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02
項を噛むのは学園を卒業し、俺がアンフェールと結婚してからだという約束だった。
だといえど俺もアンフェールも年頃の男だ。それに、いくら普段オメガ特有の発情の制御薬を常飲しているとはいえど、運命の番相手を前に理性など無意味に等しい。
特にこの体は――リシェスはそうだった。
「アンフェール……っ」
口付けまでなら、と堪らなくなったときは何度か唇を重ねてをして誤魔化してきた。
それでも性欲は発散されるどころか増すばかりだ。しかしアンフェールは俺を抱かない。
だから結界的に、毎回性行為のような執拗な接吻で強引に落ち着けされるのだ。
そしてその日もそれは同じだ。
俺を無理させないためにと薬を呑ませたアンフェールはそのまま寝室を出ていくのだ。
不毛だ。と思う。
俯瞰的視点でも、いくら設定上とはいえどアンフェールはリシェスを抱くことはないのだ。
アンリに奪われて、その恋も実らぬまま終わる。
だとすれば、何故俺がここにいるのだろうか。
混濁した記憶を思い出しながら、今はこの熱を落ち着かせるために俺は一人の部屋の中で目を閉じた。
――まだ、死にたくない。
転生者アンリは突然学園の外から現れた。
建物全体を囲うように生えた魔物の巣窟であるその森の中、当然のように魔物に襲われたところを丁度授業の一環で森に出ていたアンフェールが見つけ、そして助ける。
『現実世界で自殺して、気付いたらここにいたんです』と転生者アンリは言う。無論信じてもらえるはずもなく、もしかしたら敵国の刺客かもしれないという理由で一時的に学園敷地内にある懲罰房へと閉じ込められることになるのだ。
そこで会うのはアンフェールと、アンフェールの取り巻きのモブだけだ。
ならば、とベッドから飛び降りた俺は慌ててアンフェールを追いかけた。
ベッドルームの外、私室で剣の手入れをしていたアンフェールは「どうした、血相変えて」とこちらを見る。
「アンフェール、今から出かけるのか?」
「ああ、近隣で新たな魔物の巣が見つかったらしい。狩りには丁度いいと思ってな」
そう顔色変えずにアンフェールは応えた。
剣と魔法のこの世界は、攻撃手段をもたない一般人からは魔物は自分たちの命を脅かす脅威という共通認識があった。
それでもアンフェールは持つ側の人間だ。高潔なようでいて、その命を弄ぶことを趣味としている。
これはゲームではなく、リシェスとしての記憶にだけ存在するものだ。
俺は何度か幼い頃に倒した魔物を見せられ、トラウマのあまり何度も夢に見ることもあった。
学園側には『学園の平和の驚異を取り除くため、生徒会活動の一環として行う』なんて大層な説明をしてるのだろう。それは半分本当で、半分嘘だ。
興奮すると毎回剣を手にしてこっそりとひと目を盗んで出かけるアンフェールを知っている。
――アンフェールは残忍な一面を持っていることを僕だけが知っていた。
「アンフェール」
「なんだ」
「俺もついていっていいか?」
「……」
アンフェールは剣を鞘に納め、こちらに視線を向ける。心が弱い人間ならば竦み上がりそうなほどの鋭い目だ。
「お前は嫌いだろ、魔物」
「ああ、けど……今日は」
「それに具合が悪いんじゃなかったのか」
「お前が魔物を殺してるところを見たいんだ」
アンフェールの目が僅かに開かれるのを見逃さなかった。
変に誤魔化すくらいなら直球で言った方がこの男には伝わりやすい。
すると、アンフェールの口元に緩やかな笑みが浮かんだ。
「お前も発散したいのか?」
「……まあ、興味はある。それに、剣術なら俺だって授業で先生に何度か褒められた」
「そりゃ結構なことだ。……まあ構わないが、一度出たら『帰りたい』は通用しないぞ」
「ああ、分かってるよ。……そのときはお前の邪魔にならないようおとなしくしてる」
そうアンフェールの隣まで歩いていけば、アンフェールは小さく目を伏せた。分かりにくいが、笑っているようだ。
「それじゃあ、その格好をどうにかしろ。他の奴らの目に毒になる」
アンフェールの指摘に、自分の格好を思い出した。シャツの乱れを整えることも忘れていた。
俺は慌てて寝室へと引っ込み、慌てて準備をする。
それから、俺はアンフェールと共に部屋を出た。
そして生徒会執務室へと顔を出し、今回共に行動することになったやつらに軽く顔合わせだけしておく。
それからすぐに出立した。
それほど遠くはない距離だし、とたかを括っていたが、正直舐めていたようだ。
ただでさえ日頃整備されていない山道に慣れてないこの体はすぐに限界を迎えていた。
「大丈夫か」
「ああ」
「顔が真っ白だぞ」
「……生まれつきだ」
そんなやり取りをしながら更に深くまで進んだときだった。
どこからともなく聞こえてきた獣の咆哮、そして――。
「ひいい!! た、たすけて……っ!」
アンリ――八代杏璃 が現れた。
ここは、ゲームの本編で見たところだ。
そしてここでアンリが魔物に襲われて、それをアンフェールが庇って……。
他の生徒たちが悲鳴をあげ、蜘蛛の子を散らすように逃げていく中、そんなことを考えながら次の展開を思い出そうとしてたときだ。
四足のその獣はこちらを振り返るのだ。
そして急に矛先をアンリではなく、俺に向ける。
――え?俺?
