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第1話 真夏のオーロラ
恋人は要らない。
そう自分に言い聞かせてきた。
そんな俺でも、恋をしたことはあった。
最初の恋は、エルサルバドルの内戦のさなかだった。
『報道写真家、諏訪弘樹』として身を立てようと躍起になっていたその頃。
国境付近で流れ弾に当たった。
海外青年協力隊の医療班として、その男はそこにいた。
男はケガをした俺を助けてくれて、仕事でもないのに面倒を見てくれた。
動けなかった俺は、片手でその男の働く姿を写真に撮った。
ケガが治って帰国する前夜、気持ちを伝えて、その男は受け止めてくれた。
その数週間後、彼はシャーガス病で死んだ。
現地で土葬された身よりのない男に花を手向けるために、俺は一度だけエルサルバドルへ行った。
最後の恋が俺なんかで良かったのかどうかはわからないが、あの世で再会できたら、文句のひとつでも言ってやろうと思う。
エルサルバドルなんかに埋まっていたら、墓参りに行くのも大変だ。
恋はいつも短い思い出しかない。
だが、一人だけ俺を待っていてくれた男がいた。
タイの反政府デモで足止めをくらっていた時に出会ったその男は、商社のエリートサラリーマンだった。
その男とは日本で再会し、何度か身体を重ねた。
ゲイでもないのに俺に身体を開いたその男は、『待つな』と繰り返した俺に『必ず待っている』と答えた。
数ヶ月に一度、帰国するたびに、その男は黙って俺を迎えてくれた。
しかし、半年ほど日本を離れて、帰国した時に連絡がとれなくなっていた。
その男とはひょんなことで、数年後再会した。
可愛いタイプの男を連れていた。
会社の同僚だと言っていたから、きっとその男もエリートなんだろう。
幸せにやっていると知って、嬉しかった。
俺は、やっと罪悪感から解放された。
身分違いの恋、というのは現代にも存在する。
俺が今回帰国したのは、弟の具合が悪くなったからだ。
歳の離れた弟の良樹は心臓が悪い。
大学も休学したまま、入退院を繰り返している。
ひょっとしたら、俺が危険な目に合うたびにあいつの寿命を縮めているのかもしれない。
「最近怜と会ったか?」
怜、というのは弟の数少ない友人の一人、崎谷怜のことだ。
「もう、怜も兄さんも僕を伝言板にしないでよ」
「いや、連絡しようと思ったんだが、行方不明なんだ」
「怜は……レバノンに行ったよ。一週間前」
「レバノンだって……?」
一週間前にレバノンで暴動が起きた時、俺はまだロシアのはずれにいた。
まさか怜がそんな危ない所に向かっているとも知らずに。
「無茶だ。アイツにまだ戦場は早すぎる」
「兄さんの最初の戦場レポは、今の怜の歳だったって、言ってたよ」
「馬鹿な……アイツと俺は違う。アイツは才能あるんだから、夕日とかオーロラとか撮ってればいいんだよっ」
怜の無茶は今に始まったことじゃない。
だけど、今回はヤバすぎる。
怜と出会ったのは病院だった。
良樹が入院していた大部屋で、隣のベッドに怜はいた。
内気な良樹と怜は気が合って、良樹は怜の話ばかりしていた。
良樹よりも怜の病状は酷く、怜はドイツで手術を受けることになった。
「弘樹さん、俺、生きて帰ってこれたら弘樹さんみたいな写真家になりたいです」
死ぬかもしれない大手術を前にした怜は、信じられないほど明るい笑顔だった。
「俺、嬉しいんです。どうせ死ぬなら一度でも外国に行ってみたかった。ドイツに行けるなんて夢みたいだ」
まるで旅行にでも行くように、怜はドイツへ行けるのを楽しみにしていた。
「それから、俺、この歳でまだセックスしたことないんです。もし生きて帰れたら恋人作りたい」
そして、怜はドイツから無事生還して、本当に写真家になった。
世界各国の美しい景色をカメラに収めて回った怜の写真は、人の心を打つものだった。
俺と怜はジャンルは違うが、カメラを仕事にする者同士、日本へ戻った時には連絡を取り続けていた。
「兄さん……怜には内緒にしておいてくれって言われたんだけど」
レバノンへ行くと言った俺に、良樹は一冊の写真集を差し出した。
『夕日と前線』と題された怜の初めての写真集。
