだ?何故?どうして?ゲルマン、お前は一体どうしてしまったんだ?
「何でって、そりゃあ……」
「っう、あ」
結婚式の主役でもあるゲルマンは、今頃、皆の前でマドレーヌとの永遠の愛を誓っている頃合いだ。それなのに、どうしてお前はこんなしみったれた場所に居るんだ!俺の脚本はどうなってしまったんだ!
「決まってるじゃないか。マルセル、君に会いに来たんだ」
「っ!」
混乱する傍ら、ガチャリと鉄格子の開く音がした。すると、ゲルマンが当たり前のような顔でスルリと独房の中に入って来たではないか。似合わない。お前にこんな薄汚い場所は絶対に似合わないのに。
「ほら、酒だ。ずっと飲みたかったんだろう?マルセル、君はいつもこの酒を欲しそうに見ていたもんな。子供の頃から」
「え、あ。あり、ありがとう」
「俺達ももう成人だ。好きなだけ飲むといい」
差し出された酒瓶を、バカな俺はとっさに両手で受け取った。
いやいや!一体何をやっているんだ、俺は!“マルセル”は決して酒好きな人物ではなかったのに!
少しずつ、少しずつ、俺の書いた脚本から物語が逸れていくのを感じる。その事実が、俺にとっては恐ろしくて仕方が無かった。
「あ。こ、これは……」
にもかかわらず、ヒヤリと酒瓶から伝わる冷たさに、無意識に喉を鳴らしてしまった。ラベルを見ると、そこには【ブラントン】と書かれている。
「喜んでもらえてよかった。至高の酒だと聞いて、大陸からわざわざ取り寄せたんだ。マルセル。キミの為にね」
「……ゲルマン、お前」
いつの間にか、俺は受け取った酒を両腕に抱きかかえ、少しずつ後ずさっていた。しかし、すぐに俺の背中は壁へとぶつかる。
ただ、それでも俺は更に後ろに下がろうと無駄な動きを試みていた。何故か。先程まで俺を見下ろすように立っていたゲルマンが、眼前に迫っていたからだ。
「何故、俺から逃げようとする?マルセル」
「い、いや。だって」
「もしかして、怒っているのかい?ダンスホールでの事」
ギシと、安い囚人用のベッドが軋む音がする。ゲルマンからは結婚式で振る舞われた酒の匂いだろうか。強めのアルコールの匂いがツンと俺の鼻孔を擽った。
「あれは仕方がなかったんだ。あの場はあぁ言うしか。そうしなければ、キミと一緒になれないから」
「いっしょに、なる……?一体、なにを言ってるんだ?お、お前は」
鼻先が触れ合う程近くに、ゲルマンを感じた。まるで、幼い頃のような距離感だ。ゲルマンの息が、俺の唇に触れる。熱い。頭がクラクラする。
「怒らないでくれよ、マルセル。最初からちゃんと迎えに来るつもりだったんだ。あぁ、分かった。迎えに来るのが遅かったからスネてるんだ」
ただ、ゲルマンの向けてくる視線は、幼い頃のように可愛らしいモノでは到底なかった。ソレは、焼けるように熱く、獣のような衝動を帯びていた。視線だけなのに、肌がヒリつく。
まさか、ゲルマンは酒に酔っているのか?
いいや、違う。
「なぁ、そうだろ?マルセル」
ゲルマンは酔っぱらってなんかいない。なにせその目には、あまりにもハッキリした強い意思が宿っているのだから。
「マルセル、迎えに来るのが遅くなって悪かった。でも、もう大丈夫」
「なん、でだ?お、俺は……お前を、こ、殺そうとした。だから、もうすぐ死刑になるんじゃ」
「何を言っているんだ、マルセル」
分からない。何を言ってるんだ、ゲルマン。もう脚本も何もない。俺は一体何をどう言えばいい?俺は、マルセルは、物語の役割を全うしたんじゃなかったのか!?
「俺が、君を殺すワケないだろう」
「だ、だって!俺はお前を殺そうとしたんだぞ!マドレーヌだってそうだ!お前から奪おうとした!」
早く物語を台本通りの道筋に戻さなくては。今ならまだ間に合う。ともかく、ゲルマンを結婚式に戻さなければ!
「俺はずっとお前が憎かった!だから殺してやろうとしたんだ!いいのか!こんな所にノコノコ来て!おっ、俺はお前に何をするか分からないぞ!」
予想外の事態に声が裏返る。あぁ、なんてみっともない声なんだ。いや、今はそんな事はどうでもいい!ゲルマン、早く結婚式に戻れ!そして、マドレーヌとの愛を誓い、国を繁栄に導くという演説をしなければ!
