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第17話
小山内家が敷地の隅に構えた堅牢な土蔵。
瓦葺の屋根は伝統的な破風を備え、観音扉を付けた天窓が銃眼の如く睨みを利かし、水切り蛇腹で囲った海鼠壁が垂直に屹立する。
なだらかに傾く庇の下、蔵戸は鉄の閂を噛まされ、盤石の貫禄をもって庭を睥睨していた。
「御開帳といこか」
雅が閂を上げ、軋む扉を開く。天窓と床を斜に繋ぐ光の隧道の中を微細な塵が巡り、幻想的な光景を描き出す。
蔵には布で覆われた和洋の調度品が犇めいていた。正一は腕をまくり、片っ端から行李や長持ちの中を調べる。
「はずれ。そっちは?」
「ありません。ちゃんと整理しとくんでした」
分厚いアルバムを膝に置き、ぱらぱらめくっていく。正一が隣に屈み、ページに貼られた思い出の数々を眺める。
女学生時代の雅の写真には、清楚なおさげ髪の少女と坊主頭の少年が一緒に写っていた。
「下宿で撮ってもらったんだわ」
「若いなあ」
「綾女さんも。この頃から付き合ってたのよね」
雅と綾女はスカート丈の長い、オーソドックスなセーラー服が似合っていた。
正一は秀でた額に絆創膏を貼り、菖蒲柄の竹刀袋を背負っていた。
「理一くんそっくり」
「俺のが目元が締まって男前や」
「張り合わないでくださいな」
「もっと荒波に揉まれんと貫録が出ん」
「おでこはどっちが広いのかしら、このへんに巻き尺が」
「勘弁してくれ」
若やいだ声色でからかえば、正一が剽軽におどけてみせる。
三人並んで縁側に座り、下宿の飼い猫と戯れる写真には、和やかな時間が流れていた。
「おばさんは?」
「数年前に亡くなりました」
「そうか……」
「年だもの。仕方ないわ」
「よくお茶をごちそうになった。雅ちゃんの彼氏か聞かれたのにはまいったが」
「女はコイバナが好きですもの」
テレビで習い覚えた若者言葉を引用すれば、正一が頭をかく。
「叔母の勘ははずれね。あなたは剣道と綾女さんしか眼中になかった」
寂しげな苦笑でひとりごち、段ボールに詰め込まれた古本を脇に積む。
褪せた写真から視線を切り、正一も手の動きを再開する。
「旦那とは見合い結婚て聞いたが」
「親類が持ってきた縁談です。真面目で優しい良い人と巡り合いました」
「夫婦円満やったんやな」
「正一さんの所にはかないませんけど」
「綾女は口うるさかったで。怒るとな、無言で大根のカツラ剥きはじめんねん」
「のろけないでください。素敵なお嫁さんと立派なお孫さんに恵まれて、文句を言ったらバチあたりますよ」
「それはアンタもやろ。葵ちゃん、アンタによお似た可愛らしい子やんか。意志の強そうな目えしてはった」
理一と茶倉の不在中、正一は雅のスマホに保存された葵の写真を見ていた。
「青木って子が訪ねてくるんやろ?」
「宿題やプリント持って。先週はクラスの皆さんの寄せ書きをくださいました」
「会いたがらんのはなんでやろ。気まずいんかな」
「喧嘩したのかも。難しい年頃ですから」
抽斗を漁る正一と背中合わせに、訥々と答える。
「大人になったらじゅんちゃんとけっこんするんだ、が昔の口癖でした。罪のない子供の戯言です。あの子たちを見てると学生の頃を思い出して、綾女ちゃんがすぐ隣にいるような気がしたものです」
雅の横顔は白く強張っていた。
孫娘が行方不明の状況で思い出話に興じたのは、そうしないと気が狂ってしまいそうだから。
正一は委細承知で付き合った。
「本当にあの人にまかせていいんでしょうか」
胸に芽生えた猜疑の念が不信感を育み、激情が噴きこぼれる。
「なんで、どうして、同じ家にいながらみすみすさらわせてしまったの。葵だけじゃない、理一くんだって……近くにいたんでしょ?こんな事にならないために呼んだのに」
俯いて押し黙る雅に対し、正一は飄々と言った。
「友達は無理して作るもんやない、一人かて楽しく生きて死ねたらそれでええ。せやけど気の合うともだちできたら大事にせなあかん、繋いだ縁は一生もんや。ガキの頃から孫にそない言い聞かせとった」
「は、はあ」
話が飛んで当惑する雅に背を向け、告白。
