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第2話 推し
「オーナー!!終わったよー!!」
バァン!!と扉を開けると、驚いたらしきお姉さん達のきゃあ、という悲鳴。
「あ、ごめんなさい。びっくりさせちゃった?」
深い色と言えば聞こえは良いけれど、要は使い古して小汚なくなった煤けた扉を開けるとそこには開店前の談笑中だった薄着のお姉さん達。
使い込んで飴色になったテーブル、申し訳程度の綿しか詰められてないギシギシうるさい布張りの椅子と奥にはカウンターとキッチン。
3階建ての1階と2階がお姉さん達の職場で、3階はお姉さん達の自室があるから階段の途中の扉には無骨な南京錠がしてある。もちろん不埒な輩がお姉さん達のプライベート空間に潜り込まない為に、だ。
「あらぁ~!ウルじゃない!」
「あんたどうしたの、その顔!鼻血も!!」
「ちょっとちょっと!オーナー!早く冷やすもの持ってきてー!ウルの可愛いお顔がぁぁ!!」
突然飛び込んできた僕にびっくりしてた薄着のお姉さん達に囲まれて、あっちからもこっちからも豊満な乳をムギュムギュ押し付けられるから若干息がしにくいよ~。
ふわふわで程よく弾力があって良い匂いがして気持ちいいんだけど。でも僕はこのふわふわよりも――
「なんだ喧しい!」
きゃいきゃい騒ぐお姉さん達の声を掻き消すバリトンボイスに僕は嬉々としてボインの谷から顔を出した。
「オーナー!終わったよ!ねえ、僕もうここで働いても良いでしょ!?」
終わったって言っても処刑回避しただけでまだ最後の仕上げは残ってるんだけど、それは今すぐ出来ないしそこで失敗する事はほぼないに等しいからね!
「終わったって……、その前にお前その顔!」
両頬はジンジン痛いしまだ耳はキーンってしてるし、横からお姉さんの一人がティッシュで鼻を押さえてくれてる状態だけど。お姉さんにお礼を言ってからオーナーの逞しい胸に飛び込んだ。
「んんんんー、雄っぱい最高~!!」
あ、鼻血飛んだ。ごめん。
でもオーナーの雄っぱい久々なんだもん!この!むっちり感!たまんねぇ!ふわふわよりもオーナーのこのむっちり雄っぱいの方が好きなんだー!!
なんて思いつつうっとり見上げればオーナー……エオローの、男らしい精悍な顔。僕の顔が余程酷いのかめちゃくちゃしかめっ面だけど、それがまたカッコいい。
柴犬みたいな手触りの長めの赤い髪を無操作に後ろで結び、夕焼けの赤とオレンジが混ざり合ったような瞳はきりり、としている。すんごい美形!って感じじゃない、野性的な美はその鍛え上げられた体と相まって本当に男らしい。でも騎士の服着せて髪型整えたら多分美形騎士、とか言われるくらいには整ってる顔。
だけど今のオーナーはくたびれた生なりのシャツと洗いざらしのゴワゴワな茶色のパンツとヨレヨレになった所々はげかけてるくるぶしまでの革のブーツ。ついでに無精髭も生やしてて、僕はワイルドで好きだけどお姉さん達にはとっても不評な見てくれだ。
でも良いんだもん。オーナーが他の人に言い寄られたら嫌だから無精髭のもっさいオッサンみたいな扱いが安心するよ。
「あー、オーナーの雄っぱい~……」
「揉むな揉むな!」
僕はどんなに鍛えてもこんな筋肉ムチムチにならないから憧れる。このムチムチ胸筋で筋肉ルーレットとかして欲しい。
「オーナー、僕家も追い出されて行くところないから雇ってくれるよね?」
またバッ、と上を向いたら途端に目が回り出した。
