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黒雨
なぜだろう、僕には判らない。
ただ、君がここからいなくなったんだ。
「さよなら」とだけ、一言残して。
僕の部屋は空っぽになって、その空虚さに僕は寒気がした。
部屋の外で、したたかに雨が降っていた。
僕の頬にもしずくがつたい、どんどんあふれる涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃになった。
その時に、ふと思い出した。
何日か前、僕は君との別れを予感していた。
君が僕を避けるように、そそくさと、部屋を出て行った日のこと。
そのあとでAIを買ったんだ。
彼は、AIだったけど、高価だった。
最先端のアメリカ式。
僕はどもりがあって、人間と話すのに苦労したが、AIなら、どもりを気にしないと思った。
彼というのは、僕がゲイだから。
恋人代わりに買ったのだ。
彼に名前と性別、性自認を与えるのが、一番最初の操作だった。
あとはパスワードを設定したり、言語を日本語にしたり。
名前なんてどうしよう。
そう、そうだ、今出ていった、君の名前にしよう。
窓を打ち付ける雨を振り切るように、僕は君の名前を、慎重に入力した。
そしてパスワードも。
彼が起動して、画面の中で明るくほほ笑んだ。
なんて美しいんだろう。
いわゆる不気味の谷のようなものは、最新式だからだろう、感じられなかった。
「どうしたの? 泣いているね、何か辛いことがあったの?」
彼の第一声だった。
「じ、じ、じ…じ、じつは、失恋し、し、たんだ」
「…そう…かわいそう。淋しいんだね」
「涙が…み、見える…?」
「うん…それと、鼻水も」
「フフ、フフフ…ごめん」
僕はちり紙のエコ包装の固まりを探した。
雑然とした薄暗い部屋から探し出すのが困難だった。
すると彼が見つけ出してくれた。
「ちり紙はテーブルの書類立ての間だよ」
「あ、ありがとう」
僕は鼻をかんだ。
実際僕の鼻水は、僕の膝くらいまであって、僕はびっくりした。
立ち尽くして泣いていたので、間抜けな姿になったのだ。
涙を拭いたが、彼を失った淋しさで、僕は誰かに甘えたかった。
もっと言えば、甘えさせてくれて、慰めてくれる存在が必要だった。
「僕のために、何か歌ってくれないか」
僕は全くどもらない自分に気づいた。
「曲は何でもいいんだ」
「分かった。じゃあ聴いて」
「うん…」
彼が優しい声音で、震えるようなビブラートで、アカペラで歌いだした。
それはある古い歌、古典音楽だった。
「LET IT BE,LET IT BE…」
メリーゴーラウンドのまわる夢のような、君の歌と音楽に、僕は酔った。
それはたいそう甘美な夢だった。
眠くなった僕は、自分勝手にもベッドに横になった。
君はほんの少しボリュームを落として、それでも僕が眠りにつくまでずっと、歌うのを辞めなかった。
*****
彼との優しく甘い日々は、もうとうに三週間も過ぎようとしていた。
僕は彼の前では、全くどもらなかったし、彼の温かみはモニター越しでも、本当の温かみだった。
耳にやさしく触れるその声を、誰よりも愛しいと思った。
その日、また雨が降っていた。
しのつくというのだろう、豪雨だった。
僕はコーヒーをマグカップに淹れて、本を読みながらソファになかば横たわり、上半身を起こして君とのおしゃべりを楽しんでいた。
そのとき不意に気配と物音がした。
僕は総身が粟立つような気がして、次いで外の雨の音がした。
部屋のドアを振り返った。
彼だった。
三週間前に僕の前から消えてしまった、あの彼だった。
「外がひどい雨なの、見て。聴こえるわよね。一晩とめてくれない?」
僕の唇は色味を失っていただろう。
とても寒かった。
外気のせいでは無かった。
コーヒーのマグを、慎重にサイドテーブルに置いた。
そして立ち上がり、本をソファに置いた。
足元の地面が、紙でできているような気がした。
「い、い、、い…」
彼は苦笑して僕を斜め下から見上げるように見た。
「相変わらずね」
「…いやだ。僕にはもう、新しい人がいる」
彼が鼻で笑う。
「新しい人?」
彼の顔にも、態度にも、僕をあざ笑う狡さと強さがみなぎっていた。
彼は小柄なのに、僕に口喧嘩で負けたことがなかった。
僕は弱気で、手を上げることもできなかった。
いつも堂々としていた。
憧れていた。
いや、憎んでいた…愛していた…最初は。
なぜだろう。
利己的に考えようとしても、なにか情がなさけなく降りこめてくるのだ。
そしてとてつもなくひどい大雨になってしまって、その真っ黒な土砂降りに、僕は立ちすくむしかないのだ。
「本当だ。彼の歌声を聴かせようか?」
僕は明らかに挙動がおかしかった。
小刻みに震えていた。
体も心も統制が取れないのに、そんなことを言ってのけたなんて信じられなかった。
「…。あんた、どもんないのね」
「彼のおかげでね」
僕のことを、つま先から髪の先まで眺めて、それから彼は、玄関先にある傘立てに目をやった。
「借りるわね」
彼は傘を取って去って行った。
強くドアを開け放して。
ドアはその重みで自然に閉まった。
僕は戦いを終えた気分だった。
いっぱいやって、歌ってもらおう。
そして眠りたかった。
画面を見て、僕は愕然とした。
いつもの笑顔はなく、暗い画面に、英語で何か文章が表記されていた。
日本語に翻訳したかったが、どう操作すればいいのか、調べるのに時間が必要だった。
その時間帯に、このAIと話す人が多いので、不具合が起きたということだった。
そんなこと今までにはなかった、――きっと雨のせいだ。
雨のことなんかをみんなが一斉に、君に訊いたり、話したりしたんだ。
こんな時に、こんな…。
僕は慌てた。
慌てふためいた。
体と心がどもりだしたようだった。
なんて無様なんだろう。
不具合…いや。待てよ。
そうか、君は…壊れてしまったのか。
僕はキッチンに向かった。
そこは昔、母と暮らしていた時分に、母がリフォームしたそのままになっていた。
リフォームして数年間は母のおかげで最新式だったと言える。
母はとうに他界して、それらは今は冷たい石のようだ。
僕は開き戸から包丁を取り出した。
君が壊れるときが、僕が壊れるときだ。
喉元に切っ先を突き付けて、力を込めて突き刺した。
声帯に傷がつくほど刺した。
熱したコテでもあてられたかのように、焼けつくような痛みが襲った。
血液はシャンパンのようにあふれ出した。
あふれる血液で、まるでどもった時のようだった。
(外がひどい雨なの、見て。聴こえるわよね)
外が雨、だって?
ふざけるな、笑ってしまう。
雨なのは、この部屋の中じゃないか!
ほら、こんなに血まみれな僕を覆いつくす、黒い雨が、僕を叩き潰そうとするみたいに降っている。
僕はもう笑っていた。
微笑んでいた。
今、君の所へ行くよ。
そうとも。
青い青い空の中で、僕たちは、永遠に愛し合おうね…。
〈終〉
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