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第1話 直人と結

「お待たせしました。本日のおすすめ、水出しコーヒーです」  個人経営のカフェ『月の(しずく)』の唯一のアルバイトである山名結(やまなゆい)は、テーブルに慣れた手つきでコースターを敷き、そっとグラスを置いた。丸みのある形をしたグラスの中で、氷がカラリと涼しげな音をたてて揺れる。  ミルクとガムシロップが入った容器を添えると、長い脚を少しだけ窮屈そうに曲げて座ったスーツ姿の男性が、作業中だったノートパソコンを打つ手を止めた。 「ありがとう、結。今日はラストまでだよね? 待ってるから一緒に帰ろう」  優しくかけられた声は、低いけれど柔らかく、温かい響きが心地良く耳に入ってくる。  真っすぐに向けられた涼し気な目元は大人っぽくて、柔らかなこげ茶色をした瞳は少し色素が薄く、吸い込まれてしまいそうな雰囲気だ。  その瞳に笑みを浮かべて、見上げてくるその男性の名は久我直人(くがなおと)、付き合って半年になる結の年上の恋人だ。  うっかり見惚れてしまっていると「結?」と小さく呼ばれて、ぽっと色白な頬がピンク色に染まる。  ネクタイを外しシャツの襟をくつろげたラフな格好なのに、それがかえって様になるほど容姿端麗な恋人を前にすると、彼の美貌に未だ慣れない結の心臓は無条件に鼓動を早めてしまうのだ。   「あっ、うん。嬉しいけど直人さん、明日も仕事じゃないの? 疲れてるのに待ってるの大変じゃない?」  空いたトレーを胸の前でぎゅっと抱きしめて、長い睫毛の大きな瞳が輝く。さらさらとした黒髪を揺らしながら、他の客に聞こえないようその華奢な体を少しかがめて小声で話す結に、直人は即座に首を横に振った。   「全然。夜遅くに結を一人で帰すわけにはいかないだろう。それに明日は休み。休日出勤も毎週となると流石に嫌になってくるからね」 「だけど終わるまで、まだちょっとあるし家もすぐ……」  そこまで言いかけたところで「結くん、ちょっとこっちお願いねー」と、カウンターから高らかに店長のお呼びがかかった。 「はい!」  勢いよく返事をしてから直人と目を合わせると、「早く行ってあげて」と言わんばかりに、視線で背中を押されてしまった。 「ごめん。じゃあ、あとで」  申し訳なさそうに眉を下げた結の言葉に、笑顔で頷く直人に背を向ける。  後ろ髪を引かれながらカウンターに向かうと、テイクアウトの注文レシートがかさんでいるのが見えた。  (やばっ、いつの間に……!)  時計は19時を回ったところで、つい先ほどまで明るかった空は、夜の色に染まり始めていた。  電車の駅と住宅街との間に位置する『月の雫』は、その立地の影響もあってこの時間からひと足が増え始めるのだが、それがここ最近の猛暑続きで仕事帰りにアイスコーヒーをテイクアウトしていく客が多いのを、うっかり失念していた。 「すみません、店長」 「いいの、いいの。彼氏、今日は早めに仕事終わったのね」  慌てて注文を確認しながらコーヒーマシンを操作し始めた結に、店長の綾子がにんまりとした顔を向けてきた。  綾子は結の雇い主でもあり、直人との関係を知る貴重な存在だ。『いつも萌えを供給してもらえてるから』という謎の発言とともに、応援してくれて、時には結の恋愛相談にのってくれたりもする。  恋愛経験が乏しい、というかほぼ皆無なうえに同性の恋人ができて右も左も分からなかった結にとっては、いろんな意味で頼りになる人なのだ。    綾子の言葉に少し顔が熱くなりかけて、それを悟られまいとテイクアウト用のコーヒーを手際良く次々に出していく。  大学に入学したのと同時に始めたこのアルバイトも、もう3年目。ともなれば、大抵のことはひとりでもこなせてしまう。