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第50話 懐かしいキス

 久しぶりに訪れた寮は、名津がいたときとあわり変わっていなかった。すでに別の学生が入室しているようで、名津がいた場所には見知らぬ雑貨などが置いてあった。  井沢には、ルークをベッドに寝かせて部屋を出て行ってもらった。発情しているオメガから離れれば、井沢は問題ないだろう。だがルークは相変わらず苦しそうに呼吸しており、早めに抑制剤を飲ませてやらないとさらに状態が悪化しそうだ。  ルークには悪いが、勝手にバッグを開けさせてもらうことにした。しかしバッグの前ポケットに抑制剤を見つけたので、メインの収納部を漁らずに済んだ。やはり自分のものとは種類が異なるようだが、見たことがある薬だった。  すぐにルークを少し起こして、その抑制剤と水を飲ませた。これで一安心だ。しばらくすればルークは落ち着くだろう。  ほっとすると同時に、ルークが噛んだ傷痕が脳裏を捩った。  ルークはオメガだった。オメガ同士で番になることなんて、あるのだろうか。 「んっ……」 「ルーク、大丈夫か?」  先ほどまで赤らんでいた頬も、以前のような白さに戻っている。呼吸も落ち着いているようだ。 「リオ……」 「よかった。薬が効いているみたいだな。寮の前で倒れたから、井沢に部屋まで運んでもらった」 「……ありが、とう」  そう言うと、ルークはそのまま黙って天井を見つめていた。  しばらくして、ルークは「んっ」と声を上げながら上半身を起こした。まだ身体が重いのか、動きは鈍い。  ルークは、そのまま俺の顔面に顔を近づけてきた。 「なっ、なんだ?!」  まだ薄らと赤みを帯びた肌を間近で見ると、彼に対して何の感情もないものの、ドキッとしてしまった。 「首の裏、見せて欲しい」  ルークからこの話題を出してくるとは思わず、心臓が驚いたかのように跳ねた。  いろいろと言いたいこと、聞きたいことは山ほどあるが、今は黙って傷ついた首裏を見せることにした。  振り向いてルークに背中を向け、少し首を下げた。 「……」  首から背中にかけて視線を感じる。ルークは黙って、その噛み痕を見つめるだけだ。  数秒かもしれないが、数分かもしれない。とにかく静まり返った時間が流れた。気づくと、じんわりと熱いルークの指先が首筋を撫でていた。そしてそのまま、ルークが唐突に話し始めた。 「僕、本当はリオのこと、ずっと前から知ってた」 「……あの、事件で?」 「うん。まさかこんなところで会うなんて、本当にびっくり」 「それは、そうだな…」  ルークは井沢から聞いたのではなく、あくまでもネットニュースで、俺の存在や俺がオメガだということも知ったらしい。井沢がルークに教えたのではないかと勘繰り、責めてしまったことを後悔した。  ルークがサイドテーブル上にあったペットボトルを手に取り、口に含んだようだ。背後から、ペチャッと水が揺れる音が聞こえる。 「僕は、自分がオメガだということを、隠してきた。それはとても大変なことだった」 「そうだよな、大変だと思う」  ルークの苦労は計り知れない。スポーツ選手の中にはアルファが多いため、自身がオメガであることへの劣等感や緊張感があっただろう。発情期があるオメガがスポーツで成績を残すためには、想像を絶する刻苦があったに違いない。 「僕はいつも1人ぼっち。そう思っていたときにリオを知った。同い年のオメガ。僕の励みになった」  あの事件以来、俺はインターネット上に本名や写真を晒され、世間から批判された。逃げるようにアメリカへ留学したが、俺の存在がルークの『励み』になっていたのだとしたら、あの時の自分が少しは救われたような気がした。 「そう思ってくれていたなら、なぜこんなことをしたんだ。ますます理解できないが…」 “I’m different from you”(僕と君は違う)  ルークの刺すような視線を浴びて、身体が動かなくなった。 「家族、友人、恋人からも愛されて、守られて。僕とどこが一緒?」 「確かに周囲の人には恵まれていると思うが……だからといって、なぜ噛まれなければならないんだ」 「……」  ルークは口をつぐんで、俺の目を凝視している。ルークの薄翠色の眸子が、台風が過ぎ去った後の川底のように澱んで見える。