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逢いたいのメールから始まる「お試し」の一ヶ月-3-B-

 目覚まし代わりのスマホが振動とアラームで時間を告げる。  鈍い動きで手を伸ばし、アラームを止めた後で時間を確認。眠気に半眼のまま、一度大きく欠伸をしてから体を起こす。 「……ぁ」  そうか。今日から佑の部屋で暮らすんだっけ。  見覚えがある部屋だが、見慣れた部屋とは違う空間。暫く思案した後、昨日の決め事を思い出してもう一度大きく欠伸。  そこでようやく気付く。隣で寝ていたはずの佑の姿がない。   先に起きてリビングにいるかと向かったが、そこにもいなかった。新聞でも取りに行ったのかと深くは気にせず、出社の準備に取り掛かる。  昨日買ったパンを食べ、顔を洗って歯を磨いて──特に何ということもない作業をしていると、廊下を歩く音。 「佑?」  以外の人間なら問題なのだが。濡れた顔を拭きながら洗面所から顔を出した洋佑の前には、ランニングウェアに身を包んだ佑がいた。  手には新聞。走ってきたのだと分かる汗の量。 「あ、洋佑さん。おはよう」  汗で張り付いた前髪を無造作に後ろへと撫でつけながら笑う。持っていた新聞をテーブルへと置いた後、シャワー浴びるね、と断ってからバスルームへと消える背中。  ──朝、走ったりしてたのか。  週末に泊まることがあっても、洋佑が目を覚ますのはもっと遅い時間。いつも佑の方が先に起きているのは、単に自分の方が疲れているからだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。 「……」  自分も顔を拭きながら目を伏せる。佑のことはそれなりに知っているつもりだったけれど、まだまだ知らない事が多そうだ。  同じように佑も自分を見て何か感じているのかも知れない。  脱いだパジャマはちゃんとランドリーバスケットに入れたし、ベッドも軽くは整えた。朝食の後の食器もシンクまで運んだし、後は── 「洋佑さん?」  背後から声をかけられてびくっと肩が跳ねる。 「あ、佑……」  腰にタオルを巻き、首にタオルをかけた姿の佑が心配そうに洗面所を覗き込んでいた。 「どうかした?」 「いや、なんでもない──俺、そろそろ会社行かなきゃだから。風邪ひかないよう、髪ちゃんと乾かすんだぞ」  洋佑の言葉に少し驚いたように眼を見開いた後、嬉しそうに笑う。 「うん。有難う──いってらっしゃい」 「……い、ってきます」  逃げるように洗面所を後にした。慌ただしくスーツに着替えて外に出る。  ──シャワーを浴びて上気した肌と伝い落ちる雫。タオル一枚だけに包まれた整った身体。濡れた髪がはりついた顔。走ってきたせいか、普段よりも気だるげでアンニュイな雰囲気。  妙に色気を感じたそれらに一人赤面しながらエレベーターのボタンを押す。  昨日決めた取り決めの一つ。仕事のある前の日にはセックスはしない──の約束を守って、昨日はただ一緒に眠るだけの夜を過ごした。  そのせいで欲求不満なんだろうか。  開いた扉から中へと入り、ボタンを押した。特有の浮遊感を感じながら、天井を見上げる。  ──一人でする時、どうしてんだろ。  到着を告げる電子音に我に返る。これから仕事だというのに、何を考えているのか。  ぶるぶると首を振った後、よし、と気合を入れ直してから足を踏み出した。         ◇◇◇◇◇◇◇  なんだかんだと仕事に入ってしまえばそちらへと集中出来た一日。案件も一つ終わったし、新しい取引も無事進みそうで足取り軽く帰宅した。  一瞬、自分のマンションへと帰宅しかけたが、思い出して佑の部屋へ。  教えてもらった通りの操作が出来るか不安だったが、問題なくセキュリティーを解除出来たことにほっと息を吐き出す。 「ただいま」  ドアを開けると出汁の匂い。靴を脱いで奥へと向かうと、匂いが強くなる。 「……お帰りなさい」  作業をしていたせいで声は聞こえなかったのだろう。