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◇第1章◇優しくて冷たいひと 第1話 モカとムサシ
改札を抜けて、待ち合わせ場所である母子像の前に立つ。
街はにぎやかで、途切れることのない騒音が聞こえてくる。
スマホを確認するとメッセージが届いていた。
『ごめん、少し遅れるかも』
りょーかいでーす!! ……と。
元気な男の子のつもりでテンション高めにして、適当なスタンプも打っておいた。
冷たい風を頬に受けながら、除菌ジェルを取り出して手のひらに擦りつける。
さっき電車の中で車体が大きく揺れた拍子に手すりを握ってしまったためだ。
僕の潔癖症は、軽度な方だ。
だからこれからする他人との情事も耐えられるだろうと思う。
というか耐えなくてはいけない。
お金を得るためにはそれなりの対価が必要だ。
「モカくん?」
しばらくして、赤いマフラーをした背の高いスーツ姿の男性が現れた。
20代後半くらいで、スポーツをやっているのか髪は短髪、肌は浅黒くて健康そうだ。
仕事終わりのようで、片手にビジネスバッグとショッパーを持っている。
「ムサシさんですか?」
彼は、そう、と口元だけで笑って、僕をじろりと一瞥した。
もうすでに裸を見られているみたいで落ち着かない気持ちになってくる。
「ごめんね、遅くなって。行こうか」
「はい」
彼が僕の背中に手を添えた瞬間、背筋がスッと冷えた。
歩き出すと手はすぐに離れていったが、触れられたコートに今すぐ除菌スプレーを振りかけたかった。
慣れているのだなと思いつつ、隣を歩く。
「緊張してる?」
ムサシさんは、男性にしか興味がないらしい。
会社では女性にかなりの人気がありそうなイケメンだ。
そんな人の「アレ」を僕が咥えている姿を想像してしまい、顔が熱くなった。
「すこし」
「そっか、可愛いね。お金が必要だって言っていたよね?」
「あ、はい。いろいろとありまして……」
それは先々週のことだった。
自転車を走行中、誤って路駐していた車を擦ってしまい、その車から降りてきた人物がいわゆる『こわい人』で、高額な修理代と慰謝料代を請求されてしまったのだと涙ながらにバイト先の友人に訴えられた僕は、その男にお金を渡してしまったのだ。
男の話が嘘だなんて微塵も思わなく……
トンズラされるとも思わなく。
だから僕はお金をすぐに取り戻すために慣れないサイトやアプリを駆使した。
ようやく優しそうな人にマッチングできて、こうして会っているわけだ。
お金を男に渡した自分は馬鹿だなと思いつつも、それをした理由はなんとなく分かっていた。
その男が、ちょっと好きだったんだと思う。
かつて僕が好きだった相手に面影が似ていたから。
今、その人はどうしているんだろう。
あれから5年。
僕は一緒に最後に過ごしたあの夏の日の彼と同じ年齢になった。
あれから1度も会っていない。
元気にしているのだろうか。
「モカくんはフリーターだっけ?」
「はい」
本当は都内の学校に通う大学3年生だ。
僕の「モカ」というハンドルネームは受験時に服用していた睡眠改善薬から取った。
眠気覚ましによく飲んだものだ。
モカで通したかったのに「本名教えて?」と優しく聞かれて、反射的に「あ、千紘 です」とバカ正直に答えてしまって後悔した。
なるべく身バレしたくないのに。
「千紘って呼んでもいい?」
「あぁはい、もちろん」
「ふふ、なんだか君とは初めて会った気がしないな」
「ははは、そうですかー?」
若干居心地の悪さを感じつつも愛想笑いで乗り切る。
まぁでも、この人と疑似恋愛しているつもりで奉仕しさえすれば、お金が取り戻せるんだ。
簡単だ。受験よりも簡単だ。
僕はただ聞き役に徹して、介護をするつもりで臨めば問題なさそうだ。
優しそうな人だし、何も心配はない。
そう思ったのもつかの間、ムサシさんの足が小さな水溜りにはまった。
バシャ、と新品に近い黒の革靴に泥がはねたのを見たムサシさんは、一気に顔をぐしゃりと歪めた。
「クソッなんだよ」
小さく舌打ちした音が聞こえて、僕は唇を真一文字に結ぶ。
えっと、この人は優しいはず、ですよね。
自分に言い聞かせていた時、ふと彼の持っている紙袋の中身が目の端に映った。
見間違いかと思い、もう一度目を凝らしてみる。
歩きながら僕はそれに釘付けになった。
ソレは間違いなく大人の玩具だった。
ピンク色をしたバイブが顔を覗かせている。
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