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契約を結ぶ価値
気に食わない。この小僧の在り方が
気に食わない。この小僧を取り巻く環境が
その時、石牢の付近で見張りをしていた夜萩が、石牢の中に駆け込んできた。
「秋也まずい! 健吾の野郎が戻ってきた!」
秋也は瞑っていた目を開けると、ゆっくりと立ち上がろうとする。だが、ふらついて上手く立てなかった。
「すまん……この蛇に霊力の大半を渡したから起き上がれない」
倒れそうになった秋也を慌てて夜萩が支える。
「大丈夫か!? ……って、もう根こそぎ霊力が無いじゃないか! どうすんだよ」
そう言っている間にも、通路側から駆けてくる足音が近づいてくる。夜萩が振り返ると、鬼のような形相をした健吾と、冷たい目をした凪人がいた。
「次代、貴様あああ!!」
健吾は秋也に向かって苦無を投擲する。夜萩は秋也を支えたまま、牢の奥に飛んで避けた。
「うわっ、危な! 健吾さん落ち着いてください!」
「落ち着くだと!? 戯れ言を言うな!」
健吾は装束に隠していた得物を、更に次々と秋也と夜萩に向かって投擲する。こんな狭い場所では避けられない。夜萩が秋也を庇って目を瞑る。だが予想していたような痛みは無かった。
「えっ………?」
夜萩が目を開けると、大蛇が自分達に背を向けて立っている。その周囲には、散乱した得物が散らばっていた。大蛇の手元を見れば、最初に健吾が投げた苦無が握られており、どうやら夜萩が秋也を抱えて逃げている間に、大蛇が苦無を拾って応戦したようである。
「は………!?」
予想外のことに健吾はあんぐりと口を開ける。そんな健吾に大蛇は風のように駆けて近づくと、健吾の脇腹を蹴る。健吾は寸前で体勢を変えて身を庇うがもろに腕に蹴りを食らってしまい、ばきばきっと嫌な音がした。
「貴様………次代の式神になったのか……!?」
蹴りを食らった時に健吾は何かを感じたのか、苦痛と困惑を隠せない顔で大蛇を見上げる。そんな健吾を、大蛇は氷の眼差しで見下ろした。
「だから何だと言う。貴様には関係のない話だろ」
大蛇は建吾から目を離すと、ぎろりと凪人を睨んだ。
「貴様もあの小僧を殺そうものなら、この場で手足を折るが?」
凪人は諦めたような顔をすると、両手を上げて無抵抗であることを示した。
「私は健吾のような手口を使いませんよ。ですが次代、自分が今この場で犯した罪を理解しておりますか?」
「はい、理解しております」
秋也は壁に凭れながらも、まっすぐと凪人を見据えた。
「無断で牢に入ったこと。勝手に妖を式神にしたこと。ですが、貴殿達や頭領のように、初めから先入観で無辜の妖を殺すやり方に理解できません。この蛇も人を食った形跡が無かったのですよ」
「ですがそれは頭領の方針。我々には逆らう権利など無いでしょう。もちろん貴方にも。ですから貴方のしでかした事は、頭領に歯向かったことになります。罰が下ることは理解しておりますか」
「そのようなことは、とうに覚悟は出来ております。でなければ、式神を勝手に得るなど出来ませんから」
凪人はしばし秋也をじっと見つめる。やがて溜め息を吐くと健吾を抱えた。
「このことは頭領が帰り次第、報告します。その間に、その蛇の新たな名前を決めて身を清めてやりなさい。でないと正式に式神にしたことになりませんからね」
凪人は秋也と夜萩、そして大蛇に背を向けると歩き出す。そして凪人の足音は少しずつ遠くなっていった。
「ふう………」
秋也と夜萩は息を吐くと、その場に腰を下ろした。一方、大蛇は無言で二人を見下ろしている。
「秋也、これからどうするんだ」
「私が逃げるわけにはいかぬだろうな。夜萩、ほとぼりが冷めるまで城下にでも逃げてろ。どうせ頭領が嫌っているのは私だ。怒りが鎮まるまで私を罰することで、収まるだろう。いつもはただのいちゃもんだが、里の掟に従えば今回は私に落ち度がある。なのでいつも以上のことになりそうだがな」
秋也は自分のことすら他人事のように答える。夜萩は目を大きく見開くと、ばっと立ち上がった。
