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第1話
「ジャック・エヴァンス。お前との婚約を破棄する」
俺は最初、目を丸くしたと思う。それから、その言葉を理解すると、『まぁしょうがないな』という感想を抱いた。と、いうのも俺は今の今まで、第一王子殿下の許婚をしてはいたが、それは幼少時に家柄と性差が理由で決定された政略的なものであり、俺がたまたま、国内の貴族令息の中で、もっとも階級の高いオメガだったから選ばれただけの、特に愛のない状態だったからである。
現在、第一王子殿下の左右には、既に将来の後宮入りが決定しているオメガも多数いるし、俺がこれまで予定されていた正妃の位置に立つのだろう、隣国から遊学できていたあちらの末王子殿下の姿もある。第一王子殿下とその周囲にいるオメガを見る限り、別に俺はいなくて問題ないし、国際的な婚姻で隣国との関係改善を図ることもまた、国内の貴族の統制と天秤にかけた場合に、悪いことだとは思えない。即ち、俺という存在を置いておく、政略的な理由が消失したという事だ。
理性的にはそう考えるが、それ以前に、納得してしまう理由が一つある。
俺は魔法診断でオメガだと判明したが――フェロモンが非常に弱い。微弱すぎて、抑制剤を用いてヒートを抑えている最中であっても、そこを通りかかったアルファに気づかれない程度だ。オメガのフェロモンは本来甘い香りがするというが、俺はベータではないのかと疑われる事が多いくらいには、なんの香りもしないようだ。
他方、第一王子殿下の周囲にいる、既にうなじも噛まれている多数のオメガ達は、同じオメガの俺でも判別できるくらい、フェロモンの香りが強い。
他にも、身体的特徴も違う。本来オメガは背が低めで華奢な者が多いのだが、俺はなみのベータよりは背が高いし、肩幅もそこそこある。筋肉も、他のオメガに比べたら相当あるだろう。それなりに男らしいのが、俺だ。前に、聞いてしまった事がある。『あんなに男らしいのは抱く自信がない』――第一王子殿下の愚痴である。周囲は噴出して笑っていた。まぁ、仕方ないというのは、そういうことだ。
「今まで世話になったな。下がってくれ」
「はい。お世話になりました」
俺はそう述べて、馬車に乗って帰宅した。両親に事の次第を伝えると、二人とも納得していた。事前に話を聞いていたのだろう。
「まぁ、なんだ? しばらくはゆっくり休むといい」
父はそう言うと、俺の前に銀色のカギを置いた。
「王都では過ごしにくいであろうから、領地に滞在してはどうだ?」
「はい」
事実上の、ゆるやかな王都からの追放である。俺との破談により王家との関係を崩すわけにはいかないだろうし、今後立太子の儀など様々な行事もあるのだろうから、俺だって、俺がここにいない方がよい事は分かっている。
こうしてその翌々日には、俺はエヴァンス公爵領へと馬車で向かう事になった。
十日ほど旅をして、幼少時以来見なかった領地邸宅を見上げる。
俺はこれまで正妃教育で、めったに王都から出る事は許されなかったから、逆に新鮮だ。
こちらの執事達に出迎えられて、俺はエヴァンス城の中へと入った。
――それが、一年ほど前の出来事である。
最初は、多忙でない一日というのが、どこか逆に焦燥感を煽り、何もしないでいると一日が長く感じた。改めて思えば、俺は教育をずっと受けてきたから、こんな風に穏やかに窓から外を見たり、紅茶を飲んで過ごすという事は無かった。逆に今ではそれに慣れ、ゆるやかな今の日々の方が断然マシだと考えている。
それに仮にも正妃になる予定の者として、王都では常に身辺を警護されていた俺だが、この領地では、護衛をつけずに散策する事も許されている。それだけ周囲にとっての俺の価値は下がったのだろうが、俺にとっては寧ろ嬉しい出来事だった。
