4 / 6

2-1

 研究者たちは困り果てていた。  エバは今までで最も優秀な個体だ。言葉も理解し、細かな命令にも対応でき、身体能力も非常に高い。  しかし問題として、僕にしか懐いていない。水槽を破壊した一件以降は更に顕著で、少しでも僕の姿が見えなくなると暴れ出す。自分が暴れると人間が困ることを理解してしまったのだ。  現状、最低限の生活を除いて僕はエバの傍らに置かれることとなっていた。あまり機嫌が悪いようだと直接触らせることもある。  兵器として運用するには欠陥があるが、処分してしまうにはこの個体の優秀さが惜しい。 「僕を指揮官とすることは、できないんでしょうか」  小さく尋ねると、父と軍上層部の面々が考え込んだ。 「僕を指示する軍の方がいれば、そのままエバに命令を伝えることができるのでは」 「しかしなんの訓練も受けていない者を司令部に加えるのは……」 「問題は命令系統に留まらん。仮に戦場に出したとして万一指揮官が死亡した場合、他の命令を聞けなくなるのであればガラクタと同じだ」 「暴走してこちらにも牙を剥くやも」  エバが僕の言うことだけを聞くのが一番の問題だ。ウィリアムが外され別の指揮官が数人試したものの、いずれもエバは無視をしてしまった。  会議が堂々巡りするうち、背後でパシャリと水の跳ねる音がした。金網で仕切られた向こう側に赤黒い触手がいくつも現れ、皆が思わず口をつぐむ。  ギーと鳴きながらエバが目玉を覗かせた。はじめの何十倍にも育った巨体で床を這い金網へ近づく。僕は申し訳ない気持ちになりながら金網のすぐそばへ移動した。 「……やはり、彼を組み込むしか活用の方法はありますまい」  金網の隙間から伸びた触手に絡まる僕を眺めて一人が言った。 「エバからサンプルを取りクローンの育成に着手しています。後継には希望が持てるかと」 「ふむ……試作としてデータを取るくらいは役立つか」  恐ろしい話を理解しているのか、エバは唸りながら僕を引き寄せた。僕が触手を撫でると少し力が抜ける。 「最低限の訓練はこれからすればよろしい。本人が希望しているのですからな」  会議はそこから多少の紆余曲折があったものの、結果的に僕を軍人にする方向でまとまった。 「意外と軍服も似合いますね?」 「……ご冗談を」  僕は今戦争の前線に向かっていた。物々しく移動する列車には大きなコンテナが載せられ、中から低い唸り声がしている。僕が小窓を開けて軽く叩くと、唸り声は一旦収まった。 「いや、おぞましい。よく世話ができますね」 「慣れです」 「情が湧くというやつですか。それともそれ以上の関係とか」  くつくつと笑いながら指揮官のキールが言った。彼はウィリアムと違って皮肉屋な性格で僕は苦手だ。仲良くしないぶんエバのほうは嫉妬しなくて楽だが。 「触手をアレに例える輩も多くてですねえ。結構な噂ですよ、あなたが物好きかもっていうのは」 「そうですか」 「そのクールなところがまた人気みたいですよ? みんなあなたと仲良くしたがってるから話しかけてあげたらいいんじゃないですか」 「僕は口下手ですから」  素っ気ない態度を取るほどキールは楽しげに笑う。僕の反応はなんでもおかしく思えるのだろう。ため息をつくのと同時にまたエバが不機嫌な声を出した。 「……コンテナに入っても構いませんか」 「おや、逢瀬の時間ですか。ええどうぞ、コンテナが透明だったら見学できたんだけどなあ。いやあ残念」  他の兵に聞こえるようわざと大きく話すキールを無視して、僕はコンテナに移動した。彼の言う通り何人かが興味深そうにこちらを眺めている。  僕は軍服の上から白衣を羽織り、重い扉を何とか開けてコンテナへ入った。白衣がないとエバの体液で軍服が汚れてしまうのだ。 「エバ」  呼びかけると暗いコンテナの中で目玉がこちらを見た。ギーと甘えるような声で何度も鳴き、エバの触手が僕を嬉しそうに抱いた。 「窮屈でごめんね。もうすぐ着くから」  手袋を外し掲げると細い触手が伸びて絡みつく。この鳴き声を聞いてまた彼らが勘違いするのだろうかと思うと少し憂鬱だ。 