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第36話 妄想
ギュッと抱きしめると、信号が赤になったタイミングで律が振り返った。
「寒くないですか」
「全然っ」
声を張って笑うと、律はヘルメットの中で微笑んで前を向いた。
まだ青にならないのを確認してからもう1度僕を振り向く。
「さっきの人とは」
「え、なにー?」
「さっきの人とはっ、どうして手を繋いでいたんですかっ」
雑音で聞きそびれて問うと、ちょっとヤケになったような声で返された。
僕は数回瞬きをして、その質問の意図を汲み取って嬉しくなった。
「僕は汚くないよって、自分を許してあげてって、言ってくれたんだ。きっと潔癖症は治るよってことも」
「……そうでしたか」
「青だよー」
指摘すると、律は前を向き発進させた。
その後、赤信号につかまっても振り返ってくることはなかった。
はうっ、と僕は息を吐く。
あぁ、律。
このままどこか遠くへ行っちゃおうよ。
今日だけは、律が好きな人のことは忘れて
僕だけを考えて欲しいよ。
「好きだよ、律。僕を好きになって」
ヘルメットの中で呟く。
律も今、ヘルメットの中で「俺も千紘が好きです」と呟いてくれている妄想をした。
「ありがとう」
「いいえ」
あぁ、夢のような時間はあっという間に終わってしまった。
僕の住んでる家に着くのが早すぎる。
もっと律の背中にくっついていたかったのに。
ヘルメットを慣れない手つきで外し、律に手渡す。
「ヘルメット、大丈夫でしたか」
「あ……うん、全然」
潔癖のきみは無理したんだろ、とでも言いたげな目に見えたので頷く。
全くの他人のだったらダメだったと思うけど、律のだし、それに素晴くんと話せたお陰かさほど気にならない。
どるんどるんと、閑静な住宅街にエンジン音が響くのを気にしたのか、律は「じゃあ」と早くもハンドルを握りしめたので、慌てて止めた。
「ちょっと待って! あの……」
ヘルメット越しの目は少し困惑していた。
しばらくしてエンジンが切られる。
あんなに響いていた音は無くなって、しんと静寂が流れた。
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