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覚悟-10-A-

 何か自分の周りを探るような気配。耳元を擽られてアルノシトは思わず肩を竦める。 「……ん……」  浮上する意識。ゆっくりと眼を開けると── 「……ジーク」  温かい毛皮が目の前にあった。耳元でふすふすと言っていたのは愛犬の鼻息。ぴとりと濡れた鼻が首筋に押し付けられると、吹き出してしまった。 「くすぐったいから……起きる、起きるから」  こうやって起こしに来るときは何かして欲しい時だ。ベッドの上で身体を起こすと同時に動きが止まる。 「ルートヴィヒ……さん」  ベッドから降りた愛犬はお座りの姿勢。わん、と吠えるジークの頭を撫でながら、軽く頭を下げる。  すぐ傍にある椅子に腰かけている彼は寝巻にガウン姿。髪を下ろしてラフな雰囲気──とはいえ、寝起きでぼさぼさの髪の自分と同列に語っては失礼だろう。 「おはよう、ございます……」  まさか朝一で逢えると思っていなかった。寝起きで顔も洗っていないし、髪も──容姿を気にするような素振りにルートヴィヒは静かに笑った。 「おはよう──すまない。君の様子が気になって……」  こんな早朝に来てしまった。  非礼を詫びる言葉に慌てて首を左右に振る。 「全然、大丈夫です。来て下さって有難うございます」  慌てたおかげで言葉がまとまらなくて一度口を閉じる。ふふ、と照れ笑いを浮かべてルートヴィヒを見た。  言葉通り、体調にも精神にも不調がない様子にルートヴィヒも表情を緩めた。 「……体は大丈夫か?」 「はい。結果が出るまでは断言はできない、と先生は仰っていましたが……今のところ、何もないです」  アルノシトの回答にルートヴィヒは大きく息を吐き出した。 「そうか。もし、何かあればすぐに人を呼んで欲しい」  沈黙。ぱたぱたとジークの尻尾が床を叩く音だけが響く。 「あの」 「その」  ほぼ同時に口を開く。どうぞ、とお互い譲り合っていれば、ドアをノックする音。 「……爺ちゃん」  ルートヴィヒが席を立って頭を下げた。祖父は、気遣わなくていい、と困ったように笑う。  自分たちと違って服を着替えた祖父が入ってきた。祖父の手にあるのはジーク用のリード。現金なもので、尻尾を振りながらジークは祖父の方へと。 「ジークは儂が散歩に連れて行くから。お前たちはゆっくり話をしなさい」  ジークを繋いだ後、部屋を出ようとする背中へとルートヴィヒが声をかけた。 「よろしければ。一緒に朝食を──」 「散歩から戻ってからでよければ」  そのまま部屋を出て行った。再び静かになる。 「……えっと。あの、有難う……御座いました」  アルノシトから口を開いた。立ったままのルートヴィヒが、あ、と気づいたように視線を向けてくる。 「いや……私の方こそ。すまなかった……嫌な思いをさせてしまって」  立っていたルートヴィヒがベッドの端へと腰を下ろす。伸びてきた指が確かめるように頬や首筋を撫でるのがくすぐったくて肩を揺らした。 「気にしてません……っていうと嘘になるけど。でも……ルートヴィヒさんなら、良いようにしてくれるって思ってたから」  頬を包む手に自分の手を重ねる。自分よりもルートヴィヒの方が辛そうな顔をしているように見える。 「実際……俺が思いもしないかたちで解決してくれたし……だから──」  言葉が途切れた。ルートヴィヒが顔を寄せて来たから、自然と眼を閉じて受け止める。触れ合わせるだけの口付けはすぐ離れていく。  何度か啄まれた後、頬から離れた腕で抱きしめられる。 「……本当に。君が無事でよかった──」  自分からも腕を伸ばしで抱きしめ返す。伝わってくる体温も香水の匂いも。ルートヴィヒのものだと実感すると自然と身体の力が抜けた。 「ただいま」  いつもは自分が言われる側の言葉を伝えるのは不思議な気持ちになる。ぐ、と一度強く抱きしめる腕に力が籠る。 「おかえり」  腕が緩まった。再び頬に手を添えられ、恥ずかしさと嬉しさとでくすぐったいような気持ちになる。 「……お爺様が帰ってきたら。朝食に行こう。