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第59話 442Hzの優しさ
日本初公演を大成功に納めたオリヴァー・グリーンフィールド。コンサートを無事に終えた彼の日本での仕事は、残すところ自ら望んで演奏を引き受けた映画音楽の録音のみ。
――彼が日本をたつまであと二日。
「あっはははっ、いやぁ、もう最っ高でしたよ!昨日のコンサートはマジで音楽史に残りますって。くくっ、あっははっ。」
色 さんが音楽監督を務める映画音楽の録音。色さん自身の演奏は既に全曲撮り終え、あとはヴァイオリンを弾かせろと駄々を捏ねてきたオリヴァーの到着を待つばかりなのだけれど。
つい先程電話をくれたアマンダさんによれば、朝一で入っていたテレビのインタビューでオリヴァーが余計な事を喋り倒したせいで予定が盛大に遅れているとのこと。おおかたお気に入りのアニメ映画の話にでも熱が入ってしまったのだろう。
そんなわけで僕と色さん、それからレコーディングエンジニアである黒澤さんと、いつものメンバーでスタジオで待ちぼうけとなっていた。
……となれば当然時間つぶしの話題は昨日のコンサートになるわけで。
朝から耐えていたのだろう黒澤さんの我慢がついに限界に達したらしく、先程からコンサートの感想と言う名の色さん弄り倒し大会が黒澤さんの大爆笑と共に繰り広げられている。
色さんはデスクに肘をつき、いつも以上に口元をへの字に曲げてそれを甘んじていた。
「いやぁ、マジでチケットとれてよかったですよ。くくっ、間違いなく人生で一番のインパクトだった、ぷ、くく、あはははっ、」
「……そりゃどうも。」
デスクをバシバシ叩きながら笑い転げる黒澤さんに、色さんの眉間の皺が深くなる。
多分、メディアも大荒れなんだろうなぁ。朝からこうして収録のお仕事だったのであまりメールチェックは出来ていないけれど、会社経由で僕のパソコンに送られてくるsikiへの取材依頼がかなりの数届いていたのは間違いない。色さんのステージデビューは世間にとっては色んな意味で衝撃だったみたいだ。
色さんの厳しい視線が、黒澤さんだけではなく僕にも向けられているような気がするのは、気のせいだと思いたい。
「もうこのへんで勘弁してくださいよ。……彗 さん、オリーあとどのくらいかかるって?」
明らかに話を逸らしたくて振られた話題に、僕は苦笑いしつつ手元の時計を確認する。
「そろそろだとは思いますが、確認してきますね。」
オリヴァーのことだから予定がさらに押している可能性もある。そろそろアマンダさんに連絡を取るべきだろう。
ついでに色さんと黒澤さんにコーヒーでも買ってこようと僕は席を立ったのだけれど、
その瞬間、スタジオの重いドアが凄い勢いで開いた。
「おいシキ、来てやったぞ!」
……この人、ホント自由だな。
遅れてきたにも関わらず、謝罪の言葉ひとつなく堂々とドアを蹴り飛ばして入ってきたオリヴァーに、色さんも黒澤さんも苦笑い。
ご機嫌なオリヴァーの背後でアマンダさんが「うちのバカがすみません」と日本語で謝罪するのももはや見慣れた光景だ。
オリヴァーは雑にではあるがドアを開けアマンダさんをエスコートして手近な椅子に座らせてから、自らもその隣に腰を下ろそうと椅子を引く。
が、その姿に違和感を覚えた。
なんで、と僕が疑問を口にするより早く、色さんの口が開く。
「オリー、それどうしたんだ?」
色さんの視線はオリヴァーの肩、正確に言えばその肩に背負われていた見覚えのないヴァイオリンケースに注がれていた。
愛器であるグァルネリが収められているであろう白い革製のケースとは逆の肩に背負われている見慣れない茶色の革製のケース。二つのヴァイオリンがオリヴァーの両肩にあった。
不測の事態に備えてヴァイオリンを二挺用意している演奏家もいるにはいるけれど、オリヴァーの持つグァルネリは唯一無二。グァルネリの為に演奏をしていると言い切るくらいグァルネリを愛する彼が、予備のヴァイオリンを持つなんてありえない。だとすれば、そのヴァイオリンは一体?
