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エピローグ

 ごうごうと、強風が木々を揺らすような荒々しい音が近づいてきた。それが波の音だと気づいたのは、目の前に広大な薄青の海が飛び込んできた瞬間だった。  天気が良い日に来られたら良かったのだが。あいにく今日の空は、灰色の分厚い雲で覆われており、それが冬の海をさらに寂しく、寒々しいものにしていた。  コンクリートの階段を降りて、砂浜に足を進める。波が届かないギリギリのところで立ち止まると、波が寄せては返す様子をしばらく眺めていた。  ふと、後ろから温かい何かに包まれた。途端に誉の大好きな香に包まれる。 「人に見られるぞ」  誉たち以外に人の姿は全くなかったが、一応、そうたしなめてみる。きっと、誉の恋人はそんなこと気にもしないのだろうけど。 「見られてもいい」  案の定、全く人目を気にする様子もなく、千晃は後ろから優しく誉を抱き締め続けた。 「寒くないか?」 「大丈夫」  医者だからなのか、千晃はいつも誉の体調を気にしてくれる。それは千晃と2度目の冬を迎えた今も変わらない。自分の方が末端冷え性のくせに、と思わず笑いたくなる。千晃の冷たい両手が、誉の両手を包んでごしごしと擦った。 「手袋持ってきたら良かったな」 「そうだな」 「急に思いついたからな。ごめん」 「別にいい。こうしてたら温かいだろ」  そう言って、誉の手を温め続ける千晃の体温を背中で感じ取る。  温かい。これが、人の、千晃の温もりだ。いつもいつも。誉に惜しげもなく与えてくれる。ずっとこうして、くっついていられたらいいのに。そんな風に思いながら、先に広がる、2人より何十倍も何百倍も、いや、永遠に近い時間を生き続ける海を眺め続けた。  20年ぶりぐらいに訪れたこの海。街おこしの一環で随分と様変わりしている上、季節も天気も違うのに。不思議とあの頃と変わらない風景に見えた。1つ違うのは。あの時、誉の傍にいた母親も父親もここにはいないことだった。  海の水がうねるように流れているのを見ていると、誉を激しく罵る母親の姿が浮かんできた。しかし、いつもの発作が現れる気配はない。誉はそっと目を閉じた。醜い母親の顔がすっと遠のいて消えていく。    やっと。母親を許せた。そして、母親から解放された。そう感じた。 「誉。そろそろ行かないか? 風邪をひく」 「……うん」 「明日、試験だろ? ここで風邪でもひいたら今までの努力が台無しだ」 「そうだな」  千晃が誉から体を離して、誉の手を取った。千晃にニコリと笑いかける。千晃がふっと笑い返してきた。  千晃と結ばれてから。鏡の中で千晃と対峙(たいじ)することもなくなった。ほどんと一緒にいるので当たり前といえば当たり前なのかもしれない。  不思議な出来事だったけど。あれは誉にも千晃にも必然だったのだと思えた。  同じように「愛情」に飢えた2人が出会うために。そして、その「愛情」を得た2人には、それを求めるための「鏡」はもう必要ないのだ。  誉はぎゅっと千晃の手を握り締めた。 「なあ、千晃。せっかく休みを取ったんだし、美味しい物でも食べてから帰ろうぜ」 「いいな」  2人一緒に車に向かって歩き出す。「寒いし鍋食べる?」「いや、試験前だし、カツはどうだ?」「千晃が縁起担ぎなんて、意外だな」「誉のためなら、縁起も担ぐ」「……そっか。じゃあ、カツにする?」「でも鍋が食べたいんだろ?」「んー、鍋も捨てがたいんだよね。迷うなぁ。」「じゃあ、どっちも食べるか。カツは串カツにすればいけるだろ」「それ、いいな。じゃあ、そうしよう。頭いいなぁ、千晃」そんな、たわいのない会話を交わしながら。 『誉』  ふと、後ろからだれかに名前を呼ばれた気がした。しかし、誉は歩を緩めることも、振り返ることもしなかった。その代わり。  さようなら。  海に背を向けたまま。そう心の中で(つぶや)いた。 【完】

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