「お前の信じていたマルセルは、全部偽物だったんだ!愚かなお前は、そんな事もまだ分からないのか!ゲル……っ」
ゲルマン。
そう、最後まで俺が彼の名を口にする事は出来なかった。なにせ、俺の唇は、ゲルマンの唇で噛みつかれるように塞がれてしまっていたのだ。
「んんっ」
ゲルマンからもたらされた酒の香りが、鼻孔の奥に燻ぶる。
これは、俺の好きなバーボンの香りだ。懐かしい。あぁ、痺れる。頭がハイになって、妙な思考に取り付かれ始めていた。
ここはどこだ?独房か?俺の仕事部屋か?俺は一体誰だ?
あぁ、新しい物語が頭の中に雪崩込んでくる。
演目
【ブラントン・プルースト】
これは、ゲルマンとマルセルの新しい物語だ。それが今、開幕しようとしている。
は?やめろ、俺は一体何を考えているんだ。
「んん、っふぅ」
ゲルマンがベッドの上に俺を押し倒しながら、ゆっくりと口内に舌をねじ込んできた。とっさに逃げる舌を、ゲルマンは容赦なく絡めとる。くちゅくちゅと唾液の交じり合ったいやらしい水音が耳の奥に響く。
「っふ、」
口が塞がれてしまっているので、必死に鼻で呼吸をする。バーボンの香りが鼻孔すらも俺から自由を奪う。
酒を飲んだワケでもないのに、独房に充満する酒の香りと、ゲルマンを通して与えられる微かなアルコールを含んだ唾液のせいで、俺は完全に酔っぱらっていた。しかし、それは仕方のない事だ。
「っふぅ、んっ」
この体の持ち主である“マルセル”は、酒を飲んだ事などないのだから。
それに、キスの経験もマルセルには数える程しかない。では、吉川一義にはどうだったか。もう、そんな昔の事は、今や何も思い出せない。
「っはっぁ、っはぁ」
「マルセル……」
長らく俺の口内を蹂躙していたゲルマンの唇が、俺から離れていった。余りに長く激しい口付けだったせいで、唇が腫れているような気がする。閉じていた目を開け、目の前のゲルマンを見上げる。すると、同時に俺達を唾液の糸が繋いでいるのが見えた。いやらしい。
「っはぁ、マルセルッ」
そんな俺を、ゲルマンはどこか興奮したような目で見つめると、繋がる糸を吸い尽くすように、最後にもう一度触れるだけのキスをした。その、甘く啄むような口付けとは裏腹に、ゲルマンは自身の固く隆起するモノをゴリゴリと下半身に擦り付けてくる。
「んっ。ぅあ」
「マルセル……あぁ、マルセル」
待て待て待て待て!これが、あの品行方正なゲルマンか!?
俺の脚本では、ゲルマンはまだマドレーヌに口付けすらしていない筈だ。なにせ彼は愛に肉欲を求めるような人間ではなかった。心で愛を語る青年だった筈なのに。
「マルセル、愛してる」
熱い吐息と共に吐き出された台詞は、元の脚本ではあり得ない言葉だ。言ったとしても、マドレーヌに対してだろう。それを、俺になど……マルセルになど言う筈もない。
「な、んで?」
何故、どうして?
そんな混乱する思考の傍らでアルコールに酔った俺は、目の前の現実から新しい台本を書き起こそうと必死に頭を回転させている。なんてしぶとい作家の性だ。
「マルセル、君が俺を憎んでいるなんて嘘だ」
「え?」
「この、ウソつきめ」
パチンと幼い頃のように、ゲルマンが俺の眉間を指で弾いた。
その間も、俺の下半身にはゲルマンの固くなったモノがこすりつけられる。涼しげな表情とは裏腹に、布越しにも分かる程ゲルマンのソコは張り詰めていた。
ただ、他人の事ばかり言えたモノではない。物理的な刺激にマルセルの若い体も反応し始めていた。バレたくなくて、思わず身をよじる。しかし、ゲルマンはそれを許さなかった。緩く勃ち上がり始めた俺の下半身に、ゲルマンは興奮の色を強めた。
「君は、俺を愛してる。ずっと、ずっと、ずっと……そんな目で俺を見てくれていたじゃないか。俺が君を死刑にすると言った時もそうだった」
「え?」
「君は、自らに死を与える俺すらも……愛おしそうに見つめてくれた。マルセル。キミはずっとこの俺を、ゲルマンという男を――」
愛しているんだ。
そう言って蕩けるような熱い視線で俺を見つめてくるゲルマンに思った。
あぁ、畜生。やっぱり俺はとんだ大根役者だったようだ、と。どうやら俺は、ゲルマンへの“愛”を隠しきれていなかったらしい。
「……はぁっ」
台本にはない溜息を吐く。
目の前には高級な衣装に皺が付く事などいとわず、乱暴に上着を脱ぐ一人の美丈夫。