そのせいか、綾子には他にアルバイトを雇う気はこれっぽっちもないらしいから困りものだ。  レジとコーヒーマシンの間を結が行き来している間に、綾子は店内の客へのリザーブやスイーツの箱詰めなど、息の合った動きで注文をさばいて乗り切っている。 「すごい込み具合だったわね」 「ほんとに。店長、バイト増やしてくださいよ」    注文が途切れて、綾子が汗をぬぐった。すかさずバイト増員の要請を入れてみたが「考えとくわ」と、いつもの調子で流されてしまった。  静かになった店内で、コーヒー豆の補充をしながら、ちらりと恋人の様子をうかがう。  どうやら本当に結のアルバイトが終わるまで待つつもりらしい。結が運んだコーヒーをひと口飲んで、落ち着いた表情をパソコンに向けていた。  待ってくれるのは嬉しいが、日々、激務をこなしている直人の体のことを思うと、申し訳ない気持ちになってくる。  自分のことは後回しでいいから、時間があるときはゆっくりと休んでほしいと常に思う。  そんな彼の姿を見て、ふと、直人と出会った時のことが頭に浮かんだ。  出会いはまだ冬が始まったばかりの、このカフェだった。  あの時もテーブル席に座って彼はパソコンを広げていた。注文されたコーヒーを運んで、近くで見た直人の顔はひどくやつれていて、今にも倒れてしまいそうなほど顔色が悪く見えたのを覚えている。  そんな様子がなぜか気になって、結がサービスという名目でチョコレートケーキを出したのがきっかけだった。ケーキをひと口含んだ時の、感極まったような(とろ)けた顔は、今でも忘れられない。  ケーキ一切れでそんなに感動するなんて、どれだけ切羽詰まっていたんだろうと、ますます気になってしまったのだ。    その出会いから数日後、直人にチョコレートケーキのお礼だと言われて、食事に誘われた。  今思い返せば、警戒心のひとつやふたつ持つべきだと自分で自分を叱ってやりたいが、あの時は疑う気持ちなど全く起きなかったのだ。  もちろん、直人との時間はとても楽しいものだった。広告代理店に勤務している直人は、学生の結から見ても真面目すぎるくらい仕事熱心で、10個年下の結に対して偉ぶることもなく紳士的な態度で接してくれた。  残業続きで身も心もボロボロだった時に、結の出してくれたチョコレートケーキに救われたんだと、何度も嬉しそうに語る姿はまるで子どもみたいで、結の心をあっという間に熱くさせてしまった。  以降、直人はカフェ『月の雫』の常連客となり、結とも顔を合わせるたびに話をする仲になった。  時には食事に誘ったり誘われたり。そんな日々を重ねていくうちに、結が直人への恋心を自覚するのに、そう時間はかからなかった。自覚してしまったら、その気持ちを心に留めておくことができなくなって、緊張で震える手を握りしめながら、好きだと告げた。  すると、チョコレートケーキを食べた時と同じあの蕩ける顔で、結の告白を受け入れてくれたのだ。  それが直人と恋人としての始まりだった。    くすぐったいような幸せな思い出に緩む口元を無理やり引き締めて、コーヒー豆の補充を終わらせ、洗い物に取り掛かる。  直人が待っていてくれると思うと、いつにも増して、仕事がはかどってしまう。 (夜ご飯、なにか美味しいもの作ってあげたいな。明日休みなら、お酒も準備して……)    ほわほわと心が温かくなるのを感じながら手を動かしていると、コーヒーカップを下げてきた綾子が横に並んできた。   「それ終わったら今日はもう、あがっていいわよ」  さっぱりとそう言われて、もうそんな時間かと結は時計に目をやった。だがバイトが終わるまで、まだ30分はある。 「えっ、綾子さ……じゃなかった店長、でもまだ閉店まで時間ありますよ」 「いいから。彼氏、明日お休みなんでしょ? 