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異聞 後-2

 自分とてそこまで経験豊富なわけでもないが、己の好みは分かっている。しかし哲くんは体質のせいでレジャーを楽しむことができていなかったから、何が好きなのかも分からない。これまでできなかったのならこれから経験すればいい。一緒に楽しめることを探っていくのだ。  ぼくは腕を組んで思案する。 「これからふらっと行けるとしたら、そうだなあ……哲くん、映画館で映画を観たことはあるんだっけ?」 「ないっ、ないです」  尋ねると反射的に背すじを伸ばした哲くんがぶんぶんと頭を振る。  よし、とぼくは掌をぱんと合わせた。まずひとつ、決まりだ。 「じゃあ今日は映画を観に行こっか」 「は……はい!」  ぱあっと顔を輝かせる想い人の前で、ぼくはこっそり体内の熱に向かって、鎮まれ鎮まれと念じていた。  最寄りのシネコンまで電車で移動する。平日の半端な時間のため、車内の人は少なめだった。哲くんの隣を歩きながら、せっかくデートになるならもっとお洒落すればよかったと後悔する。この悔いは次回晴らそう。きちんとプランを練って、哲くんの初めてを二人でたくさん経験するのだ。  駅ビルの内部にあるシネコンに到着すると、「うわ、こんなに広くて豪華なんですね……」と哲くんは物珍しそうにあたりをきょろきょろ見渡した。  確かに、こうして改めてじっくり見ると映画館という場所は極めて異質だ。映画を観る、というたったひとつの目的に特化した空間。薄暗い照明も、絨毯が敷かれた床も、これから観る映画への期待を増していくための一種の装置のようだ。数時間、身動きを自ら制限して映像を観る、ただそれだけの空間。目的が限られれば限られるほど、その空間は贅沢なのかもしれない。  上映されているタイトルが表示された液晶を見上げながら、ぼくと哲くんは何を観るか相談した。この選択は重要である。おそらく邦画のデートムービーはどちらの肌にも合わないし、SF映画はハラハラしてデートどころではなくなりそうだ。 「逆にホラー映画はありかもねえ。普段の仕事相手が霊だから、フィクションなら安心して観られるかも」 「確かに……でも仕事のことは今は忘れたくないですか?」 「うーん、それも確かに」  そんな会話も経て、ぼくらは予告から明らかにハッピーエンドが約束されているアクションものを観ることにした。やっぱり映画館で観るならスクリーン映えはするに越したことはない。平日のこの時間に、三分の一ほど座席の予約が入っているのを勘案すると、かなり人気のある作品のようだ。  次の上映までには一時間近くある。「そのへんぶらぶらしてみようか?」と提案して、二人で駅ビルの中を見て回ることにした。ふむふむこれはなかなかにデートっぽいぞ、とぼくは一人で含み笑いを漏らす。  広大なフロアにたくさん入っているショップは、大半は女性向け店舗だ。ひとつひとつ個性を打ち出しているが、皆一様にきらびやかでなんだか現実味がない。通路のところどころにうっそりと霊が佇んでいるのが、装飾の一部みたいにも見える。悪さをする雰囲気ではないので、ぼくらは気づかぬふりをした。  これだったら階を移動して食べ物を見た方がいいかな、と考えていたところ、 「あ、ここ見てみてもいいですか?」  哲くんが指差したのはメンズのアクセサリーショップだった。他の店舗に比べて少しだけ物々しい空気感がある。ちょっと意外に思いながらも「もちろん」とぼくはうなずいた。  ネックレス、指輪、ピアス、ブレスレット、たくさん並べられたそれらはほとんどが金属製だ。哲くんにこういう(いか)ついイメージはないので、不思議に感じつつ彼の横顔を見やる。そこにはなんだか真剣な目をした青年がいた。 「哲くん、こういうの好きなんだ?」 「あ、えっと……俺じゃなくて、颯季さんに似合いそうだなと思って」 「ぼくに?」思わぬ言葉に目を瞠る。 「はい。颯季さん、ピアスとか似合いそうだなって、前から思ってたんです。ピアスホールはあけないんですか?」  哲くんの赤みが強い焦げ茶色の瞳がこちらを捉える。そんな印象を持ってくれていたなんて全然知らなかった。  きっと褒め言葉なのだろう。ただぼくは、生涯で一度もピアスホールをあけたことがない。あけようとも思ったことがない。なぜならば。 「考えたことなかったなあ。ピアスホールをあけるのって、ちょっと……痛そうじゃない?」  体に穴をあけると考えただけでほんのり身を竦めたくなってくるくらいだ。こんなナリなので全身タトゥーだらけなんじゃないかと思われることもあるけれど、刺青なんてもっと無理だ。想像しただけで身震いが来る。  ぼくの返答を聞いた哲くんは、目を二、三度またたいたあと、口元を押さえてふふっと笑いだした。腹の底から突き上げてくる可笑しさに耐えきれなくなったというような、自然で朗らかな笑い方だった。  