「馬鹿かお前は! いっつも自分のことを蔑ろにして!」
「安心しろ。和御魂の神託のお陰で死にはしない。何故だか頭領は『我が子を殺すな』と神託を受け取っているからな。もしうっかり死ねば、頭領も道連れに死ぬ。そんな愚行をあの男は取らぬよ」
表情も変えない秋也に、夜萩は奥歯をぎりりと噛む。
「だからって元服して頭領屋敷に戻ってから、いつも折檻の傷だらけじゃないか! お前がそんなんだから親父は……ぁ……っ……」
秋也の瞳が一瞬震えるのが視界に入ってしまい、夜萩は咄嗟に口をつぐむ。秋也は夜萩を気にしたようなそぶりも見せず、立ち上がった。
「とにかく頭領が帰る前にお前は逃げろ。頭領の怒りが冷めたら呼びに来る」
「………無茶はするなよ」
夜萩はそう言い残し、風のように駆けていった。
「………さあ、私達も出ようか」
大蛇は頷きはしなかったが、歩き始めた秋也の後ろを付いていった。
身を清める為の滝のある川辺に行く途中、秋也は今まで付いてきていた後ろの足音が消えたことに気づいた。
「大蛇、いるのか?」
すると地面に落とされた己の影の中から声が聞こえた。
『お前の影に潜っている。そうすれば面倒な輩も来ぬであろう?』
確かに二人組で片方は髪を下ろしたままだと、目立つだろう。存外優しい蛇だな。あんなに冷たい顔をしていたが人は見かけによらぬものだ。いや人ではないな。秋也が胸中でそう呟いている間に、滝に到着した。
「着いたぞ。でお前の名前だが………」
「何でもいい。さっさと決めろ」
蛇は影から抜け出して再び人の形を取ると、腕組みをする。蛇を見上げながら秋也は考え始めた。
影に潜る蛇か………。そういや蛇の異称は朽縄であったか。影……朽縄……。
「そうだ。影縄なんてどうだ?」
蛇の目が更に冷たくなった気がする。
「雑だなお前は。………まあいい。どうせ契約が解消するのは私にとって瞬きの間だ。お前に仕える間は影縄と名乗ってやる」
影縄は溜め息を吐きながらも、新たな名前を受け入れた。
「で、あの川に入ればいいのか」
「ああ。水は冷たいだろうが耐えてくれ」
影縄は水に体を入れた途端に強張ったが、不平も言わずに肩まで浸かる。そして秋也が良いと言うまで耐える。しばらく何も言わずに入っていたが、秋也が良いと言うと、ひとつ数えぬ間にすぐに上がった。
「蛇に冷たい水に入れとか阿呆か……冬眠するだろうが……!」
「すまない」
奥歯をがたがた言わせて震える影縄の衣に触れて、秋也は印を結んで呪を唱える。さっと影縄の身体や衣から水気が飛ぶと、秋也はまだ震えている影縄に次代の証である自らの羽織を掛けた。
影縄はまさか自分に羽織を掛けられるなどとは思わなかったのか、不審なものかのように秋也を見上げた。
「お前とて寒いだろうが。余計な気遣いなどするな」
「別に私は平気だ。これくらい慣れている」
影縄は更に眉をひそめたが、背に腹は代えられないのか秋也の掛けた羽織を握ってずれ落ちないようにしていた。
「まだ頭領は戻ってきてない筈だ。一旦私の部屋に戻ろう」
秋也は立ち上がると山を下り始める。影縄は立ち止まったまま秋也を見ていたが、すぐにその影に潜り込んだ。
四半刻もすると里の中でも大きな屋敷が見えてきた。屋敷の門には門番が居たためか、秋也は助走を着けて一気に塀を駆け上がる。そしてとある一室に入った。
「もう出てきていいぞ」
秋也が障子を閉めて火打ち石を使い火鉢を起こしながら言うと、するりと影縄が現れた。
「此処なら少しは寒さを凌げるだろう?」
影縄は無言で頷く。秋也はそれに安堵すると、箱の中から櫛と紐を取り出した。
「そんなに綺麗な髪なんだ。一応結ってみたらどうだ?」
すると影縄は不機嫌そうに睨んだ。
「そんなことをして何になる。別にお前の為にはならぬだろうが」
「いや。そこまで綺麗な髪を地面までひきずって土で汚したりするのは、勿体無いだろうと思ったんだよ。嫌か?」
影縄は己が髪を見下ろす。自分の髪が思ったよりも長かったのか苦虫を噛んだような顔をした。
「勝手にしろ」
