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 世界が色を変えた。  この世界はもうどうすることもできない。  アンリに「やっと番になれたね」と抱き締められたまま、項から滲む血を拭うこともできないまま俺はただ死ぬ方法を考えていた。  俺と番になれたことでアンリは満足したようだ。その後またアンリに犯されそうになったとき、部屋の扉が控えめにノックされる。  ――まさか、ハルベルか。  俺が学校へと戻ってきていないことに気付いたのかもしれない。俺の上に覆いかぶさっていたアンリが動きを止め、一度行為を中断させた。  そして、机の上に置かれていたナイフを手にして玄関の扉まで歩いていくのを見て慌てて止めようとするが、猿轡と拘束がそれを阻害する。  ――ハルベルがまた、殺される。  しかも、目の前で。  前回のハルベルの死体が脳裏に浮かび上がり、耐えられずベッドから転がり落ちてでも這いずってでもアンリを止めようとするが間に合わなかった。  落ちた俺には目もくれず、アンリはそのまま扉を開いた。  俺のいる寝室からは玄関口の扉の向こうまでは見えなかった。だから、なにが起きてるか分からず、焦りばかりが先行する。遠くにハルベルの声が聞こえたと思った矢先だった。呻くような声が聞こえてきて血の気が引いた。 「……っ」  玄関口の扉が乱暴に閉められたと思った次の瞬間、廊下の向こうで争うような物音が聞こえてきた。  なにをしているのだ、やめろ。やめてくれ。  脳の芯から冷たくなっていく。誰でもいいからアンリを、あいつを止めてくれ。  そう居るかもわからない神様に願わずにはいられなかった。  たった数分、それでも長い時間のような感覚だった。やがて、あれほど騒がしかった物音が止む。時計の針の音が聞こえるほどの静けさが戻った部屋の中、俺はただ玄関の扉を見詰めていた。そして、扉はゆっくりと開かれる。  ……目を開くのが怖かった。ずるずると引きずるような足音が確実に寝室へと近付いてくるのが分かった。  そして、 「……っ、……リシェス様」  聞こえてきた声に顔を上げた瞬間、俺は目を開いた。そして、息を飲む。  掠れた声、白いシャツを赤く汚したハルベルがそこに立っていた――床の上、動けない俺を見下ろしたまま真っ青な顔をして。  なにもよりも見られたくない相手にこんな姿を見られてしまったというショックもあったが、それ以上にハルベルの格好に度肝を抜かれる。  その血はなんなのか。肩から胸元、腹部と複数箇所に大きく浮かび上がった血液の染みを見てその量に目眩を覚えた。  駆け寄ってくるハルベルに「リシェス様」と名前を呼ばれ、全身が震える。  まだ夢を見ているようなそんな非現実感の中、肩を掴むハルベルの手の感触は間違いなく本物だった。  シャツ同様、赤く濡れた手でハルベルは俺の顔に触れる。そして、口を塞いでいた猿轡のベルトを外すのだ。 「っ、は……――」 「……っ、リシェス様」  なにがあったのですか、などとハルベルはなにも聞いてこなかった。ただ、青褪めた顔のままハルベルは俺に目を向けるのだ。  全身に色濃く残ったアンリに犯された痕跡をハルベルに見られたくなかった。 「……っ、見るな」  見ないでくれ、頼むから。  それ以上声は出てこなかった。ただ、憐れむような、怒りの混じったハルベルの視線が針のように痛い。痛くて、苦しい。  拘束されたままでは震える身体を抑えることもできなくて、それでもハルベルはそんな俺の身体を抱き寄せた。 「……っ、ハルベル……」 「――あの男」  離せ、と声を上げようとしたときだった。耳元でぼそりと囁かれるその聞いたことのない声にぞくりと背筋が震えた。  しかし、それも一瞬のこと。ハルベルはそのまま俺を抱き上げ、ベッドの上へとそっと寝かせる。そのまま俺を置いて寝室から出ていこうとするハルベル。 「どこへ行くんだ」  咄嗟に声を上げていた。乾き、ひび割れたような酷い声だ。  ハルベルはこちらを振り返る。俺にでもわかる、その目には明確な殺意が宿っていた。一瞬、呼び止めるのを戸惑いそうになるほどのその剣幕に気圧される。 「貴方はなにも気になさることはございません、リシェス様」 「……ハルベル」 「――すぐに、貴方の元へと戻ってきます」  リシェス様、とハルベルは俺を安心させるようにいつもと変わらない口調、笑顔で続ける。  ――こんなときでも、お前は隠すのか。  ――俺に、本当のことを話してくれないのか。  そんな思考が過ぎったが、今はただ疲労感の方が大きかった。アンリが部屋に帰ってこない理由を考える余裕もない。俺は「わかった」とだけ呟いた。  それから、「せめて、これを外してくれ」とハルベルに背中を向ける。後ろ手に縛られた拘束を解いてもらおうとしたとき、背後で息を飲むのが聞こえた。 「っ、リシェス様、……これは」  そしていきなりハルベルに肩を掴まれ、前のめりになる。項に吹きかかるハルベルの吐息に、噛み痕を見られたのだと理解した。  俺は、もうどうでもいい気分になっていた。この世界に長居するつもりなない。早く、ハルベルのためにもこれ以上ここにいたくない。 「……あいつに、やられた」  こんな姿を見られてまで、これ以上隠すものなんて俺には無いに等しい。  なによりも俺とアンフェールの関係を応援してくれていたハルベルのことを知っていた。だからこそ、あいつの反応を見るのが怖かった。  犯されて、項まで噛まれてアンリの番になってしまった。  通常、番という関係はオメガには拒否権などない。相手が本能的にオメガを拒絶するか、それか生命活動が途絶えたときに番という関係性は解除される、という。  どれも周りの人間や本から見聞きしたものばかりなので、現実がどうなのか俺にはわからない。  けれど、どちらにせよこの項に傷を付けられた時点で俺はアンフェールの横に並ぶ資格は剥奪されたに等しい。  涙すらも出なかった。怒りももうない。ただ、ようやく解放されたという気持ちだけが残っていた。  ハルベルはそれ以上なにも言わず、俺の拘束具を外してくれた。  ありがとう、というべきなのだろうが、酷く疲れてそこまで気を回すことはできなかった。なにも言えなくなる俺に、ハルベルは無言で立ち上がる。そして、そのまま寝室を出ていくのだ。身体を引きずるように、床に血の跡を残しながら。  遠くで扉が閉まる音が聞こえ、少し立たないうちに悲鳴のような声が聞こえてくる。俺はベッドからのそりと起き上がろうと試みた。  まだ身体は悲鳴を上げていたが、すぐに解放されることになるだろう。アンリが開いたままにしていた部屋の窓までやってきた俺は、そのまま窓の縁に手をかけた。  赤く染まる夕陽がやけに沁み、黒く網膜に焼き付いた。  ――八代杏璃に気をつけろ。  そう脳に刻み、俺はこの世界での生命活動を放棄した。

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