今も湖まで一人で散策に来た。今日は曇天だから、早目に帰った方がよいだろうと考えつつ、俺はバスケットをおいて、サンドイッチを手に取る。背後の茂みで音がしたのはその時の事だった。
「?」
振り返ると、軽装だが上質そうな上着を纏った青年が立っていた。黒い髪に、青い瞳をしている。背が高く体格がいい。整った顔立ちを見て、アルファの特徴を体現しているかのような青年に、俺は少し戸惑った。過去、第一王子殿下以外のアルファと二人っきりになる事は、父以外とは許されなかったからである。
「――ごきげんよう」
放たれた声音で、ぶしつけに見ていてしまった事に気が付き、慌てて俺は表情を取り繕った。口元を綻ばせた青年は、最初のどこか怜悧な印象から一変し、今は柔和に見える。
「こんにちは」
「オメガか?」
「え? ああ……」
外見だけだとベータと間違われやすい俺であるから、見抜かれた理由を思案したが、すぐに首元のネックガードが理由だと気が付いた。右手でそこに触れながら、俺は苦笑する。
「そうだ。貴方はアルファだろう?」
「オメガのフェロモンを感じ取る事が出来るから、アルファだというのは間違いないだろうとは思う。だがあまり、性差で判断されるのは好きではない。俺は、エドワードという。君は?」
「ジャックだ」
答えてから、俺は曖昧に頷いた。確かに性差で判断されなければ、そもそも俺は許婚になる必要もなかったかもしれないし、もっと自由に生きてこられたようには思う。だがそれはもう過去の事であるし、現在の俺は自由だ。
「エドワードはこの領地の者ではないよな?」
「何故?」
「そ、その……俺は少しだけ、領地の人々について詳しいんだ」
「そうか。ああ、違う。俺は、噂の『野獣オメガ』を見に来たんだ」
「『野獣オメガ』って?」
「オメガだというのに、それはもう野獣のような風貌と性格をしていたがために、第一王子殿下から婚約を破棄され追放されたと、この国の王都で噂が持ちきりのオメガがいると耳にしてな」
「……」
俺は言葉に窮した。俺の事は、今そのように噂されているのか。まぁ、あながち否定は出来ないが、ちょっと胃にくるものがある。
「しかしジャックと出会えたのだから、旅もしてみるものだな。君はとても美しい」
「人生で初めて言われたな。世辞は不要だ。それより、一雨きそうだから、エドワードも早く戻った方がいい」
「せっかく出会えた麗人を一人残して帰るというのは退屈極まりない」
歩み寄ってきたエドワードは、そう述べると俺の隣に腰を下ろし、バスケットの中を覗いた。
「美味しそうだな」
「ああ。美味しいよ」
「一ついただいてもいいか?」
「うん。どうぞ」
その後は座って湖を眺めながら、サンドイッチを口に運びつつ、ぽつりぽつりと会話をした。あまり気を遣わなくてよい相手との会話は、いつ以来の事だろう。そう考えている内に、いよいよ空が雲で暗くなってきたので、俺はエドワードの横顔を見た。
「降りそうだ。俺はそろそろ戻る」
「もっと話していたかったが――」
エドワードが頷きながら口を開いたその時、唐突に空に稲光が走った。俺達はそろって目を見開く。雨はまだ無いが、それを境に、急に雷が空を切り裂き始めた。
「ここは危険だ。一時的に、何処かに退避すべきだ。あちらの小屋は、鍵は開いているのか?」
「えっ、あ、ああ。そう聞いている」
「ではあそこへ」
俺の手を取ると、エドワードが小屋に向かって早足で進み始めた。慌てて俺もついていく。軋んだ音を立てた小屋の扉が閉まる頃には、俺の息は上がっていた。噂に置いて俺は野獣なのかもしれないが、体格がよくとも体力がそこに伴っているわけではないから、こんな風に急に走った事はほどんどない。貴族なんてそういうものだ。