哲くんが大笑いするところを初めて見たぼくは阿呆みたいにぽかんとしてしまう。 「す、すみません。こんな笑っちゃって……でも、颯季さんがそんな風に気にするの、ちょっと意外で。失礼ですよね……」  哲くんは口の端に笑みを残しながら、目元に浮かんだ涙を指先で拭う。彼が笑い転げる様は、可憐な花がほころぶようで――そう、まさしくぼくが好きなスズランの花のような笑顔だった。  突然凄まじい破壊力を見せつけられ、膝から崩れ落ちそうになるのをなんとか堪える。一呼吸置いて心臓を落ち着かせてから、余裕のある表情を取り繕って口を開く。 「全然失礼じゃないよお。むしろ、哲くんのいい笑顔が見れて嬉しいっていうか。……ピアス、せっかくだからお揃いでつけようか?」 「お揃い?」今度は哲くんが瞠目する番だった。 「うん。お互い片耳ずつホールを作って、一組のピアスを片方ずつつけるの。どうかな」 「お、俺と、颯季さんが?」  提案に動揺をあらわにする哲くん。それも仕方のないことだろう、ぼくだってこっ恥ずかしいアイデアを口にしている自覚がある。こういうのは照れた方が負けだ。  想像してみたのか、哲くんは頬を鮮やかな朱色に染めていた。 「どうだろう、嫌かなあ」 「い、嫌ではないですけど、その……恋人みたいで恥ずかしいなって、思って……」  指を絡ませてもじもじしている奥ゆかしい青年を見ているうちに、いつもの調子が戻ってくる。  商品が乗った棚の影、他の人には見えないところで、ぼくはそっと哲くんの指先を握る。 「ふふ。実はぼくたち、恋人なんだよ。恋人なんだから恥ずかしくたっていいでしょう。それにね、恥ずかしいことをたくさんするのが恋人ってものなんだよ」 「そういう、ものですか」  格言めいた物言いをしているが、もちろん誰か歴史上の有名人が言ったことでも書いたことでもない。自分がなんとなく思いついただけの意見だ。ただ、その持論は概ね間違ってはいないのではないか、と思う。周囲から見た恋人なんて、恥ずかしさを振りまいて歩いている恥の塊みたいなものだ。  ぼくの適当な発言に、哲くんは真摯な目をしてうなずく。除霊技術を教わった師匠から「君ね、詐欺師だけにはならないでよ。適性がありすぎるから」と言われたことのあるぼくだが、彼のあまりの従順ぶりを見ていると、詐欺師の資質がない人間でもころりと騙せそうだと心配になってしまう。ぼくがしっかりして哲くんを守らねば、と息巻く気持ちになった。 「哲くんはつけるならどれがいーい?」 「うーん……これかこれか、こっちですかね。颯季さんはどうですか?」 「ぼくは、そうだなあ」  あれこれとピアスを見繕いながら、ぼくは胸の内が満たされていく感覚に浸っていた。哲くんとお揃いで身につけると考えたら、ホールをあける痛みなんて取るに足らないものだと思えてくる。  世界一恥ずかしい人間ランキングがあったとしたら、この瞬間のぼくはきっといの一番に名前が挙げられていたことだろう。  ピアスを手に入れたぼくらはいい時間になったところで逍遙(しょうよう)を終える。シネコンへと舞い戻り、ぼくがフード・ドリンクの販売口に並ぶと、哲くんがひそひそと疑問を囁いてきた。 「あの、映画って確か二時間くらいですよね? そんなに食べたり飲んだりするんですか」 「あー、ポップコーンとドリンクを買うのはねえ、もう儀式みたいなものだから。夏祭りで買う焼きそばとトウモロコシみたいな」 「夏祭り……聞いたことはあります」 「あっ……ごめんね。今度夏祭りも一緒に行こうね……」  失言をしたぼくの前で、哲くんは気にした風もなくへにゃりと笑ってみせる。そういえば、お祭りもデートの定番のひとつだったか。夏祭りはその性質上、生者と死者が混ざり合うことが多く、余計な厄介事を避けるためにもう何年も足を運んでいなかった。ともあれ、お守りがあれば哲くんと行っても危険は少ないだろう。それに彼はきっと、浴衣や着流しが抜群に似合う。白い首筋に提灯の光が映えて――いやよそう、煩悩まみれの妄想は。  何か問いたげな哲くんの視線に素知らぬ振りを決め込み、ポップコーンとコーラを抱えながらぼくらは目的のスクリーンへと向かう。  選んだ映画はアクションもののシリーズの続編で、あまり小難しく考えず、頭を空っぽにして観られる作品だった。前作のダイジェスト的なものが冒頭に入っていたから話についていけたし、何より映像が派手だ。画面作りに全力を注ぎ込んだ感があって話運びはごく王道、仲間と力を合わせ危機を乗り越えたあとには当然のようにハッピーエンドが訪れた。ちらりと横目で哲くんの表情を見ると、視線は食い入るようにスクリーンに向けられており、その双眸はきらきらとしていた。彼が楽しめたのなら何よりだ。初めての映画館体験として、悪くない作品だったようだ。

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