影縄は畳に腰を下ろす。態度の割にはきちんと正座をする影縄の後ろに回ると秋也は髪を梳り始めた。影縄の長く黒い髪に何度もゆっくり梳ると艶が増し、さらさらと絹のように指先から溢れ落ちていく。満足いくまで梳ると、秋也は影縄の髪を結うことにした。切るのも勿体無いし、総髪も似合わないだろう。ならば後ろだけ結うか。秋也は影縄の髪を三つ編みに結っていく。
「………お前、我が身がかわいいと思わないのか? 私を式神にするなどという愚行で頭領という奴から罰を受けるのだろ?」
秋也はああと頷いた。
「かわいいとは思わんよ。それに罰も一時のことだ。それよりもしばらく契約を結ぶ方が有益だろ?」
「たわけが……」
影縄はぼそりと呟くと、結い終わるまで黙って大人しくなっていた。
「結い終わったぞ。どうだ?」
影縄が自分の髪を見下ろすと、先程まで下ろしていた髪は丁寧に結われた三つ編みになっていた。綺麗な三つ編みに影縄は目を開いて驚く。影縄が口を開いてなにかを言おうとした時、どすどすと響く早い足音が近づいてきた。秋也の表情が凍りつくと影縄を文机の方に押す。
「影縄、あの下に隠れろ!」
影縄は何が何だか分からぬまま、本性に戻り文机の下の影に隠れた。
影縄が隠れて一つ数えぬ程の早さで、障子が叩きつけられるように開く。秋也は背筋が凍りついていたが、それを面に出さず、来訪者を見据えた。
「貴様、穀潰しには飽きたらず、掟を脅かしたか」
いつものように氷のように冷たい目。今にも撫で斬りにしたいのか骨張った手は刀の柄にかかっている。
「頭領の方こそ、人の血肉を口にしていない蛇を殺そうとするのはどういったおつもりなのですか。それに、守護神に共食いをさせようとは何とも良い趣味をお持ちで」
こんな男に謝ってなどやるものか。こんな男に尾首を見せてなどやらぬ。秋也は冷や汗をかきながら頭領を睨んだ。頭領は秋也の後ろの文机の方を見ると舌打ちをする。
「貴様はこんな時ばかり悪知恵が働くなあ。貴様と手を組んだ夜萩とその蛇も一緒に処遇を受けるとすれば罰を軽くするがどうする?」
「いいえ。全ては私が引き起こしたこと。罰を下すならば私一人で十分です。勿論、頭領はそれをお望みでしょう?」
頭領は口元を下弦の月のように歪めると、握り潰しかねない程に秋也の腕を掴んだ。
「来い。とうにお前の罰は決まっておる。せいぜい耐えてみせろよ」
裸足のまま外に引き摺られる。一瞬振り返ると、影に隠れる影縄の双眸と目が合った。
出てくるな
そう口だけ動かすと伝わったのか影縄の姿が見えなくなる。秋也はそれに安堵すると前を見た。向かう先は牢のある方向。受ける罰は容易に予想がつく。秋也は自分のことよりも影縄が自分が居ない間に痛めつけられないかが気がかりであった。
『遅い………』
ずっと文机の下に隠れてから1日近くは経っている。なのにあの少年が戻ってこない。影縄は文机の下から部屋を眺めた。物が少なすぎる部屋。あの年頃では物欲などもあって当然なのに出家した僧侶並みである。僅かに積まれた本は恐らく陰陽道の書か。ぱらぱらと人の気配が無いときに見てみたが、よく分からない内容であった。
こう動ける範囲が少ないと億劫になってくる。早く戻らないものかと降り始めた雪を眺めながら秋也のことを思い出してみた。容姿は悪くはなく、どちらかといえば多少は整っている方であろう。だが、能面のように表情の乏しい顔や鋭い目つきがそれを損なっていて勿体無い。一瞬此方に微笑んだ顔は、お世辞抜きで美しいと思えたが瞬きの間だけだ。幻だろう。
『あのたわけ……』
何を考えているのだろう。私に霊力の殆どを渡したり、私が濡れ衣であることを見抜いたり。あのように私の髪を美しく結ったり……。あの時は思わず礼を言いかけたのに言えなかった。それで良いと思う反面、もし礼を言えてたらあの小僧はまた微笑んでくれたのかもしれなかったのにと残念に思う自分がいる。一番訳が分からないのはあの小僧の血の味だ。心の清いものは美味く、外道は不味いと聞いたことがあるが、あの小僧の血は美味であったのだ。小僧が悪巧みをしていると思ったが、噂通りならあの小僧は……。
