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第9話 そして、新たなスタートへ(2)
「『来ちゃいました』ってねえ」
「だって、これならお互いに忙しい日々が続いたとしても、すぐに会いに行けるでしょ?」
「……君ってやつは、もう」
臆面もなく言うものだから、照れくさくてかなわない。それでも、こんなにも真っ直ぐに好意を示してくれることが嬉しくて、つい頬が緩んでしまう。
ちょっと未だに信じられないが、愛しい恋人が隣の部屋に住んでくれるだなんて。それはどんな日々になるのだろう――想像するだけで胸が躍るものがある。
(あんなことやこんなこと……いや、そんなっ)
心がふわついて、めくるめく妄想が止まらない。諒太は赤くなった顔を逸らしつつ、己を必死に律した。
「あの、諒太さん?」
「なな何でもないよっ、ヘンなこと考えてないから!」
「……俺は考えてましたけど」
「え?」
「一人暮らし始めたら、諒太さんを部屋に呼んで……何しようかなあとか」
橘がそっと頬に触れてくる。そのまま優しく撫でられて、諒太の胸はドキリと音を立てた。
言葉の意味を考えれば考えるほど、期待感ばかりが膨らんでいく。まだ数えるほどしか肌を重ねていないけれど、初めて結ばれた日からというもの、橘はどんどん色気を増している気がしてならなかった。
「大地……」
見つめ合う瞳は熱を帯びていて、二人の間に甘い空気が流れる。
諒太はゆっくりと瞼を閉じた。すると、橘が顔を寄せてくる気配がして――、
「だいちくん、あそびにきてくれたのっ?」
その時、美緒の明るい声が響いた。会話を聞きつけてやって来たようだ。
(い、いけない……場の空気に流されるところだった!)
諒太はすぐにハッとして体を離す。玄関先、しかも美緒がいるというのに何をしようとしていたのだろう。
「美緒ちゃん、こんにちは。俺、今日から隣に住むことになったよ」
「えっ、うそ! だいちくんがおとなりさん、ですか!?」
「はい、お隣さんです」
橘が微笑みかけると、美緒は興奮気味に目を輝かせた。きゃーっ、と声を上げてぴょんぴょん飛び跳ねている。
まるで兄のように接してきた相手が、いつでも会える距離に越してきたというのだから当然の反応だ。何の戸惑いもなく喜ぶ姿は子供らしく、また羨ましいものがあった。
「そうだ、おうちはいってきて! ランドセルみせたげるっ」
「こらこらっ、そんな勝手に」
美緒が橘の手を引っぱって家の中に招き入れようとする。諒太は慌てて引き止めようとしたのだが、当の本人は楽しげに笑っていた。
「いっすよ。業者来るまで時間あるし、ヒマしてたところなんで」
お邪魔します、と橘が靴を脱いで部屋に上がる。
そう言われてしまったら返す言葉もない。諒太は苦笑しながらあとに続いた。
「ねっ、みてみて! かわいいランドセルでしょっ」
ランドセルを背負ったまま、美緒はくるりと回ってみせる。
紫色のパール生地に、刺繍があしらわれた可愛らしいデザインのランドセルだ。
昔は赤や黒が定番だったが、近年はすっかりカラフルな色合いが人気で、女子の間ではこういったデザインが増えているのだという。
「うん、キラキラしてて可愛い。美緒ちゃんによく似合ってるよ」
スマートフォンで写真を撮りながら橘が言った。褒められた美緒は満面の笑みを返し、はしゃいだ様子で抱きつく。
そんな光景を見ていると、なんとも微笑ましい気分になってしまうから困りものだ。
(あーあ、若いってのはいいなあ)
この歳になると、新年度なんて気が重たくて仕方がないが、若者にとっては新生活への期待の方が大きいのだろう。
新しい環境、新たな人間関係。不安もあるに違いないけれど、それを上回る楽しさがあるはずだ。どうせなら、期待を胸にいろんなことへと挑戦してもらいたい。それはきっと自分の糧となるのだから――。
年寄りくさいことを考えつつも、諒太は我に返って軽く首を振った。自分だってまだまだ負けていられないぞ、と。
「諒太さん?」
あれこれと物思いにふけっていたら、橘が不思議そうな顔をしていた。
「いや、大地も美緒も、あっという間に大人になっていくんだなあと思ってさ」
諒太がしみじみと言えば、橘もまた静かに返してくる。
「……俺、早く大人になりたいです。そしたら、諒太さんも美緒ちゃんも支えられると思うし」
「は、ははァ~ん。言うねえ」
「あのときは嫌だって言いましたけど、もう嫁でも何でもいいっすよ」
「うわあっ、思い出させないでよ!」
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