「高一の夏休み、泊まりにきた理一は新しい友達に夢中やった。霊感があって、視えて祓えて、化け物にびびらず立ち向かってくすごいやっちゃて。学校祟っとった悪霊もふたりで倒したとかで、初めて胸張って語れる武勇伝だったんかもしれん」
「全国大会で活躍したじゃないですか。表彰状やトロフィーもいっぱいもらって」
「道場においとるヤツか」
「え?」
「理一はな、せっかく獲ったトロフィーや賞状全部俺によこすねん。おみやげやー言うて」
「それって……正一さんの喜ぶ顔が見たくて、剣道をやっていたってこと?」
毎年夏に帰省した理一は、スポーツバッグに詰め込んだ表彰状やトロフィーを正一に見せ、頭をなでてもらうのを心待ちにしていた。
「良く言えば無欲、悪く言えば傲慢。他人と競うて優劣付けるのが根っから苦手で、向上心はあっても対抗心が欠けとった。仕合ん時が顕著や。おどれより格上、まずもって勝てんヤツには生き生き向かってくのに格下には途端にやる気なくす。弱者に情けかけるんは美徳ちゃうで、自分が楽しめん、全力だせん相手を竹刀の先っちょで受け流しただけや。うぬぼれや奢りて言いかえてもええ。中学ん時にはアイツと互角にやれる同年代はおらんなってた。決勝で敗退したんはな、その欺瞞に他でもない自分自身が嫌気さしたからや」
剣道を辞めた理由は生来の気性に加え、好敵手に巡り会えず、モチベーションを保てなかったから。
「家族の笑い顔見たいとか頭かいぐりしてほしいとかで打ち込めるんは子供のうちだけ。一旦剣道やめて、戻ってきたのは高一の夏。背中にしゃんと芯が通って、顔付きもきりりと締まった。強くならなあかん理由を見付けたんや」
正一が寂しげに笑む。
「賞状は頼まんでもよこすくせに、悪霊に何されたとかどうやって祓うとるとか、こっちが一番知りたい肝心なことは笑うてごまかす。言うてもわからんて諦めたのか……幽霊が見えんさわれん俺は、苦しんどる孫の力になれんかった。けどな、そばにええ友達がおった」
「……変なこと言ってごめんなさい、私がお願いして連れてきてもらったのにどうかしてたわ」
「不安になるのは当然や、家族が消えたんやし」
一階は収穫なし。残るは木製の梯子が掛かった二階。
「上には何が?」
「ご先祖様の嫁入り道具が押し込まれてるって聞いたわ。あとはお妾さんの形見」
ためらいがちに唇をなめ、付け足す。
「何代か前にとても女癖が悪い当主がいて、遊女や町人、お百姓の娘に手を付けちゃ屋敷に引っ張ってきたんですって」
「ホンマかい」
「今回の件に関係あるかどうかわからないし、くだらない見栄が邪魔して言いそびれたの。馬鹿よね、世間体にこだわって……私も詳しい事情は知らない、両親や祖父母にねだっても教えてもらえなかった。子供、特に女の子に聞かせたくないみたいで」
「ますます怪しい」
正一が梯子を掴んで登り、雅も注意深く続く。体重を支える段が軋み、踏み締めた足裏が撓む。
二階には化粧箪笥や鏡台など、良家の婦女子が好みそうな和家具が収納されていた。
蝶の錠前入り桐箪笥を上段から開け放ち、|畳紙《たとうし》に包まれた着物を点検する。
「見事やな」
「古いわ」
「誰の?」
「さあ……百年二百年はたってそうね」
「ぎょうさん残っとる。箪笥の肥やしにとくんはもったいない」
「なんで着なかったのかしら」
正一がすべらかな生地をなで疑問を呈し、雅も小さく首を傾げる。聞けば梯子が傷んでるから危険と言われ、二階に立ち入った事はほぼないそうだ。
「正一さん!」
最下段の抽斗の底には、畳紙を二重三重に巻いた着物が寝かされていた。
「紙紐の根付を見て。アゲハ蝶」
正一に首肯で促され、雅が唾を飲んで紙を開く。
外気にさらされたのは打掛に金糸で蝶々を刺繍した、豪華絢爛な黒無垢だった。
「珍しい、白無垢ちゃうんか」
「既にして貴方の色に染まってる、嫁ぎ先以外の色には染まらないって覚悟を貫く婚礼衣装よ。江戸時代後期に流行ったとか」
「武家にはぴったりやね。裏地が真っ赤なんも伝統?返して着たら印象変わりそやな」
黒無垢の裏は燃え上がるような緋色に染め抜かれ、鮮烈な対比が映える。
「綺麗」
「さわらんほうがええ」
手を掴んで制したのは禍々しい妖気を感じたから。
その後も二階を探し回ったが、地獄蝶の正体をほのめかす、手記や日記の類は発見できずじまいだった。