木造りの床で、簡素なテーブルと椅子、寝台があるだけの小屋は、昔は湖の管理をしている者が使用していたと聞いたことがある。俺達がそろって中に入った直後、窓の外には雨が降り始め、すぐにそれは激しく変化した。
「少し肌寒いな」
手際よく火をおこしながら、エドワードが言う。頷きながら、俺は窓の外を見ていた。
パチパチと火の音がする頃になって、俺は視線を戻す。
「すぐに温まるだろう」
「ありがとう」
「俺としては僥倖の雨だ。ジャックともう少し話していられるのだからな」
「本当に口が上手いんだな」
「そうか? 普段、そういった他者評価はめったに受けないが」
「ふぅん? 周囲には、どんな風に言われるんだ?」
「――欲しいものは必ず手に入れる残忍さを持ち合わせている」
少し低くなった声に、俺は思わず苦笑した。
「まるで隣国の次期皇帝陛下のような煽り文句だな」
隣国というのは、末の王子殿下が、こちらに正式に嫁ぐと決定したエネーゼルだ。エネーゼル帝国には多くの王子殿下がいるそうだが、次の皇帝陛下は既に数々の武功を挙げているらしく、この国にも響いてくるほど恐れられているらしい。
「そうだな。きっと残忍で粗暴な次期皇帝には、野獣オメガのように強い者が相応しいのだろう、と、俺などは思うが――一体どこに、その野獣はいるのやら。俺の前には、少なくともまだ現れていない」
喉で笑ったエドワードを見て、俺は思わず口元に手を添えて笑ってしまった。
「俺だってオメガらしくないオメガだ。オメガは本来華奢であるべきなのにな」
「俺から見るとジャックは十分細い」
「アルファと比べられたら、いくらなんでも不利だ」
そんなやりとりをしていると、まじまじとエドワードが俺を見据えた。透き通るようなその瞳に見据えられると、急に冷静になってしまい、気恥ずかしくなる。こんな風に他者と穏やかに雑談をした記憶がほとんどなかったから、楽しくて言葉を重ねてしまうのだが、それが適切なのかは分からない。
「ジャック」
「ん?」
「君は好きな相手はいるか?」
「え? いないけど……」
好き、の、種類は色々あるとは思うが、少なくとも俺は、誰かに恋をする事は禁じられて生きてきた。だからこんな質問を受けたのは、人生で初めてだ。
「エドワードは?」
「俺はたった今、ジャックに惹かれはじめた」
「本当に口が上手いんだな」
「ジャックの気を惹こうと必死だからな。口も上手くなる。この清廉な甘い香りがたまらない。こんなフェロモン、嗅ぐのははじめてだ」
「え……? 俺からフェロモンを感じるのか?」
「ああ。それがどうかしたのか?」
「その……俺は体質的にフェロモンが微弱だから、過去に誰にも嗅ぎ取られた事がなくて。驚いてしまったんだ」
「こんなにも香っているのに? まぁ、俺以外が感じる必要性は無いが。俺だけが分かるというのも運命的だな」
「運命って……」
「よく言うだろう? 運命の番であれば、一目見ればわかると。俺は今、確かに運命はあるかもしれないと感じている。ジャックは? 俺をどう思う?」
「えっ……話しやすくて、いい人だと思うけど、その……」
エドワードが真面目な顔で言うものだから、俺は気恥ずかしくなってしまった。ちらりと端正なエドワードの顔を窺う。運命の相手がエドワードであれば、きっとそれは幸せだろう。俺はアルファと長時間話をするのはほとんど初めてだと言えるが、じわりじわりと胸が温かくなっていき、安心感がある。そこにエドワードの見せる精悍な眼差しを見ていると、胸が少しだけ疼くから、一目惚れというものがあるのならば、それに近い状態に、俺はあるのかもしれない。
