38 / 75
第38話 聞きたくない ♢壱成♢
駐車場に車を停める。なにか異様な不安にかられて心臓の動悸がひどい。
車を降りてゆっくりと歩き、エレベーターに乗った。
なにかがおかしかった。なにが?
京が車の中で待っていたからか……。
さっき見た京をゆっくりと思い出す。
そして、違和感の理由にやっと気づき、サッと血の気が引いた。
そうだ、黒髪じゃなかった。ハニーベージュの京だった。
あれは“ノブ”じゃない。“京”だ。
どういうことだ……。
京だと名乗るつもりなのか……?
正体をあかせば俺たちは終わる。そんなことは京だってわかっているはずだ。
“ノブ”の車に“京”が乗る。もうそれだけで名乗ったも同然だ。
心臓の音が耳元でうるさく響く。
そうか……。わかっているのに……正体をあかすんだな。
終わるのか……。もうこの夢のような幸せは終わりなのか……。
心臓が壊れそうなほどドクドクして、目の前が真っ暗になっていく。
俺は……京を失うのか……。
ずっとこのまま一緒にいられると思っていた。京も俺と同じ気持ちだと信じていた。
俺の思い上がりだったのか……。
でも、そこまで考えて、京らしくないな……と思った。なにかが違う気がした。
あんなに溺愛してくれていた京が、急に関係をやめようとするだろうか。
告白をやり直したい、と言われたときのことを思い出す。
もしかして……セフレをやめるため……?
ちゃんと恋人になるために、京だと名乗ろうとしてるのか……?
ふたたびドクドクと心臓が嫌な音をたてる。
頼むからセフレでいてくれと……あんなに頼んだのに……。
お前が京だと名乗った瞬間に、俺はもう知らない振りができなくなる。
どんなにお前と一緒にいたくても、俺は自分の手で終わりにしなければならない。
どっちにしても、俺たちはもう終わりだ……。
幸せな夢が終わってしまうんだ……。
俺の手で、終わらせなければならないんだ……。
エレベーターが一階で止まる。扉が開くと、そこには“京”が立っていた。
俺が鍵を渡したのは“ノブ”だ。“京”はエントランスを通れないはずだろ……。
「あの、榊さん、おかえりなさい」
いつものノブの表情でも、京の表情でもない。
どこか強ばった顔の京を見て、俺の心臓は完全に壊れた。
京がどっちのつもりでも、聞きたくない。
聞いてしまえば、結果は同じだ。
「榊さん、あの、お話したいことがあるんです」
「…………嫌だ」
「え?」
「…………聞きたくない。帰ってくれ」
「えっ、あのっ」
俺は急いでボタンを押してドア閉めようとした。
ところが京の手がそれを阻止して扉はふたたび開く。
「あの、榊さんっ。俺、大事な話が――――」
嫌だ。聞きたくないっ。
俺は京を押しのけエレベーターを降り、全力で走り出した。
後ろから「壱成っ!」と呼ぶ京の声に、一気に涙があふれ出る。
嫌だ……終わりたくない……!
京を失ったら俺はどうすればいいんだ……!
エントランスを飛び出し全力で走った。
「壱成っ、待って!」
すぐ後ろに京が追いかけて来ていた。
必死に走ったところで、十も若く鍛えている京に俺がかなうはずがない。あっけなくマンション前の歩道でつかまった。
「壱成、待って、話を聞いてっ。ずっと騙しててごめんっ! でも俺っ」
「やめろっ!! 聞きたくないって言ってるだろっ!!」
俺はお前と終わりたくないんだっ!
京から離れようと、俺はつかまれている腕を力いっぱい引いた。
その反動で足がもつれ縁石に引っかかる。まずい、と思ったときにはもう俺の身体は車道に転がっていた。
「壱成っっ!!」
そのあとは一瞬だった。
キィーーーーーーーーッッ!!
耳が割れそうなほどの急ブレーキの音。ドンッという嫌な音。
ああ、俺は死ぬのか……そう思った。
身体を打った痛みはあるが、さほどではない。不思議なことに意識もしっかりとしていた。
すごい力で腕を引っ張られた気もする。……引っ張られた?
腕が動く。足も動く。右半身を打ったような痛みはあるがそれだけだ。
人の叫び声が響いた。
その瞬間ハッとした。
身体を起こす。車道に転がったはずが、なぜか歩道にいた。
京は……京はどこだ……?
「おい!! 誰か救急車!!」
誰かの叫び声。
その誰かのそばに人が横たわっている。人影の隙間からハニーベージュの髪が見えた。
「き……きょ……」
目の前が真っ暗になっていく。視界がグラグラする。身体が鉛のように重くて動かない。それでも必死で這いずるように足を動かした。
「き……京……?」
無我夢中でやっとたどり着く。
道路に横たわる京。ハニーベージュの下は、流れ出た血でコンクリートを染めていた。
「京!!」
ぐったりと動かない京の身体に必死ですがりつく。
「京!! 京!!」
身体をゆすっても頬をたたいても京の目は開かない。
「う、嘘だっ!! 嫌だっ!! 京ーーーーーッッ!!」
ともだちにシェアしよう!