あれれ、王太子に殴られた衝撃が今更出てきたかな?ぐらんぐらんと回る景色に気分が悪くなってゲロッ、と吐いた気がする。
「きゃー!ウルが吐いたー!」
「死なないでウルー!!」
うん。お姉さん達がパニックになってるから気がする、じゃなく絶対吐いたわ。ごめん。
◇
『光の勇者と救世の御子』という小説の世界、もしくはそれに酷似した別物かもしれないけど、ここはブランクルーンと呼ばれる世界。
光の勇者と救世の御子の物語はネットから始まったBL小説だ。
作者がオメガバースとDom/Subユニバースにはまってたのかこの世界にはバース性×ダイナミクス、男性妊娠可という設定モリモリの第二の性がある。
他の組み合わせの人とかもいるっぽい表記はあったものの物語に関わってくるのはわかりやすいα×Dom、β×Normal、Ω×Subの3種。
ただ流石に盛り過ぎたと思ったのかΩのうなじを噛むと番契約が成立、だから番のいないΩは常に首輪でうなじを守るというオメガバースの設定は残しつつ運命の番とか定期的な発情期とかはいない。
が、Sub性を持つ人はDom性の人のグレアと呼ばれるオーラみたいな物に当てられて発情状態になってしまう、という設定はあった。
ちなみに僕はΩ×Sub、世間から庇護対象、もしくは嗜虐対象として見られるヒエラルキー最下層のか弱い存在だ。だから僕の首には頑丈な首輪がはまってる。一応偽物とは言え王太子の婚約者だったから万が一があったら困るという王城側からの依頼でつけさせられた。
それまではどこの馬の骨にでもくれてやるとでも思ってたんだろう。婚約者(偽物)になるまでうなじを保護する物なんて渡された事なかったし、何だったら番になるつもりもない暴漢にでも噛ませて番以外を受け入れられない僕を苦しめようとすら思ってたのかも。
だけど度重なる虐待と服毒で体がおかしくなったらしく、グレアを感知できない子供かNormal性のように僕も全く感知できないし反応しないからある意味楽だ。
だって抑制剤飲まなくてもグレアに当てられて勝手にDom性に従ってしまうなんて事が起こらないからね。そこだけは僕を虐げまくった人達に感謝するよ。その手で僕を従わせようとした輩は偶然を装って事故らせたし。魔法でね、ちょちょい、ってね?頭に金盥が降ってくる程度の可愛い事故だよ。もれなく気絶するくらいには痛いけどね。
こんな感じで僕の周りに悪党は多いけど、この光の勇者と救世の御子という物語には絶対的な悪がいる。
魔王、と呼ばれるその存在は世を混沌に陥れ、幸せだったヒロイン♂ハガルを不幸に叩き落とすのだ。
伴侶を殺し、国を蹂躙し、滅ぼし尽くそうとする魔王。人間だった頃の名は『ウルティスレット・フェンネル・アルタメニア』――僕である。
ウルティスレットは父親が愛する恋人と引き裂かれ、親に決められた伴侶との間に出来た子供だった。生まれてすぐ母親♂はあっけなく死んでしまい、祖父母に3歳まで育てられたのだけど、その祖父母とも死別してしまう。
クソな父親は喪に服する事もなく即恋人だった今の継母と再婚し、すでに彼らの間にはウルティスレットと同い年の子供がいた。祖父母に守られていたウルティスレットの日々はそこから地獄と化すのだ。
母親♂の形見は全て燃やされ、ウルティスレットの部屋は薄暗くジメジメした地下室になった。暖房器具もない部屋は冬場は凍える程寒く、それなのに薄い毛布1枚しかない。3歳の子供には酷すぎる仕打ちで、それまで祖父母に愛されてきたウルティスレットは泣き叫んだ。――やってきた父親に殴られるまでは。