「な、……ッ」
なんでそうなるんだ、と慌てて逃げようとしたときだ。足が滑り、そのまま荒れた地面の上に尻餅をついてしまう。
勢いよくこちらへと飛んでくるその魔物に俺は死を覚悟した。目を瞑ってせめて頭を守ろうと腕で庇ったときだ、頭のすぐ上で魔物の悲鳴が聞こえる。
そして、「ギュウ!」という悲鳴ととも地面が小さく揺れた。
一瞬、なにが起きたのかわからなかった。
恐る恐る目を開けたとき、目の前にはアンフェールの背中があった。やつの腰に携えられていた剣は抜かれていた。
「あ、アンフェール……っ」
恐る恐るその広い背中へと声をかければ、そのままゆっくりとアンフェールはこちらを振り返った。
その時、魔物の血を被ったその姿には見覚えがあった。
「……無事か、リシェス」
仕立てられた制服も、やつと同じ真っ赤な血で赤く濡れていた。
――アンフェールがアンリを助けたときと同じスチルだ。
「だ、大丈夫ですかリシェス様?!」
「あ、ああ……なんとかな」
駆け寄ってくるモブ生徒たちは一発で魔物の心臓を仕留めたアンフェールに尊敬と畏怖の目を向けている。そんな連中に「大丈夫だ」と声だけかけ、立ち上がろうとしたときだ。
視界が黒く陰った。
「立てるか」
そう、アンフェールは剣を握っていた方とは別の手を差し出すのだ。
俺は「ああ」とだけ応えながらも、その伸ばされた手を握った。
――展開が変わってる。
否、展開は同じなのだが、アンリがいるべきところにやはり俺がいるということになってることに気付いた。
それからは共通ルート同様、「助けて下さりありがとうございます」と感謝するアンリを縛り、学園へと連行する流れになった。
学園まで帰る間、アンフェールに握りしめられた手は離れなかった。
これは、ゲームにはなかった展開だ。
――死にたくない。
――殺されたくない。
そんなバッドエンドを迎えないためにはどうすればいいのかを考える。
そして、答えはすぐに出た。出てしまった。
――主人公よりもアンフェールのイベントを全て先に回収し、アンリとアンフェールの恋愛フラグを全て折れれば婚約破棄されることもなくなるはずだ。
「……っ、は」
「……ん? なにか言ったか」
「いや、……くしゃみが出そうになっただけだ」
アンフェールは怪訝そうな顔をして俺を見た。
……ああそうか、『リシェス』はこんなことは言わないのか。
やるべきことは決まった。
既にアンフェールにお姫様抱っこされるイベントは回収された。
ならば、次に回収すべきイベントは――。
お姫様抱っこ、そしてアンフェールに守ってもらうイベントを回収した俺はその後、学園へと帰ってきてそのままアンフェールに養護室へと連れて行かれる。
アンフェールいわく、「念の為怪我がないか見てもらえ」とのことだ。
軽く足首捻ったくらいで、少しだけ休んだあとに教室へと戻ることになった。
アンフェールは報告のため、俺を寝かせるとさっさと養護室を出ていった。
――ラッキースケベスチル、それから間接キス。
思い出す限り、アンフェールのルートではそれがあったはずだ。既にキスをしてるような仲だ、どちらも今更ではあったが、取り敢えずものは試しだ。
そんなことを考えながら、俺は養護室を後にした。
結論から言えば、考えていた通り思ったよりも簡単にイベントを見ることはできた。
流石にアンフェールの顔を尻に敷いたときはイベント回収のためとはいえ殺されるのではないかと戦々恐々としたが、アンフェールは「気をつけろ」とだけ言ってそのままどっかに行ったのだ。
明らかに、アンフェールの態度が軟化している。
俺が知ってる限り、アンリが来て数日くらいはずっとアンリにつきっきりで、リシェス――俺に対しては軽くあしらうような態度になるはずなのに。