俺が戸惑っていると、エドワードが立ち上がった。そして俺の前で少し屈むと、片手で俺の頬に触れた。その瞬間、肌の上にビリと衝撃が走った。
「っ」
「ん?」
「あ、いや……」
静電気、にしては、どこか感覚が違った。触れられた箇所が熱を持ったように変わり、俺はびっくりしてしまう。その間にも、どんどんエドワードの顔が近づいてくる。
「キスをしてもいいか?」
「だ、ダメだ。そ、そういうのは、恋人同士とか……」
「では、俺の恋人になってくれないか?」
「そんな事、急に言われても……っ」
「急でなければいいのか?」
エドワードがもう一方の手の指先で、俺の唇をなぞる。そうされると鼓動が煩くなり、俺は惹きつけられたように目が離せなくなる。俺の目を覗き込むようにし、唇同士が触れ合う直前で、エドワードが動きを止める。その瞳を見ていると、俺は何も言えなくなった。理性では確かにダメだと思うのだが、俺も唇を重ねてみたいと感じる。
「ッ」
その時、エドワードの手が、俺の首の後ろに回った。そしてうなじをごく優しく撫でられた。第一王子殿下以外に噛まれる事は絶対にあってはならないからと、幼少時よりその場所は、一切誰にも触れさせてこなかった。今はそんな必要性はないのだが、初めて触れられたからなのか、全身にゾクリとしたなにかが駆け抜けた。
「ぁ……や、やめ……」
俺が唇を震わせる間にも、エドワードの指先は俺のうなじを撫でていた。
ただネックガードがあるのだからと、俺はどこかで楽観していた。
だが――バチン、と。その時音がした。俺は記憶にないくらい昔からネックガードをつけていたのだが、今、その特有の圧迫感が消失した。当初何が起きたのかわからず、俺は目を見開いた。
「え? な、なんで……え?」
「魔力を込めれば、破壊するのはそう難しくない。覚えておくといい」
「破壊って……っひ」
その時、舌でうなじを舐められた。硬直した俺は、唖然としながら、染み入ってくる熱と、こみあげてきた恐怖に震える。
「ま、待ってくれ。噛まないでくれ」
「どうして?」
「怖い」
「悪いようにはしない」
「ぁ……」
「噛みたくてたまらない。俺のものにしたいんだ」
今度は口づけられ、俺は小刻みに体を震わせる。頭の芯が痺れたようになってきて、体がじわりじわりと熱くなっていく。発情期抑制剤を飲んでいても、アルファにうなじを刺激されれば、いつでもオメガは発情期を誘発させられる。俺はいつも薬を飲んでいたから、まだその熱は未経験だが、今、己の体がおかしい事は分かる。熱い。
「ジャック、だめか?」
「……っ、ぁ……」
頭の奥がぼんやりしている。半分ほど発情しかかっている体で、俺は思わず目を潤ませてエドワードを見た。このままでは、体の熱が収まらないと直感が言う。だが、流されて、番にされ、その後エドワードが帰ってしまって二度と会う事がなくなったら、そう思えば、今後が怖い。そんな理性と、熱い体のはざまで、俺はしばし言葉に悩んだ。
「迷ったな。ならば、俺のものになってしまえばいい」
「!」
逡巡した俺を、エドワードは見逃してくれなかった。
直後、うなじに熱が走り、少しして、噛まれたのだと理解した。ほぼ同時に、俺の中にあった僅かな理性が霧散した。
次に気づくと、俺はもう服を着ておらず、正面から貫かれていた。寝台が時折ギシギシと軋む音と、目の前にあるエドワードの獰猛な瞳、楽しそうな口元を、ごく時々理解しつつも、ほぼ何も考えられずに、はじめての発情の熱に飲み込まれていた。体がドロドロに融けていくような感覚が続いていて、何度も放たれているのが分かるのに、もっと欲しいと本能が訴える。
きちんと目を覚ました時、俺は抱きかかえられていた。虚ろな瞳で体を見ると、既に俺の身は清められていて、服も整えられていた。変化はと言えば、ネックガードが無い事くらいだ。俺は気怠い体をエドワードの胸板に預けたまま、ぼんやりと窓の外を見る。既に雨は上がっていて、月が見えた。