僕達の疑問の視線を受け、オリヴァーはグァルネリのケースを隣の椅子に置いてから、もう片方の謎のヴァイオリンケースを僕達が囲んでいたデスクのうえに置いた。
「取材依頼してきたメディアのいくつかが同じ要望をよこしてきてな。仕方なく今回はこいつも持ってきてやった。」
よく見れば茶というより飴色に変わっている年季の入ったケース。オリヴァーがロックを外して蓋を開けば、中には深い飴色をしたヴァイオリンが眠っていた。
「オレのファーストヴァイオリンだ。」
「「はぁ!?」」
ふふん、と自慢げに胸をそらすオリヴァーに、色さんと黒澤さんは同時に声を上げ身を乗り出していた。
「え、これファーストなんですか!?」
「お前いきなりこのサイズかよ。」
僕も声には出さなかったけれど十二分に驚いた。アマンダさんだけが僕達の驚愕の理由が分からず眉をひそめていたけれど、少しでもヴァイオリンの経験があるのなら皆僕達と同じような反応を示すと思う。
音楽においては一体どれだけの時間音に触れ練習を積んできたのか、その時間がそのまま技量に反映されてくると言われている。
ヴァイオリンもそういう傾向が強く、名のある演奏家は幼少から始めたという人がほとんど。色さんもしかりだ。
まだヴァイオリンをきちんと持つことすらできない小さな頃から、分数ヴァイオリンと呼ばれる子供用に作られた小さなヴァイオリンから始めるというのがわりと一般的なのだ。
僕も、恐らくは色さんと黒澤さんも分数サイズの頃からヴァイオリンを手にしている。
だからこそヴァイオリンの貴公子と呼ばれるオリヴァー・グリーンフィールドが正規のサイズからヴァイオリンを始めただなんて信じられなかった。
「ヴァイオリンをやると決めて一番初めに手にしたという意味ではこいつがファーストだな。それ以前にもじいさんの楽団や父の経営していた音楽スクールで分数サイズを弾いてはいたぞ。まぁ、オレ個人のヴァイオリンではなかったが。」
そうか、忘れていたけどグリーンフィールドの家はジャズ音楽の家系。
ジャズトランペッター奏者である祖父とジャズ作曲家の父。本人も幼少期はジャズ音楽に傾倒し、おじい様の創設した楽団でピアノ奏者として注目を浴びていた。
「ガキの頃はじいさんの意向でとにかく色んな楽器をやらされたな。ヴァイオリン、ピアノ、コンバス、サックス……フルートやクラリネットなんてものまでやったぞ。」
「あー……なるほど、オリーもそういう家系か。」
オリヴァーが弾いたことのある楽器を指折り数えるのを横目に、色さんがげんなりと息を吐く。
ご両親が音楽で成功を収めている者同士、たぶん僕のような凡人にはわからない苦労があるのだろう。そういえば僕がマネージャーになってすぐの頃の色さんはヴァイオリン教室をはじめ、様々な音楽教室に通っていた気がする。
きっと沢山の音に触れて、経験を積んで、オリヴァーも色さんも自分の音楽を見つけたんだろう。
僕の視線はいつの間にかケースの中のヴァイオリンに向いてしまっていた。
これがヴァイオリニスト、オリヴァー・グリーンフィールドの原点……
「触ってみるか?」
声をかけられてはっと我に返れば、僕を覗き込むオーシャンブルー。
「な、だ、ダメですよ。」
言葉の意味を理解して慌てて否定するより早く、オリヴァーはケースからヴァイオリンを取り出し目の前に差し出してきていた。
「どうせ今は使っていないものだ。……弾いてみるといい。」
ほら、とさらに近くに差し出され、僕の心臓はズキリとした痛みと共に跳ね上がった。
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