「良い子にしていてねエバ」  ギー。 「……ん」  触手が控えめに僕の唇に触れた。それを可愛らしいと思う僕はもうずいぶん毒されているのかもしれない。僕も今の環境にはストレスを感じているから、エバが癒しになってしまうのだ。 「じゃあまた後でね。もうすこし辛抱していて」  トントンと触手を叩くと、エバは物分かりよく僕を放した。わがままなかわりに僕の言うことはよく聞くようになったなと思う。  扉をエバに手伝ってもらい開けると、座席から身を乗り出していた兵たちと目が合った。慌てて体勢を整えるのを眺めて辟易する。  白衣を脱いで体液を拭いていると、にやついたキールが大声で話しかけた。 「最後のは別れのキスですか」  小窓から見ていたのだろう。 「そうかもしれませんね」 「なんだ照れないのか。赤面するあなたを見たかったんですけど」 「……」 「実際どうなんです? 触り心地は」 「ご自分で確かめてみてはどうですか」  キールは肩を竦め、ぬらついた僕の右手を見ていた。他にもそうだろうという視線を感じる。 「あまり扇情的な姿を見せないほうがいいですよ。男所帯は常に欲求不満ですからね、あなたみたいな線の細い人はいい餌です」  気分が悪い。これなら研究所で孤独を感じていたほうが何倍もマシだ。せめて苛立ちが出ないよう丁寧に手を拭くとキールは面白そうに笑った。    焦げ臭い戦場にはいくつも黒煙が上がっていた。初めて立つ雰囲気に体が震えそうになる。運ばれていく無惨な死体に思わず目を逸らすと、追いかけるようにキールが僕を覗き込んだ。 「あなたには刺激が強いですかねえ? 無理はなさらないほうがいいですよ」 「……大丈夫です」 「ああ健気なおかた。震えていらっしゃるのに気丈なことだ」 「僕はどこに行けばいいのでしょうか」 「近く敵軍が追加投入されます。そこにあの化け物を放ち蹂躙させる予定です」  コンテナがゆっくりと運ばれていく。エバが暴れないよう祈りながら、僕はキールに連れられ配置についた。 「さあ、敵が接近しています。……コンテナを開けろ」  重たい音とともに、エバが放たれる。エバははじめ興味深く辺りを見回していたが、僕に視線を向けると真っ直ぐに這ってきた。周りの兵たちがどよめきながら場所を空ける。 「エバ、これから戦いになるよ」  キールも離れて僕を眺めている。エバはギーと一度鳴くと触手を一本だけ僕に伸ばしてきた。 「君なら大丈夫だね?」  先端を握りながら微笑むと、エバはギギと声を響かせて前進を始めた。触手だけが名残惜しそうに僕の手と繋がっている。 「エバ……敵を食え」  僕の命令に呼応するようにエバが唸り、先程までとは比べ物にならない速さで敵の元へ向かった。触手を地面や建物に刺し、それをバネにして飛ぶように移動する。  双眼鏡を覗いていたキールが興奮気味に叫んだ。 「接敵!」  微かに銃声と悲鳴が届く。僕も双眼鏡を使い、エバが暴れ回る姿をドキドキしながら見守った。  まさに蹂躙だった。僕の知らないエバの残虐性がそこにあった。敵の攻撃などものともせず、手当たり次第に食い散らかして肉片を撒く。  グロテスクな光景にふらついた僕をキールが抱きとめた。 「あなたに倒れられては困りますよ。あの化け物を回収しなければいけないんだから」 「……わかって、います」 「ふふ、顔が真っ青だ。あらかた食い尽くしたようですね。向こうまで行って呼ぶんですか?」 「いいえ……終わったら僕の元に戻ってきます」 「なんて優秀な化け物だ」  僕の言ったとおり、エバが同じように飛んでこちらへ帰ってくる。兵たちが引き気味に待つ中、エバはずしりと血濡れの体で降り立った。 「エバ」  僕が意地で立ち呼びかけると、エバがギーと鳴いた。再生を繰り返したらしくところどころ輪郭が歪になっている。 「よくやったね。良い子だエバ」  両手を掲げてみせると、エバは嬉しそうに鳴きながら体を傾け、目玉のあたりを僕に差し出した。血の匂いに気が遠くなりそうだが、ここで倒れるわけにはいかない。体を撫でる僕を周囲が奇異の目で見ていた。

ともだちにシェアしよう!