そこには訪れた国の最も美しい夕日と、その国で必死に生きている人たちの姿が映し出されていた。
「アイツ……こんな危ない国にも行ってたのか」
てっきり観光地でも回る仕事をしているのだとばかり思っていた。
俺の中の怜は、いつまでも繊細で病弱だったイメージのままだ。
最後の数ページを見て、俺は驚いた。
『写真家諏訪弘樹の素顔』
ケガをして、現地の子供を片腕にかばいながら、カメラを構えている写真。
瓦礫と砂埃しかない内乱の跡に佇む写真。
「いつの間に……」
望遠で撮られたと思われる数点の写真は、そんなところに怜がいるはずのない場所で、何度も俺をとらえていた。
「それ見せたら、ストーカーだと思われるから、って怜が……」
何がストーカーだ。
こんな危ないストーカーは見たことがない。
俺は、病院からまっすぐ大使館へ向い、翌日ベイルート向けの機上の人となった。
新聞社のジャーナリストをしている俺にとって、レバノンの内戦は得意先のようなものだ。
ベイルート入りした翌日に、レバノンでは首相交代劇が起こり、いたるところでデモが勃発した。
外国人はホテルに足止めされ、治安部隊がそこいら中で銃を発砲する。
俺は日本人がいそうなホテルをすべて当たってみたが、レイ・サキヤという名前は見つからなかった。
もっとも中東のビジネスホテルなど、いい加減なものだ。
死者が出て大使館でも動かない限り、日本人の所在など見つからないのが普通だろう。
俺はホテルの一室から、内乱が続く市内の様子を撮っていた。
怜……
怜か……?
バカ野郎! あんな明らかに外国人だとわかる服装でウロウロしやがって!
怜に似たその人物のすぐ後ろには、治安部隊が迫っていた。
俺はミリタリージャケットとカメラだけつかんで、夢中で街中へ飛び出した。
「動くな。合図をしたら次の角のホテルまで全力で走れ」
「わかりました」
背後から近寄って声をかけると、怜は驚きもせず振り向きもせず、ファインダーをのぞきこんだまま返事をした。
「行くぞ! 走れ!」
走り出すと同時に、発砲音が続いた。
狙われているのは俺たちではないが、巻き込まれるのは避けたい。
全力でホテルに駆け込むと、怜は初めて俺の顔を見て、笑顔を浮かべた。
「命びろいしましたね」
「バカ野郎! なんであんな所にいたんだ!」
怜は思い出したように悲しげな顔をする。
「あの奥にスラムの子供たちがいるんです。助けられなかったけど」
「そんなもの、俺たちの力でどうにかなる問題じゃないっ! お前はもっと命を大事にしろ!」
「あなたに言われたくありません。俺の行動はすべてあなたが手本なんですから」
銃弾の飛び交う音の中で、怜は凛とした笑顔を浮かべる。
「ここも時間の問題だな……次に銃弾が止んだらまた走るぞ」
「どこまで走るんですか?」
「取り敢えず俺が泊まっているホテルがその先だ。荷物をとったら市内を出る。お前、荷物は」
「無くなって困るものは携帯しています」
俺と怜は銃弾を避けながらやっとのことで、パレスチナ難民キャンプのボランティア団体に合流することができた。
市内を出て医療物資を積んだジープに乗せてもらって、ガザ地区へ向かう。
その晩はテントで野営になった。
ぼろぼろの小さなテントが俺と怜に貸し出されたが、それでもあるだけマシだ。
日本より暑い国だと言っても、四季はあり、冬の夜は冷え込む。
「毛布が一枚しかないんだ」
「ま、凍死する心配はないさ」
ひとつの毛布にくるまって、俺は怜を抱き寄せる。
相変わらず華奢な身体だ。
こんなに皮下脂肪がないやつは、食料が尽きたら先に死ぬ。
「怜、お前、今でもセックスしたことないのか?」
「今このタイミングでそんなこと聞くかなあ」
怜は楽しそうにクスクス笑う。
野営の外には、敵が迫っているかもしれないのに。
そう言えば、死ぬかもしれない手術の前にも、怜はこうやって笑ってたっけ。
「今返事をするなら、答はイエス。俺はまだセックスしたことないよ」
「相手がいなかったのか?」
「相手ならいるよ。たまたまその人と俺のタイミングが合わなかっただけ」
「そりゃあ残念だったな」
「そうでもないよ。もし二人揃って生きて帰れたら、同じ質問をもう一度してみて」
「同じ質問? セックスしたことないのかって?」
「そう。なんなら明日の朝でもいいよ。その時には多分答はノーだ」