何度も繰り返されるうち、小さな小さな子供は泣いても無駄だと悟ってしまった。泣けば痛い事をされる。静かにするしかないのだと。
痩せ細り、表情もなく、薄汚い彼を同い年の弟にあたるハガルは気にしつつも父親に言われるまま関わらずに生きてきた。
今のウルティスレット――僕をいびり抜いたのはハガルやハガルの母、使用人達。でも小説ではハガルは荷担しておらず、ハガルの母や一番下の弟、使用人達がウルティスレットをいびり抜いていた。学園では敵対する貴族達に毒盛られたりいびられたり、というのはウルティスレットも僕も同じだ。
小説でのハガルはただの心優しいΩ×Subの少年として描かれていて、間違っても今の僕にやったみたいな真似はしてなかったけれど、だからと言って虐げられる兄を助けようともしなかった。
ウルティスレットは継母達からのいびりに耐え、でもいつか誰にも愛されずに死ぬだろう、と思っていた所へ王太子の婚約者になったと吉報がもたらされたんだ。
社交界に出ていないウルティスレットを王太子が知っている筈もない。なのに婚約者になるわけがない。――そんな当然の事が一般教養すら教わっていないウルティスレットにはわからない。
だから必死で頑張った。辛くても、悲しくても、無我夢中で頑張った。もしかしたら自分も幸せになれるのかもしれない、とそう思って。
父親も王太子の婚約者になったウルティスレットにそれまで与えなかった衣類や貴金属(もちろん公爵家として舐められないギリギリのラインだ)、教養を必要最低限与えるようになった。
もしかしたら父親ともいつか笑い合える日が来るかもしれない。ハガルや2つ年下の弟にするみたいに抱き締めて「良くやった」と褒めてもらえる日が来るかもしれない。――そう思って必死に頑張ったんだ。
その結果が、あれだ。正式な婚約発表も兼ねた卒業パーティーでの偽りだった婚約の破棄とそもそも本当の婚約者は自分ではなかったという真実。
絶望するウルティスレットにハガルはただ悲しげな顔をするばかりで手を差しのべる事もなかった。
そもそも僕ならともかく、ウルティスレットが誰かを陥れるなんて出来る筈もない。小説ではチラッとしか書かれてなかったけど気弱な彼は王太子の婚約者という名目があったからこそ表立って攻撃されなかったけれど、陰では散々攻撃されてたんだから。
そんなウルティスレットが加害者になるなんてあり得ないとちょっと調べたらわかる事なのに、奴らは堂々と糾弾しやがった。でっち上げた証拠と共に。
そこまで憎まれてるのに助命嘆願なんてして、この先に希望のないウルティスレットを生かして一体何になるというんだ。
隣国の王太子が見初めてくれる?第二王子が求婚してくれる?ずっと側にいた従者と愛の逃避行に出る?そんな希望すら見出だせない生は逆に苦しみを引き伸ばすだけだろう。僕は読んでいてとても腹が立った覚えがある。
しかも王城から追い出されたウルティスレットはもちろん公爵家の馬車にも乗れず、トボトボ歩いて家に向かう途中暴漢に襲われて犯されてしまうんだよ。
嫌だって泣く彼を無理矢理に犯し尽くした暴漢の一人がぽろり、と漏らした犯人の名前はより絶望をもたらした。
Subを同意なく無理矢理従わせた事で起こるSubドロップの中、朦朧としながらそれでも、それでも、とボロボロになったまま家に辿り着いた彼を迎えたのはクソな父親で、間違いなく除籍された事を告げられ、少ない銀貨を放って寄越された。
――散々に穢されたお前に駒としての価値もない。ここから去るが良い!