「おはよう、ジャック」
「……ああ。エドワード、ネックガードをこちらに取ってくれ」
「何故?」
「つけておかないと、噛み傷から、家の者にバレてしまうからな」
「なにか露見するとまずいのか?」
「エドワードは、帰ってしまうだろう? アルファと違って、オメガは一夜のあやまちだとしても、噛まれてしまえば生涯番だ。アルファは幾人もの番が持てても、オメガは一人きりだ。エドワードは、これからも誰かと番うかもしれないし、俺の事は露見しない方がいいだろう」
「俺は一夜のあやまちだとは思っていないし、他のオメガと番う気もない。帰る際には、ジャックを貰って帰るつもりだ」
「本当に? そうなれたら、幸せだろうけどな」
思わず俺は口元を綻ばせた。
だが、無理な話だ。これでも俺は、この国で最も爵位の高いオメガであり、元第一王子殿下の許婚だ。自由な恋愛などできない。身なりからしてエドワードも貴族階級あるいは裕福な商人や騎士なのかもしれないが、それがなおさら悪い。もしこれが、敵対派閥の人間ならば、逆に同じ派閥でも新興貴族だったならば、貴族でなく平民出自だったならば、と、色々と両親も周囲も反対するだろうし、基本的にそれに異を唱える事は難しい。
ただそういった外側の事がなかったのならば――俺は、もっとエドワードと一緒にいたいと考えてしまう。何故ならば、俺を抱き寄せる腕の温もりが優しいからだ。一緒にいて、心地がいい。
「勿論約束する。決してジャックを不幸にはしない」
「……そうか。じゃあ、このまま一緒にエドワードと何処かへ行ってしまおうかな」
「俺はそれでも構わないが? そうするか?」
「――冗談だ。城の……あ、その……家の者も心配しているだろうから、帰るよ。また会えるといいな」
「送る」
「必要ない。俺はオメガだが、それなりに護身術も学んでいるし、独り歩きは得意なんだ」
「だが、君の家の人々に、君を貰うと挨拶しなければならないだろう?」
当然のように述べたエドワードを見て、俺は苦笑した。
「俺はこの領地の、領主の息子だ。野獣オメガというのは、俺だ」
「知っている」
「え?」
「見に来たと最初から伝えていただろう? 今宵の滞在先も、紹介状を貰ってきたから、君の滞在している城だ。帰る先も同じだ」
「……、……」
その言葉に、俺は驚いた。するとエドワードが俺を抱きしめた。
「悪いようにはしないと、言っただろう?」
城へと戻ると執事をはじめとした使用人達が慌てた顔をしていた。俺の姿に安堵するようにしてから、続いて俺の首元を見てぎょっとした顔をし、その後エドワードが紹介状を渡すと、開封した執事が顔面蒼白になった。
「貴方様は――」
「まだジャックには名乗っていないんだ。俺から伝える、それまで黙っていてほしい。さてお腹が減ったな。エヴァンス城は、料理が上手いと耳にしたが」
「――すぐにご用意いたします」
執事はそういうと、足早に出ていった。応接間に残された俺は、エドワードを見据える。
「エドワードというのは偽名なのか?」
「いいや? 家名を名乗っていないという話だ」
「執事が顔色を変えたのだから、王家の縁者か他国の王侯貴族といったところか」
「察しがいいな」
クスリと笑ったエドワードを一瞥し、俺は頭痛がした。正妃となるべく有力貴族や他国の王族や貴族の名前を覚えさせられてきた俺の中で、エドワードという名の持ち主は、そう多くは浮かばない。わざわざここに足を運ぶ可能性や、外交のタイミングなどを考慮すると、目の前にいるエドワードの身分について、心当たりは一つだ。
「失礼だが、エドワード・エネーゼル殿下ですか? 隣国の」
「いかにも」