それから──」  今日の夜は一緒に寝て欲しい。  告げられた言葉に、あ、と唇が動く。頬が熱くなったのをごまかすように目を伏せた。 「えっ……と…その……」  言葉に詰まる様を見ながら、鼻先や額へと唇で触れては離れる事を繰り返す。愛しくて仕方ない、といった様子に制することも振り払うこともなく、ただ受け止めるだけ。 「────ただ隣にいてくれるだけでいい。それも難しいなら、無理はしなくていいから」  先走ってしまった。ますます頬が熱くなるのに眉を寄せた。 「……──本音を言えば。今すぐにでも君を抱きたい……だが」  昨日受けた検査の結果もだが。何よりも、この数日の環境の変化で疲れているアルノシトに無理はさせられない。  体と精神が落ち着くまでは、自分で思う以上に静養して欲しい。  そんな風に話すルートヴィヒの表情も声も。髪や頬を撫でる手の動きも。自分に対しての思いやりしかなかったから、アルノシトは素直に頷いた。 「……はい。有難うございます」  もう一度口づけてから離れていく。ベッドから立ち上がったルートヴィヒは懐中時計で時間を確かめる。 「私は朝食の準備をするよう伝えてくるから──君はお爺様が戻られたら一緒に来てくれ」  また後で。  そう言ってから外に出ていく背中を見送る。  また後で。  そう言われただけでじわりと涙が滲むことに自分でも驚いて顔を拭う。  ルートヴィヒの言うように、自分で意識しない部分で弱っているのかも知れない。軽く頬を叩いて気持ちを入れ直した後、服を着替えるためにベッドから降りた。         ◇◇◇◇◇◇◇  その日は一日。庭で愛犬と遊んだり、祖父と雑談したりしてゆっくりと過ごした。  自分の体調がよほど悪くならなければ、明日には祖父は雑貨店に戻るらしい。本来なら自分も手伝いたいところなのだが、ルートヴィヒと同じような事を祖父にも言われ、数日はここで過ごさせてもらうことになった。  ジークも祖父もいなくなると少し寂しい気もするが、屋敷の人も皆優しいし、何よりルートヴィヒが傍に居てくれる。  無論、仕事があるからずっと一緒──と言う訳にはいかないのだが。それでも、屋敷の中なら自由にしていい、と言われたから、明日からはのんびり探索でもしよう。  そんなことを考えながら、呼ばれた時間に部屋へと向かった。ノックをしてから中へ入る。  何度か逢瀬を重ねてはいたが、彼の私室に入るのは初めてのことで。少し緊張しながら足を踏み入れる。 「……うわ」  広い。  それが第一印象。ぱっと見て目に入るソファセット。応接室と言われても疑わない調度品の数々。そのソファセットの奥にある執務机に座っていたルートヴィヒが顔を上げた。 「……来てくれて有難う。疲れてはいないか?」  今の今まで仕事をしていたようだ。ペンを置いて立ち上がった彼がこちらへと来るまでその場で待つ。 「探検しているみたいで楽しかったです」  なら良かった。  いつも通りの穏やかな表情。案内されるままに足を進めると、天蓋付きの大きなベッドへと上がり込む。もぞもぞと寝心地のいい場所を探して身じろいでいると、静かに抱き寄せられた。 「……」  大きく息を吐き出したルートヴィヒの顔を見上げると視線が合った。 「……ルートヴィヒさん」 「うん?」  伝わってくる体温。自分からも腕を回して胸に顔を寄せる。 「俺が言えたことじゃないけど……ちゃんと休んで下さいね」  自分のために──なんておこがましいが。色々と動いてくれたことが、ルートヴィヒの負担になっていたのは事実だろう。  申し訳なさと同時に、こうして傍に居るだけで満ち足りた気持ちになることも事実。彼も同じだったら良い──そう思ってじっと見つめた。 「……有難う。今日はぐっすり眠れると思う」  言葉通り。緩んだ表情の彼を見て、アルノシトも肩から力を抜いた。 「なら──俺も嬉しいです……」  目を閉じた。規則正しい鼓動を聞いていると、それだけで安心して眠くなってしまう。どちらが先かは分からないうちに眠りに落ちて行った。

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