ゲルマン、大きくなったな。こんなに立派になって。生みの親として、これほど誇らしい事はない。確かに、俺はお前を心の底から「愛している」。ただ、決して間違わないで欲しかった。その愛は、恋慕なんかでは決してなかったのに。
そう、俺のお前への気持ちは“恋慕”ではなく、親が子へと向ける“慈愛”だった。
【ブラントン・プルースト】
≪序幕≫
〇地下牢・右端から三番目の独房(夜)
◇薄汚い独房のベッドの上に重なり合う二人の年若い男。
◇流れるような動作でマルセルの服を剥ぎ取るゲルマン。
◇なすがままのマルセル、こと俺。
「なぁ、マルセル。あの時みたいに隠さずに言ってくれよ。頼む。俺の愛しい人よ」
「……ゲルマン」
「おねがいだ」
ゲルマンが、甘えるような表情で俺を見下ろしてくるモンだから、俺は覚悟を決めた。
「『ゲルマン、生まれて来てくれて本当にありがとう。キミに会えて本当に良かった』」
我が子の望む言葉など、親は何でもお見通しだ。
「あぁっ、マルセル!俺もだ!」
俺の言葉に歓喜に沸いた声を上げる愛しい我が子を、俺はもちろん拒絶する事はなかった。いつの間にか身に纏っていた衣類は、ゲルマンの手によって全て剥ぎ取られてしまっている。ゲルマンの俺を見つめる視線に、更に熱が籠った。
「っはぁ、マルセル。綺麗な体だ」
「っぁ」
愛しい我が子が、俺の体に優しく触れる。自分ですら触れた事が無いような部分まで、余すところなく、隅々まで。その与えられる刺激は、まるで引いては返す波のように俺を翻弄した。強く激しいテンポの良い刺激と、優しく甘い後を引くような刺激が交互に襲ってきて、もう何も考えられない。
「ゲルマン……まっ、て」
「ん?どうして」
「す、こしだけ……まってく、れ」
俺のグズグズに解された秘孔に熱く猛ったモノが添えられる。何をされるのか理解していた筈なのに、それでも経験のない快楽を前に俺は日和ってしまった。しかし、腰を引いて逃げようとする俺を、ゲルマンの優しい笑みが一蹴した。
「ダメ」
「っ!」
熱い剛直が、俺を穿った。
そこからのゲルマンは、最早、反抗期の子供のように俺の言葉など聞きやしなかった。
「マルセルッ!あぁっ、マルセルっ!キミの、愛は、俺だけのモノだっ。マドレーヌになど渡してやらないっ」
「っげる、っまぁ……あ、ぁっ」
子供が親の思い通りになど育たない事は、脚本を書いていく中で幾度もあった事じゃないか。彼らは脚本の進行と共に成長し、そのうち書き手(親)の手を離れ、好き勝手に動き始める。でも、それでいい。それは素晴らしい脚本になる為の、一つの儀式だ。“親離れ”という、子が誰しも経験する独り立ちの時だ。
そして、その時初めて、作品は書き手(親)想像を超えた素晴らしい舞台になる。
ゲルマンも、“そう”だったという事だ。だから、きっとこの舞台は素晴らしいモノになるだろう。
「マルセル。これからも俺の傍に居て。ずっと俺だけを愛して」
赤子のように俺の素肌に吸い付いてきたゲルマンの後頭部をソッと撫でながら、俺は静かに目を閉じた。
「ゲルマン……」
目を閉じた拍子に目尻から“何か”が流れる。
オワコンだと言われて、誰からも必要とされなくなった。時代からも聴衆からも見捨てられていくのを肌で感じながらも俺は、それでも自分の信じた作品を書き続けた。それで脚本家として散る事になるのだとしても、それはそれで本望だと……
思えるワケが、なかった!
「俺はこれから、お前だけを見てお前だけを愛そう。だからっ」
俺は、脚本家だ。聴衆に求められたい。求められるモノを描いてみたかった。そして、誰か一人でもいい。俺の脚本で幸福をもたらしたかった。
その為なら、
「おれの事も、最後まで愛してくれっ!」
「もちろんだ、マルセル!最後まで、俺はキミだけを愛そう!」
恥も外聞もプライドも全部捨てる!だって、俺は脚本家だ!求められるようにしか生きて行けない!それが、脚本家として残った最後の本心だ。
これまでの自分を支えてきた拘り、自信を形作ってきた全ての執心。大切にしたかった。捨てたくなどなかった。しかし、それが幸福をもたらしていないなら、ただの空虚な執着にしか過ぎない。
だから、ゲルマン。これからの俺はお前の望むような脚本を書こう。
「あぁ、マルセル。やっと手に入った……」
狂おしい程の愛に包まれながら、俺は頭の中の台本を捲った。
さぁ、幕が上がった。
ヨシカワイチギの作家人生は、まだ終わっていない。
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