怜は俺の首筋に唇を寄せ、強く吸い付いた。
鏡なんてどこにもないが、きっと派手にキスマークがついただろう。
「もしこのまま天国に行くことがあったら、これ、お土産」
「馬鹿野郎! 心残りがあるまま天国なんて行けるか!」
怜……
強くなったな。
いや、最初からお前は強かったんだ。
抱いてもいいか。
本当はせめてベッドの上が良かったんだが。
「弘樹……さん」
「潤滑剤になるものが何もねぇ。辛いかもしれないが」
「それでもいい。タイミングは逃したくない」
「そうだな。挿れるぞ」
お互いに苦痛しかない、ただ繋がるだけのセックス。
もし、生きて帰れたら、もっといいセックスを教えてやるよ。
「怜……一緒に帰ろう」
「めずらしいこと言うね、弘樹さんが」
「こんなところにお前を置いて帰れるか」
「俺は……何度も弘樹さんを置いて帰ったよ。あなたがケガをしている時も、戦地へ向かう時も」
「黙って見ててくれたんだろ。それで十分だ。そんなバカな奴は見たことねぇ」
「ストーカーだからね、俺」
「これからは堂々と追っかけてこい。危なっかしくて生きたここちがしねえ」
「許可もらったから、今度からそうするよ」
その三日後、俺たちは無事国外に脱出して、日本へ帰り、俺は次の仕事のためまたすぐに日本を発った。
良樹の容態が悪化して帰国した時に、病院で怜と再会した。
あれから危ない仕事はしないと約束したのだが、守られているのかどうかはわからない。
俺はあれから世界のどこにいても、ひょい、と怜が顔を出すような気がしてならなかった。
ストーカーは今度はどこから望遠で俺を狙っているのだろう、と妄想したりもした。
「弘樹さん、次はどこへ行くの」
「ああ、今回はめずらしくセブだ」
「そんな平和なところに何しに行くの」
怜は声を上げて笑った。
「たまにはそういう仕事だっていいだろ? 俺はダイビング得意だぞ」
怜は翌日韓国へ行く、と言って帰って行った。
俺は数日後、一人でセブへ向かった。
美しい海に落ちる夕日を撮った。
俺も昔は、こういう美しい景色を撮るのが好きだったんだよな……
いつの間にかジャーナリストなんていう現実的な職業についてしまったが。
ホテルをとらずに、海辺のコテージを借りた。
仕事というより休暇だ。
周囲の島やそこに住む人達を撮り、明日は帰る、という最終日の夕方。
海辺でカメラを構えていた俺の背後に、人の気配が忍び寄った。
「遅いじゃねぇか」
「ほんとは、おとつい来てたんだけどね」
「俺は明日帰るぞ」
「邪魔しないように、見てた」
ホラ、と怜は現像した写真を数枚俺に見せてくれた。
モデルが俺、というのは気に入らないが、いい写真だ。
「俺はまだしばらくこっちにいるよ」
「そうか。なら、今晩だけは一緒にいられるな」
「そうだね。俺たち念願のベッドもあることだし」
怜は片目をつぶって、茶目っ気たっぷりに俺を誘う。
ここで会ったが百年目。
運命というものが本当にあるのなら、もう一度だけ信じてやる。
ベッドに転がり込んで、飽きるほどキスをする。
いつの間にかたくましくなった、俺よりはるかに若い恋人。
「怜……帰ったら俺と一緒に暮らさないか」
「家が無駄になりそうだね」
怜がクスクス笑う。
「そろそろ俺も戦場に出るのに疲れてきた。夕日を撮るのも悪くない」
「俺の仕事取り上げるつもり?」
「帰る家がひとつなら、タイミングが合えばその間は一緒に暮らせるだろ?」
「あはは。真夏のオーロラみたいだな」
「真夏のオーロラ? そんなもんあるのか」
「それぐらいめずらしい、って話」
「こら、本気で聞けよ。人の一世一代のプロポーズを」
「そうだね……家があるのはいいな。帰らなきゃっていう気分になる」
「俺たちみたいのにこそ、帰る場所は必要なんだぜ。多分」
「そうだね……俺はあなたの帰る場所になれるよ、きっと」
「俺もだ。お前が帰ってこれるように、生きててやる」
俺は怜のために、家を買った。
そして、真夏のオーロラよりは確実に、そこで愛し合った。
怜……
俺にとっての真夏のオーロラは、お前だ。
【真夏のオーロラ ~End~】
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