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二話 憑き人-2

 幹線道路に出てタクシーを拾う。タクシーなんて贅沢な乗り物、二十七年間生きてきて初めて乗った。  促されて俺が先に乗りこむと、運転手に刺すような目付きで睨まれたものの、結局は何も言われなかった。何日も風呂に入れていないのだ、異臭がするのだろう、とそこで初めて自覚する。そしてさっき抱きついてきたサツキさんは何も指摘しなかったな、と思い出す。苦手な存在の襲来を受けたとはいえ、躊躇なく薄汚れた男に密着できるなんて変わった人である。 「そういえば名前聞いてなかったねえ。良かったら教えてくれる?」  行き先を運転手に伝えてから、隣に座る青年が俺に訊いてきた。本名を名乗るのを一瞬だけためらうが、ちょうどいい塩梅の偽名など咄嗟に出てくるはずがなく、正直に答える。 「……(いぬい)です。乾哲成(てっせい)。乾は一文字 (いちもじ)の乾、哲学の哲に、成立の成です」 「哲成くんかあ、格好いい名前だねえ。うーんそれじゃあ……哲くんって呼んでもいいかな?」 「え、はあ。どうぞ、ご自由に……」  無邪気な様子のサツキさんの隣で盛大に戸惑う。下の名前で呼ばれる機会すらこれまでほとんどなかったのに、さっき初めて会った人からいきなり愛称で呼ばれるなんて。この人は物理的な距離も精神的な距離も一気に詰めすぎではないか。そう思うのに、不快ではないのが不思議だった。  十分ほどの移動を経て降車したのは、大通りから二本ほど脇道に入ったところにある、寂れたビルの前だった。その一角にサツキさんの言うところの事務所はあるという。人通りは(まば)らで街灯は少なく、夕暮れ迫る辺りには治安の怪しい雰囲気が立ちこめ始めている。 「ここがぼくの職場ね」  サツキさんがビル三階の『鈴蘭特殊事象相談所』なる看板を指差す。何をしている事務所なのか分からないし、そもそもの立地が悪すぎる。少なくとも、看板を見てふらっと立ち寄れる場所ではない。  ――目的があって、ここを目指している人以外には。  そう思うと、ふっと背筋に悪寒が走る心地がした。悪い予感のようなものを振り払うべく、 「鈴蘭って、サツキさんの名字か名前なんですか?」 「いやあ、単にぼくが好きな花ってだけだよ。そんなステキな名前だったら良かったんだけどねえ」  気になったことを尋ねると相手は苦笑した。  事務所へ続く階段をのぼるとき、サツキさんは俺を先に行かせた。ここまで来たらもう、何も聞かないで引き返すことはできまい。喉のあたりに酸っぱいものが込み上げてくるのを、俺はなんとか飲み下して抑えた。  事務所の中は薄汚れた外見とは裏腹に綺麗な印象だった。というよりも、普通すぎる。サツキさんが灯りをつけると、一般的なイメージそのものの応接室が目の前に現れた。什器もシンプルで実用重視のものに統一されていて、素っ気ないほどに無機質だ。  未だ全容が掴めない『特殊事象相談』とは、一体何なのか。  ドアの近くで突っ立ったままの俺を尻目に、サツキさんはこちらに向き直ってほほえんだ。 「さっそく説明を始めようかと思ったんだけど、もしかしたら先にシャワー浴びてきてもらった方がいいかも。哲くん、それでもいい? 事務所の奥にお風呂場があってね、着替えも新品のカミソリも出すし、タオルも棚の中のを好きに使っていいから」 「あ……はい」  提案されて頬のあたりが熱くなる。やはり俺は臭いのだ。サツキさんも顔色に出さないだけで、心の中ではこちらを蔑んでいるのだろう。必要なものを手渡され、すごすごと浴室の方へ向かう。  応接室の奥には居住スペースがあり、キッチンや浴室が備え付けられていた。ベッドルームの扉が薄く開いており、隙間からサツキさんの寝床と思われるベッドを垣間見てしまいどぎまぎする。  脱衣場で薄汚れた服を脱ぎ去り、不慣れな形のシャワーに若干まごつきながら湯を浴びる。蓄積した汚れを完全に落とすべく丁寧に髭を剃り、何やら高級そうな匂いのするシャンプーで伸びっぱなしの髪を洗い、ボディーソープを念入りに泡立てて全身の隅々まで清める。  初めて会う人についてきて、初めて入る事務所の浴室で裸になっている。なんだろう、このシチュエーションは。現実感のなさにぼうっとしていると、がらっと引き戸が開く音に続き、「哲くーん、使い方分かるー?」とサツキさんのやや大きな声が響いた。 「だ、大丈夫です!」  その場で飛び上がりそうになりながらなんとか声を返す。自分の防御力が一番低くなったときに近くに人の気配がするというのは、こんなに不安なものなのか。  サツキさんが貸してくれた少しだけサイズが小さいTシャツとジャージの下を身に纏い、脱衣場から出る。応接室の革張りのソファの上で、サングラスを外してジャケットを脱いだサツキさんが寛いでいた。 「あ、あの……お待たせしました」  なんと声をかければ分からず、おどおどと声をかける。  サツキさんはこちらに視線をやると、わお、とおどけように両手を広げる仕草を見せた。 「イケメンくんだ。湯上がり美人だねえ」 「え? いや、そんなことは」  お世辞でも褒められたことなどないので、どう対処すればいいのか反応に困る。サツキさんは気にしていない様子で、彼の対面にあるソファを掌で勧めた。  ぎこちなくそこに腰を下ろし、身を乗り出してにこやかに微笑するサツキさんと相対する。思わずごくりと唾を飲む。これから何を聞かされるのだろう。そういえば、この事務所には他に人はいないのだろうか。 「それじゃあ、仕事の話を始めるねえ。気になったことがあればいつでも質問してくれていいから」 「……はい」 「まずこの相談所の説明だね。ぼくはここ、鈴蘭特殊事象相談所で所長をやっているサツキです。所長といってもメンバーはぼくしかいないんだけど。……特殊事象っていうのは、まあストレートに言うと心霊現象のこと。どこに相談していいか分からないような、超常現象の相談に乗っていてね、特に人間の霊を祓うのを専門にやってるんだ。ま、端的に言うと除霊だねえ。ぼくは祓い屋なんだ」  心霊。超常現象。除霊。祓い屋。常識的な人間が聞いたら眉をひそめ鼻をつまむような単語がぽんぽん出てくる。しかし俺は呆気に取られつつも、忌避感は抱かなかった。この人は自分も視えるのだと言った。俺だって、そちら側の人間だ。  しかしお祓いを担う人と聞いたら、どうしても袴や袈裟や修験者(しゅげんじゃ)の格好をした人々を想像する。サツキさんはそういったイメージからはかけ離れている。こう言ったら失礼だが、どちらかと言えばならず者と言われた方が信じられる外見だ。 「意外だった? お祓いをしてる人間とは思わなかったでしょ」  心を読んだみたいに、サツキさんが切れ長の目を細めてにやりと笑う。俺は慌てて話題を変えることにする。 「い、いえ……。それで、スカウトっていうのは? 俺のこと、どうやって見つけたんですか」

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