「こんなにさがしても見付からないってことは、もともとないのかしら」
「武家なら記録係がおってもおかしゅうないねんけど」
「ご先祖様が処分したっていうの?」
「考えたかないが」
「……当たってるかもしれない。言ったでしょ、小山内の一族はことさら世間体を重んじるって。醜聞は内輪で揉み消すのが習い、腐った隠蔽体質なの」
正一が蒔絵の文箱を開け、筒状に丸められた和紙を紐解く。
「家系図か」
記載があるのは秩禄処分が行われた明治初期まで、したがって雅の両親の名前はない。
真剣な目で代を遡り、蝶と関連深い字を見付ける。
「十四代当主・伊右衛門には妾がいたみたいやな。名は揚羽」
「その人よ、女癖が悪くて評判だったのは」
「子供がいたんか」
伊右衛門と揚羽の間、まっすぐ下りた線の先には、達筆な字で『鳳車 享年十六』と書いてあった。
「若いな。気の毒に」
「鳳凰の鳳に車……なんて読むのかしら」
「ほうしゃ。アゲハ蝶の異名や、確か」
「物知りねえ」
「正室の名前はお栄、揚羽に二年先立って息子の長政をもうけた。コイツが次の当主」
「鳳車さんの腹違いの兄ね。きょうだい仲はどうだったのかしら」
「正妻の子と妾の子、仲良ゥ家を盛り立ててこうとはならへんやろな」
「揚羽さんも若くして亡くなったみたい。忘れ形見はお栄さんが育てたのかしら」
沈んだ顔と口調が継子いじめの懸念を伝えてきた。正一が家系図に指を突き立て、なぞる。
「長政はしのぶて嫁さんもろて子供こさえとる。家を継いだんは長男」
即ち、長政の子孫が雅。各当主の人となりまでは推し量れないものの、父親を反面教師に育ってほしいと願い、家系図を丸め直す途中に雅が言った。
「あの黒無垢、揚羽さんの嫁入り道具じゃないかしら」
「その線は大いにあるな」
黒無垢にしろ根付にしろ、妾の名前にちなんで伊右衛門が作らせたなら筋が通る。
「奥方は怒ったやろな、妾に婚礼衣装仕立てるなんて」
「だから黒くした」
沈痛に断言し、物憂げな伏し目で呟く。
「おかしいと思ったの、小山内の嫁は代々白無垢を着るのに……白は嫁ぎ先の色に染まる誓い、対して黒は最初から染められてる」
「貴賤結婚の典型か」
嫁と揃いの着物を貢ぐのは好色な伊右衛門も自重したらしい。
「揚羽……蝶々……妾。ねえ正一さん、この人が葵を連れてったの?無理矢理妾にされたのを恨んで、小山内の家を祟ってるの?揚羽さんは二十二で若死にしてお栄さんに子供を取り上げられた、葵は我が子の代わり?早く茶倉さんに知らせないと」
雅が度を失って立ち上がり、梯子に向かった矢先。
「すいませーん」
表から間延びした声が響く。
顔を見合わせ梯子を下りれば、賢そうな色白眼鏡の少年が、長身ポニーテールの少女と寄り添って立っていた。
「やっぱこっちにいた。扉が開けっぱなしだったんで、念のため覗いてみてよかったです。葵は部屋?」
学校帰りに寄ったのだろうか、二人とも制服を着ていた。喋ってるのはもっぱら学ランの少年の方で、セーラー服の少女は居心地悪げに俯いてる。
雅が応対する。
「ごめんなさいね、取り込み中で」
「蔵の整理?手伝います」
「やめなよ、迷惑だよ」
「そっちが来たいって言ったんじゃんか」
「今日じゃなくても」
ぐずる少女に裾を引かれ気分を害す。会話の様子や距離感から、単なる友人以上に親密な間柄が窺えた。
少年が前に回したリュックの中身をかき回す。まだ新しい小説の文庫本や教科書をどかして引っ張り出したのは、リボンとシールでカラフルにラッピングした、クッキーの小袋だった。
「家庭科実習で焼いたんです。あとで食べてください、甘いもの好きだったでしょ」
「まあ上手」
ぎこちなく褒める雅に対し、心配そうに眉をひそめて一歩踏み出す。
「具合悪いんですか?」
「そ、そんなこと」
「奥にいるのはお客さん?」
「だから早く帰ろって言ったじゃん、空気読みなよ」
正一に気付いて会釈する少年の肩を、小麦色の肌の少女が叩く。
「雅さん、彼は」
口を開いた雅を遮り、胸を張った少年がはきはき答える。
「はじめまして、小山内さんの近所に住んでる青木です。よろしくお願いします」
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