暴漢を雇ったのは父だった。
だってまだ誰もウルティスレットが襲われた事を知らない。誰かが連れ去られるのを見ていても、もしかしたら命からがら逃げられたのかも知れない。けれど意識がないと思ったらしい暴漢が目の前で父の名前を口にして依頼は達成した、と魔導音声便で報告していた。
信じたくなくて、痛む体を引きずって帰ってきて、父が穢された事を知っていたから信じたくなかった事は真実だったのだと知る。
騒ぎを聞き付けて出てきた弟からも
――へぇ、兄さん除籍されたんですか。あ、もう“兄さん”じゃありませんね。平民のウルティスレットさん。二度と会うこともないでしょうけど、お元気で。
なんて嘲笑われて。
散らばる銀貨とぶつけられる悪意ある言葉に茫然としながら、けれどいつまでもここにはいられないと悟り痛む体に鞭打って銀貨を拾い集めるウルティスレットをさらに嘲笑ったのは彼が唯一心から信じていた従者の青年。
彼はウルティスレットに仕えるふりをして本当は父親の命令で彼に毒を盛ったり、ハガルの失敗をウルティスレットに擦り付けたりしていた。主人を慰めるその唇で、裏では主人を口汚く罵っていた。
最後の希望も消えたウルティスレットは絶望のあまりヒエラルキー最下層のΩ×Subにしては珍しい膨大な魔力を暴走させ、そして――魔王になった。
冷徹で、無慈悲。残虐な魔王に。
小説の第二部では魔王により伴侶である王太子を失ったハガルが光の勇者と共に魔王討伐の旅に出る。
最後には魔王を倒し、魔王の心臓から取り出した復活の玉で伴侶を蘇らせ幸せに暮らしました、めでたしめでたし。
……めでたいわけがあるかー!!!と、叫んだ僕がブランクルーンの世界にやってきたのは8歳の時だった。
やってきた、というかクソな父親に殴られて頭を打った拍子に別の世界で生きていた記憶を思い出したと言うべきか。
小説ではそこまで絡みのなかったハガルが率先して僕を虐げてきたから混乱したけど、この世界がブランクルーンの世界、もしくは酷似した世界だと確信したのはそこから2年後。王太子の婚約者候補として名前が上がったと言われた時だ。
先の展開を知ってる僕は自分が魔王になってしまう事を回避したかったし、何よりウルティスレットじゃなく僕になったから家族だからいつかは……という期待を持たなくなった。だって僕の家族じゃないもん。
暴力、毒、罵倒、食事抜き。ありとあらゆる嫌がらせは受けたけど僕には全然堪えない。いや身体的には色々ヤバイけど、でも僕には推しがいたから。
光の勇者ティール・エーデルワイスの育ての親、エオロー。
ティールは僕より2つ年上で、エオローは小説では確か30半ばだったかな?ちょい役の完全なる脇役なんだけど挿し絵にちょろっと載ってたエオローは僕の好みドストライクで。
だからクソな父親の目が離れる学園生活の間に隣国のエオローが営む店まで行ったんだ。
まぁ娼館だから摘まみ出されたんですけども。しかも制服で行ってしまったから貴族だってバレたし。
その時に『万に一つお前が貴族籍を失くして路頭に迷う事があったなら雇ってやる』って言質取った。僕は僕の未来を知ってたから喜んで応じたんだ。
エオローは貴族令息の学校に行ってるくらいだから大事に育てられてると思ったんだろうけど、何回か会いに行くうちに僕が血を吐いたり(毒盛られた)流血してたり(暴漢を撃退した)明らかに殴られた跡(クソ親父もしくは継母にやられた)をつけてたりしたもんだから『その気があるなら貴族籍から抜けて来い』って条件が変わったんだよね。意味は同じだけど、他力か自力かの違い。
だから僕はエオロー……オーナーのその言葉だけを糧に頑張ったんだ。
姿絵を描くのに口の固い画家を連れていったらめっちゃ怒られたけど、姿絵があればオーナーが側にいるみたいで頑張れるって言ったら手で頭くしゃくしゃにしてちょっと悩んだ後黙って絵を描かせてくれた。
色んな人に裏切られてきたウルティスレットだけど、オーナーは大丈夫。そう信じて、この終わりの日を夢見て頑張ったんだ。
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