いやそんなことはどうでもいい。早く戻ってこい。そうすればまた小言をぶつけてやる。そう胸の内で誓った時、僅かに自分の魂を縛っているあの小僧の契約の糸が緩んだ気がした。
『っ………!?』
思わず息を飲むと、血の臭いが鼻腔を擽った。小僧が戻ってきたのか!? 影縄は人の形に戻ると立ち上がって庭に出る。すると血の臭いは濃くなった。辺りを見回せば、遠くから人影が近づいてくるのが見えた。それは身体を引きずって歩いているのか覚束ず、やがてゆっくりと倒れた。
「……!」
影縄が駆け寄ると、それは己の血で衣を濡らした秋也であった。
「おい、どうした!?」
影縄が肩を揺さぶるが返事はない。代わりに腕の関節でもない部分があらぬ方向に揺れて、影縄は揺さぶるのをやめた。秋也の額に手を置くと濡れており、燃え上がるように熱い。顔だけでなく髪も濡れており、水を掛けられたのだと容易に想像がつく。
「すまん……部屋に……運んでくれ」
微かに聞こえた声は掠れている。影縄は言いようもない感情に唇を噛み締めると秋也を抱き上げ、部屋に上がった。
「それ……取ってくれ」
秋也が指差すのは小箱。影縄はからからと乾いた音がする軽い箱を秋也に渡した。秋也はそれを開けると中から鳥の形に折られた紙を取り出し息を吹き掛ける。紙を宙に投げると、紙は畳に転がる前に黒い塊になって部屋を飛び回る。目を凝らして見るとそれはどうやら烏のようだ。
「烏の式が案内するから………私を式が案内する場所まで運んでくれ……お願いだ……」
秋也はそこで力尽きたのかがくりと影縄の腕の中で目を瞑った。影縄は背筋が凍りつきそうになったが、秋也の口元に手を翳すと息はある。それに安堵していると、烏が影縄の髪をつついた。
「せっかく小僧が結った髪をつつくな。髪が乱れるだろうが」
影縄が立ち上がると、影縄の前を烏が悠々と飛ぶ。影縄は少しでも外の冷気が秋也の身体に当たらないように妖力で布を編むとそれで秋也を包み駆け出す。烏に誘われるまま、影縄は宵闇の中を走った。
蛇の性分のため寒さで眠気が襲う。だが腕の中の熱さが今にも冷たくなるのではという恐ろしさが勝り、必死に走り続けた。
烏が止まったのは長屋の端の家であった。烏は影縄の頭上に来ると紙に戻る。影縄はそれを懐に入れ、目の前の家を見た。対して何の変哲もない長屋だ。少し変なのは薬臭いことだろうか。影縄が戸を叩こうとする前に、がらりと戸が開く。戸を開けたのは土器 色の髪をした女であった。
「おや。化生の客とは珍しい。何かあったのかな。………秋也に何をした」
秋也の姿を視界に入れた途端、女の桔梗色の瞳が恐ろしく此方を貫く。
だが、それに文句を言う暇などない。
「この主に頼まれて此処まで運んだまでだ。お前は薬師なのか。ならばさっさと小僧を治せ」
女はきょとんとしていたが、何か納得いったのか瞳から警戒の色が消える。代わりににやりと笑った。
「そういうことね。分かった。でそれが人に物を頼む態度かな?」
「それどころではないだろう!! さっさと小僧を…」
「だから態度は?」
この女狐め、足元ばかりを見て。影縄は奥歯をぎりりと噛んだが、こんなことで時間を潰している暇はない。
「お願いします……。私の主を助けてください…」
「よろしい。中に入りなさい」
部屋に足を踏み入れる前に、小僧を見下ろす。腕の中の小僧はぜいぜいと荒い息を吐いており、布越しにまで伝わる火のような熱に辛そうにしている。そんな小僧を見ているだけで胸が痛くて堪らなかった。
中に入ると部屋中が薬の臭いばかりして、くらくらする。
「はい、ここに寝かせて」
女は薬を作る道具をがちゃがちゃと片付けると、一人寝る空間に布団を敷いた。そこに秋也を寝かせると、ばっと秋也の着物を剥ぐ。
「なっ………!?」
普通、女が男の着物を剥ぐのか!? 影縄が呆気に取られていると、女は手拭いを放り投げた。
「そら、ぼさっとせずに井戸で濡らしてきて。あと桶に水を汲んでくること」
「分かった………」
