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第76話
挨拶が何のことなのかよくわからぬまま、気付けば晴十郎の家のダイニングテーブルで家主と向かい合うことになっていた。
三年間世話になり、今や我が家同然のこの場所で晴十郎と向かい合っているのは特筆すべき事態ではないのだが、高価そうな酒を手土産にやけに力の入った御薙が隣に座っているので、なんだか落ち着かない。
晴十郎の煎れてくれた日本茶を飲みながら話が始まるのを待っていると、御薙が突如テーブルに両手をついて頭を下げる。
「晴十郎さん、冬耶を俺にください!」
「(ええっ?)」
危うくお茶を吹きだすところだった。
挨拶ってそういう挨拶なの!?と驚愕して隣を見るが、御薙の表情は真剣そのものだ。
確かにこの家に居候をさせてもらっているけれど、冬耶は未成年ではないし、頼りにしているとはいえ晴十郎を両親の代わりのように思ったことはない。
こんなことを言われても困るのでは?と晴十郎の様子を窺うが。
「貴様のような極道ものにうちの冬耶をやれるか!」
「(えええっ!?こ、こっちも?)」
厳しい声に、カッ!と室内に稲光が走ったように錯覚する。
晴十郎は見たこともないような険しい表情で、ちゃぶ台でもひっくり返しそうな勢いだ。
どういうやりとり?と困惑しきっていると、晴十郎はすぐにいつもの穏やかな微笑へと戻った。
「…冗談はさておき。くださいと言われましても、冬耶くんの所有権は本人にあると思いますから、私ではなく彼自身に相談してもらえますか」
冗談だったらしい。
まったく、心臓に悪い。
サービス精神が旺盛すぎるのも考え物だ。
御薙は、それは確かにそうなんですが、と頭を掻いている。
「冬耶君はどうですか?」
「えっ?」
二人分の視線が集中して、冬耶は焦った。
こんなところで話を振られても、どう答えればいいのか。
「あの、も、もももらってもらえれば、有難いというか。と、特に異論はないです…」
しどろもどろで何とか自分も御薙と同じ気持ちでいることを伝えると、晴十郎は「そうですか」と目を細めた。
「冬耶君がうちからいなくなると寂しいですが、もちろん私は君の選ぶ道を尊重しますよ」
「マスター…、ありがとうございます」
御薙の『挨拶』についてはともかく、大切な恩人が背中を押してくれることは、素直にありがたい。
冬耶は心を込めてお礼を言った。
話が済むとすぐに、晴十郎は店へ出掛けて行った。
玄関のドアが締まる音がすると、御薙が大きく息を吐き出す。
「いやー、ボコボコにされたりしなくてよかった」
「さ、流石に突然その展開はないと思いますけど。でも、どうしたあんなことを…?」
「晴十郎さんはお前のこと大事にしてるみたいだから、筋は通しとかねえとと思ってな。俺のせいで危険な目にも遭わせてるし、託す側としちゃ心配だろ」
晴十郎さんに睨まれたら俺もここで生きていけないからな、と苦笑する御薙に、いくらなんでも大袈裟ではと思ったが、晴十郎が只者ではないのは確かだ。
ヤクザに恐れられるバーテンダー…、謎の人である。
「さて、荷造りするか」
椅子から立ちあがった御薙の言葉に、冬耶は目を丸くした。
「荷造り?」
「うちに来るだろ?」
「そ、そうですね。ご迷惑でなければ…」
「迷惑なら今日ここに来てないだろ。持っていく物はわかるようにしておいてくれれば、後は業者を呼んで回収する。直近で必要なものは俺が運ぶから、それだけまとめてくれ」
「……業者……?」
まさか、今日の今日で引っ越しする気でいたとは思わなかった。
驚いたが特に断る理由もなく。言われるままに荷物をまとめて、後から晴十郎に事の次第を連絡をすると、「大和君がこのまま攫って行きそうな顔をしていたから、私もそのつもりでしたが」と笑われてしまった。
あの場で何もわかっていなかったのは自分だけか。
鈍さも色々筒抜けなところも恥ずかしい。
晴十郎曰く、住む場所が変わっても気軽に家や店を訪ねてほしい、だからお別れは言わなかったのだ、とのことだった。
晴十郎は、冬耶にとって師匠のような存在だ。
冬耶の性別の入れ替わってしまう厄介な体質のこともあり、五十鈴と共にこれからも世話になるだろう。
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