カウンターキッチンの中で手を動かしながら返事が返ってきた。 「帰る前にメールすればよかったなぁ」  帰宅するときに買い出しに行けばよかった。洋佑の言葉に佑は首を左右に振る。 「今日は冷蔵庫に色々あったから……明日はお願いしていい?」  勿論、と頷く。料理が出来上がるまでまだ少しかかるから、先に着替えを促されて一度リビングを出た。  ランドリーボックスに立ち寄って靴下を入れた。普段ならパン一で過ごすところだが、下着姿で食事を摂るのは流石にどうかとスウェットの上下に着替えてからリビングへ。  冷蔵庫の残り物を処分したかったから、なんて申し訳なさそうに言うが、外食かコンビニ弁当、最悪何も食べない事もある洋佑にとっては、温かい食事が食べられるだけで十分。  佑は料理が上手い。十二分だ。 「ご馳走様でした」  今日の飯も美味かった。満足以外の言葉もなく、後片付けを手伝う。洗い物を終えた後、何をするでもなく二人でリビングのソファへと腰を下ろした。 「……」 「……」  黙ってしまう。気まずさはないのだが、一緒に暮らすと決めたからといって、それが当然のようにふるまえるか──は別の問題。  話題を探して視線を彷徨わせた後、あ、と洋佑は口を開く。 「そういやさ。お前、ジョギング?してるのか?」  朝の出来事を訪ねた。問いかけに、佑はゆっくりと頷く。 「うん。言ってなかったっけ?」 「聞いてない……と思う」  多分、と自信なさげに付け足す言葉に佑は小さく笑った。 「朝の早い時間の空気ってなんかこう……すっきりしてて。走ってる途中で明るくなって、あ、夜が明けたんだなって感じるのも好きで」  小さい頃からずっと続けている、と。照れ臭そうに話す佑の顔を眼を細めて見つめる。 「今度洋佑さんも一緒に走る?」 「俺、普段運動しないからすぐ息切れすると思うぞ?」 「歩くだけでも気持ちいいよ?」  考える。実際、運動不足気味だし、歩くだけなら── 「じゃぁ今度。一緒に歩いて欲しい」  嬉しそうに笑う佑を見て自分も嬉しくなる。今度のお休みに靴とウェアを買いに行こう、と指を握られてびく、と肩が震えた。 「あ、うん。……俺、詳しくないから。色々教えてくれたら──」  そこで気付く。佑の頬が赤い。急に押し黙って目を伏せてしまった。 「佑?」  声をかけると、握っていた指を慌てて離して俯いた。 「嬉しくて……無理矢理、誘っちゃったかなって」 「ん?……別に無理矢理じゃないだろ?」  良かった、とほっとしたように笑う。 「僕、いつも洋佑さんに無茶なことお願いしているから……何かあったら、ちゃんと言ってね?」  まぁ多少は無茶──というか、驚かされることはあるのだが。嫌なことは嫌だと伝えているし、それらに関しては無理矢理どうこう、ということもないから、特に気にしては── 「あー……じゃあ一つだけ」  神妙な顔で返事を待つ佑。そう改まられると逆に言い辛い。 「…………タオルだけでうろうろしないで欲しい」  神妙な顔が、きょとんと間の抜けた表情になる。言いながら視線を逸らして目を伏せた。 「その……びっくり、するから。心臓に悪い」  毎朝見ていたら慣れるのかも知れないが。寝起きに毎回、あの姿を見せられると──色々と大変なことになりそうで。  とまでは言えなかったが。とりあえず服は着て欲しい、と伝えた。 「じゃぁ洋佑さんも下着でうろうろするのやめて欲しい」  交換条件。う、と言葉が詰まる。 「……あれはお前……楽……だから」 「僕の心臓に悪いよ?」  言い返せない。ふふ、と楽しそうに笑う佑の指が洋佑の頬を撫でた。 「……洋佑さん」  顎を掴まれて一瞬ちらっと視線を向けた。 「セックスは駄目って言われたけど……触るのも駄目……?」  この状況でそれはずるい。  言い返そうとするが、それ以上に──── 「……風呂場…でなら、いい……」  触れたい。触れて欲しい。  こみ上げる欲を素直に伝える洋佑に対して佑は嬉しそうに笑った。

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