影縄は手拭いを受け取ると、言われたままに井戸に向かった。井戸から水を汲んでいる間も小僧の様子が気になって仕方がない。さっさと水を桶に移すと桶を運んだ。
「持ってきたぞ」
桶を置くと、水で濡らした手拭いを持って女の傍に近づく。
「じゃあ一旦秋也の身体を拭いて」
小僧の身体を見ると皮膚が鞭か何かで裂かれたのか細かい傷が大量にある。小僧のことなどどうでもいいが、拭くと痛そうな顔をするのでそっと身体を拭いた。
「じゃあ今度は背中ね」
言われるままに小僧の身体を俯せにする。手拭いを一旦水で洗ってから先ほどと同じように背中を拭こうとした時、影縄は心の臓が止まる錯覚を覚え手拭いを取り落とす。その一つ後、影縄は吐き気が込み上げ思わず口元を覆った。
自分よりも遥かに短い時しか生きていない小僧が負っていた物がこれ程のことだと直面したくなくて、自分に手を差し出した子供が想像を絶する苦しみを抱えていたなどと考えたくなくて、目を瞑ってしまった。
「やっぱり契約を結んで1日程度だと、このことを言ってなかったか。まあ1日だろうが数年だろうが秋也は自分から言うことなど無かっただろうね」
「これは………何だ………」
ようやくゆっくりと目を開けたが、それでも痛々しい傷を見ることは出来ない。
「一応言っておくけどこれは約10年近く前の傷だ。君が気にすることはない」
「だが……」
そういう話じゃない。だが何を言えばいいのか思考が纏まらない。自分が痛い訳でもないのに、胸が痛くて苦しくて目の前が滲む。
「知りたいかな? ならば教えてあげなくもないけど」
女は小僧の背中を拭き終えると、薬を塗りながら話を始めた。
「秋也には腹違いの弟がいてね。その弟が頭領の逆鱗に触れて熱湯を掛けられそうになったんだ。毒薬やら何やらを煮詰めた呪具専用のね。弟を庇った秋也はそれを背中全体に被った訳さ。帯から下に掛からなかったのが不幸中の幸いだけどね」
薬を塗られるのが沁みるのか、小僧が歯を食い縛って呻く。それに何も出来ずにいると、手を握ってやれと言われて傷だらけの小僧の手を包んだ。
「半月は生死をさ迷ったね。今では多少大丈夫と思っていたが、此処まで折檻されるとは………。この傷も熱の原因のようだね」
小僧の身体を起こせと言われて起こさせると、女は素早く清潔な布を小僧の身体に巻いていく。それでようやく吐き気は収まった。
「後は腕の骨折か。利き腕を折るとは連中は最低だ。おい蛇、鋸を貸してやるから適当にそこの材木切って軽く鑢 をかけろ」
確かに隅の方に鋸と材木がある。だが何故大工でもないだろうにこんなところに? いやそんなことは後ででも聞ける。
「分かった。だが何故私が蛇だと知っている。名乗った覚えはないが」
女は頬を指すとにやりと笑う。
「君、さっき焦っていただろう? 頬に鱗の模様がうっすらと出ていたよ」
はっと頬に触れるが何ともない。影縄が考えていることを悟ったのか、もう模様は無いよと女が言った。
「さあさあ。こんなことで時間を取ってないですることをやって」
影縄は渋々手頃な材木を慣れない手つきで切って、尖った所で傷つかないように鑢をかける。そんな影縄をにやにやと女は見つめると、治療を再開した。
添え木を作り終えると、もう治療の方も終わっていた。
「熱が下がらないから暫く様子見しないとね。熱が引くまでは安心など出来はしまい」
頬に触れてみるとまだ熱く、苦しげなままである。これをいつまで見れば良いのか。
「ただ傍に居て見守ってやるといい。秋也は強がりに見えても寂しがりだ。起きたときお前がいれば安心するかもしれないよ」
そんなことで安心など出来るのか。いまいち納得は出来ないが、とりあえず小僧の手を握ってやる。私の冷たい手が心地好いのか、僅かに小僧の苦痛に喘ぐ表情が薄れた気がした。
小僧のことなどまだ嫌いだ。在り方が気に食わない。そして……私のせいであったとしても小僧をこのように苦しめた者共が気に食わない。
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