その奥には、俺が知ることのできない暗闇があるような気がした。 「……もう、いいよ。ルークが噛んだことをなかったことにはできないが、忘れることにする。……俺が言っていること、伝わっているか?」  ルークに甘えてずっと日本語で話し続けてきたが、話が込み入ってきた。流石に英語を話そうとしたとき、ルークが何かを発した。 「え?悪い、聞き取れなかった。今なんて言った?」 「僕は、ナツが好きだ」  はっと息を飲み込んだまま、吐き出せなくなってしまった。そのとき俺はなぜか、高校の体育の授業を思い出していた。井沢にバスケットボールを頭に当てられて、倒れたことがあった。ルークの言葉は、そのときの衝撃を思い出すほどの破壊力があった。 「でもナツは、リオのことしか見ていない。僕の気持ちなんて、一生伝わらない。だから……」 「だから俺を噛んだっていうのか!?」  そう叫びながら、いつの間にかルークの胸倉を掴んで、ベッドに押し倒していた。  ルークは、名津よりは線が細いとはいえ、俺よりは遥かにがたいがいい。俺の力む両手なんて、簡単に振り払うことができるだろう。  だがルークは、全てを受け入れたかのように微動だにしない。 「やり方が汚いだろう!こんなことをしても、名津の気持ちは変わらないはずだ」  そう言いながらも、いまいち自信を持てていない自分がいる。番になれなかった俺と名津に、未来はあるのだろうか。 「そんなこと、分かってる。でも、リオのこと羨ましかった。名津に、僕を見て欲しかった……ごめん、なさい……」  消え入るような声だが、しかしはっきりと聞き取れた。ルークは、俺と番になりたかったわけではない。名津を誰にも渡したくなくて、俺の首裏を狙ったんだ。 「でも、オメガとオメガじゃ、番にならないはずなのに……」  ルークが不安そうに俺の首辺りを見つめている。  そうだ、オメガ同士が番になるなど、聞いたことがない。またルークが噛んだときに性交をしていないことや、噛まれた後に俺が名津に対して発情していることも考慮すると、番が成立していないと考えるのが自然だ。だがルークの噛み痕は未だに消えない。これは何を意味しているのだろう。 「俺とルークは番にはなっていないと思う。ただ、噛み痕が消えない以上、何らかの関係になったのは間違いないと思う」 「なんらかの……関係?」 「研究資料をあたってみるが……」  自分で言っておきながら、この関係性に全く心当たりがない。 「ねえ……キス、してみない?」 「え……?」  ルークの口から「キス」という言葉が出てきた途端、心臓が激しく動き始めた。ルークの薄翠色の眸は、揺らぐことなくこちらを真っ直ぐ見つめている。 「その、『なんらかのかんけい』なら、キスしたら何か起きるかも」  ルークの言うことも一理ある。触れ合えば、何か起こるかもしれない。いやしかし、それで俺が発情してしまったら一体どうなってしまうのか、想像しただけで恐ろしい。  恐ろしいが、確かめてみたい気持ちも湧き上がってきている。それに何故だか自身の前も起き上がり始めている。 「じゃ、じゃあ……1回だけ……」  いや俺は何を言っているのだろうか。発情していないのに、抑えることができない何かが俺を支配し始めている。  頬にそっと触れたルークの手は、名津のそれよりは少し華奢で、冷たかった。目を閉じながらルークが近づいてくる。もうこれ以上目を開けていられず、自身の瞼も下げた。  やや間があって、唇に生温かな感触があった。鼓動だけが鼓膜を振るわせ、他の音が何も聞こえない。緊張が最高潮に達しているが、自身の前は落ち着き始めている。  10秒、いや20秒ほど経っただろうか。その控えめな口付けを感じている間、高校入学時に見た校庭の桜の花びらが、眸子の奥で舞っていた。懐かしくて、戻りたくて、どうしようもなく切なくなった。  気づいたら、頬を温かい雫が伝っていた。  何とも表現し難い感情に浸っていたそのとき、「ドンッ」と左耳を打ち付ける衝撃音に驚いて目を開けた。 「……何してんの、りょう」  濡れた頬を冷やす風が、出入り口の扉から入ってくる。そこには、井沢と名津が立っていた。

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