どうなるんだろうか、この先。
そんなことを考えながら、夜、寮舎の自室で俺は手帳に記憶を掘り返す。
ゲーム内でのアンリの行動を全て書き出し、ルートを整理した。
「リシェス様、夜遅くまで熱心ですね」
「……って、うわ! は、ハルベル……お前は毎回いきなり人の背後に立つなと言ってるだろ!」
何かあったときのため、ハルベルには部屋の鍵を持たせて自由に出入りできるようになっていたのだ。そのため、こうして忍びよろしく突然現れることは少なくはない。
「申し訳ございません、リシェス様。一応ノックはしたのですが、リシェス様の反応がなかったので少し心配になりまして……なにをされてるんですか?」
「……色々だ」
実はもう一つの記憶が自分の中に突然芽生え、その世界ではこの世界がゲームだってことに気付いてしまったのだ――なんて言ったら、俺に対してイエスマンのハルベルとはいえど正気を疑われる。
俺は手帳を閉じながら「それより、何かあったのか」とハルベルの方へと体を向けた。
「リシェス様、最近体調が優れないと仰っていたでしょう。ですので、リラックスできるように僕からのプレゼントです」
そういってハルベルはなにかを取り出した。ハルベルが好きそうな、淡い桃色の液体が入った小瓶だ。
これには見覚えがあった。このやり取りにもだ。だからとはいえどだ、一応初見の反応をすることにした。
「これは……香油か?」
「ええ、普段のリシェス様もいい匂いがして素敵なんですけど、これをつければリシェス様自身も癒やされるのではないかと思いまして」
「可愛くないですか?」と見えないしっぽをぶんぶんと振りながら聞いてくるハルベル。
可愛いものが好きなハルベルらしい。本当は自分がほしかったのではないかと思ったが、言い掛けてやめた。
「ありがとう、ハルベル。使わせてもらうよ」
「本当ですか? じゃあ明日、楽しみにしてますね」
「ああ……――あ」
と言い掛けて、ふと気付いた。
「なあ、ハルベル。……学園にやってきた捕虜の話、なにか聞いてないか?」
「ああ、あのアンフェール様が捕らえたという怪しげな少年のことですか?」
「ああ、そいつだ」
「僕は特に何も聞いてないですね」
「……そうか、引き留めて悪かったな。おやすみ」
そう声をかければ、ハルベルは少しだけ驚いたような顔をする。
そして、嬉しそうに「おやすみなさい」と破顔した。
この先の展開で避けて通れないのは、あの男との接触だった。
アンリに嫉妬したリシェス――つまり俺がアンリを呼び出し、そしてアンリを虐める。
そこで、駆け付けてきたアンフェールに見つかってしまうというイベントだ。
スチルになるのは俺を殴るアンフェール。
そして、俺とアンフェールの仲には大きな亀裂が入り、アンフェールが婚約破棄することに至るのだ。
いくらアンリの行動を真似しようが俺はアンリではない。そもそも、じゃあ誰に虐められるというのか。
考えれば考えるほど頭が痛くなる。
俺はハルベルから貰った小瓶を手の中で転がしながら、中でキラキラと光を反射するそれを見つめていた。
アンリにはアンリのルートがあり、俺には俺のルートがあった。
以前は結局ハルベルから貰った香油の匂いを嗅ぐことはできなかった。アンフェールのことで頭がいっぱいだった俺はそれを捨てたのだ。
けれど、今回は――。
「……あいつ、俺のこと女の子と思ってんのか?」
思わず声に出ていた。
甘ったるい匂いだが、嫌いではない匂いだ。
――身につけるのには少し勇気がいりそうだな、なんて思いながら俺は少しだけ休むことにした。
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