早く帰らないとね」  にんまりと口角を上げ、得意げな顔をした綾子に肘で小突かれ、よろけそうになった足を踏みとどめる。 「なんで休みって知って……?」 「結くんの顔よ、顔」 「顔? って、えっ。俺、顔に出てましたか」 「うん。すごくわかりやすくね。彼氏のことが好きでたまんないって顔してたわよ。あとは勘ね」  クスクスと笑う綾子を前に、顔に血が上っていくのを感じて恥ずかしくなった。感情が顔に出やすいのは自分でも自覚していて、気をつけていたのに。  直人の明日休みだという言葉に、浮かれてしまっていたのかと少し反省する。  とはいえ、綾子の勘って何だろう。いつか言っていた『腐女子の勘』というやつだろうか。だとしたら、腐女子ってすごい。   「でっ、でも俺があがったら、店長一人で大変じゃないですか」 「大丈夫、これは店長命令よ! それに今日は美希が来てくれるから気にしないで」  慌てる結を尻目にそう言い放つと、鼻歌混じりにカトラリーを整理し始めた。  綾子の言う美希さんは、二駅先のオフィス街の一角でコーヒー豆の卸売り兼、カフェを経営している。月の雫で出しているコーヒーもそこから仕入れていて、時々、配達の用事ついでに店を手伝ってくれるのだ。綾子とは幼馴染らしい。  結も何度か会ったことがあるが、あっさりと明るい性格の綾子とは対照的に、静かでおっとりとした印象の人だった。ちなみに綾子繋がりで、直人と結の関係を知っている限られた人物のもう一人でもある。  どこか楽しそうな綾子の背中をしばらく見つめて、「それなら、お言葉に甘えてあがらせてもらいます」と少し申し訳ない気持ちで声をかけると、振り返った綾子にバチンと音がするかと思うくらい特大のウィンクを飛ばされてしまった。  * 「直人さん、お待たせ」 「お疲れ様。あれ? 時間までまだあるけど、あがって大丈夫なの?」  私服で現れた結を前に、時計を見た直人が不思議そうな顔をする。表情管理に失敗して綾子にばれてしまったとは言えず、笑って誤魔化した。 「うん、店長が早めにあがっていいって」 「そっか、じゃあ帰ろうか。夜飯はうちでゆっくり食べよう」  連れだって店を出ると、もう日が沈んでるというのに空と街の間はまだほの明るかった。浮かんだ三日月に見送られて、昼間の熱い空気と夜の冷えた空気が混ざり合ったような生ぬるい風を感じながら、すぐ横にあるエントランスへ入っていく。脇に見える掲示板を通り過ぎたら、そろって広いエレベーターホールで足を止めた。    カフェ『月の雫』がある建物は、3階から上は単身者用のマンションになっていて、実は二人ともここの住人だったのだ。ということを、結は直人と恋人になってから知った。  大学進学で越してきて随分経つが、住んでいる階が違うというだけで、それまですれ違いもしなかったことに、運命のいたずらのようなものを感じた。 「そうだ、ねぇ、直人さん。デザートにと思って、バイト前にチーズケーキ焼いたんだけど取ってきてもいい?」 「結のケーキ? 大歓迎だよ、俺も一緒に行こうか? 他の荷物もあるでしょ」  自分の部屋がある階の数字を押した結に、直人が真面目な顔で聞いてくる。  ついでにお泊り用のスウェットなんかも持ってこようと思っていた結は、自分の行動が読まれていることにくすぐったさを感じつつも、恋人も結のお泊り前提だったらしいことに心が弾んだ。 「大丈夫だよ、一人で持てるから。それよりも、直人さんはシャワーでも浴びてて。今日は俺がご飯作るから」 「ん、じゃあ先に行ってるね」 「はーい、またあとでね」  エレベーターに直人を残して、結は軽い足どりで自分の部屋へと向かった。

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