「――度重なるご無礼、失礼いたしました。ジャック・エヴァンスと申します。ご滞在中は不便なきよう、なんでもお申し付けください」
「硬くなる必要はない。もう、俺達は番なのだから」
「エドワード。ついさきほどまでの俺の悩みは、俺の身分の方が高い可能性を考慮してだった。だが今、その悩みは逆転したよ。いくら俺であっても、エネーゼル帝国の次期皇帝陛下には並べるはずもない。番になるなんて、俺には無理だ」
「何故? 正妃教育を適切に受けてきたジャックは、その洗練された立ち居振る舞いや、噂に聞く外交能力や執務能力の上でも、帝国次期皇帝の伴侶に相応しい上、なにより俺が君を望んでいる。もう、君が嫌だと抗議したところで、俺は逃がしてはやらない」
実際、エドワードが本気なのならば、俺に断る権利はないだろう。
だが、困惑しない方が無理だ。
「……野獣オメガを見て、笑いに来たんだろう? その相手に、興味が出て、少し遊んでみたというところではないのか?」
「俺がそのように不誠実に見えるか?」
「見えない。ただ、客観的に考えて――」
「主観的に考えてくれればいい。俺は君が好きで、君もまた俺と共にいたいと話してくれた。それだけでいい。他の全ては、俺が処理する」
「……」
「ただ一つ訂正するが、俺は笑いに来たわけではない。俺の弟が寝とった第一王子殿下の顔を見にこの国へと訪れて、ついでに寝取られた悲劇のオメガに謝罪の一つでもと思っただけだ。俺の弟は、少しばかり小賢しいところがあるものでな。もっとも今となっては、そのおかげでジャックと出会えたのだから、俺は糾弾する事はないが」
エドワードはそう述べると、紅茶のカップを持ち上げる。
「しかし、不便が無いよう気を遣ってくれるのならば、今宵の寝室は、もちろん客間ではなく、ジャックと同じ部屋なのだろうな?」
「っ」
「小屋では俺はかなり抑えた。全く足りない」
その言葉に、俺は露骨に赤面してしまった。
それからすぐに執事が呼びに来たため、俺達は晩餐の間へと移動した。並ぶエヴァンス領の名物料理を見ながら、俺は注がれた白ワインを一瞥する。エドワードは楽しそうな瞳をして、一口飲み込んでから、俺を見据えた。
「美味だな。君が俺の後宮に来たらすぐにでも、貿易品の一つにこの品を加えてもらいたい」
「別に俺が輿入れせずとも、いくらでもお持ちください」
「だから硬くなる必要はない。出会った時のように、普段のジャックが俺は見たい」
「……」
俺は周囲の人目を気にして、ゆっくりと瞬きをした。本来、他国の次期元首にこのような失礼な振る舞いをしたというのが知れたならば、俺は極刑をつきつけられる事もありえる。幼少時から染みついた観念が、俺を常に緊張させるように身構えさせる。
「ジャック、余計な事は考えるな。本能で判断しろ。俺の事が、好きか、嫌いか。それだけでいい。聞かせてくれ」
「……好きだけど」
そこには、迷いはなかった。本当にまだ出会って二十四時間も経過していないというのに、直感的にはエドワードに惹かれてしまっている。だがそれは、いい事ではないとも、どうしても考えてしまう。なにせ、恋をしてはならないと言い聞かせられてきた俺だ。俺は第一王子殿下の事しか見てはならないはずだったからだ。
「だけど、などというのは、不要だ。好きならば、好きでいい。そして俺も、君を愛している。想いあう俺達の間には、何も弊害などない。それにしても、この白身魚のムニエルは、とても上質な味がするな」
会話をしながら華麗に銀器を操るエドワードを一瞥する。俺も、会話をしながら料理を食べる事は、幼少時から躾けられてきたはずなのに、現状への動揺が強すぎて、食欲がわいてこない。けれど、今も正面にいるエドワードを視界に捉えるだけで、胸が疼いてたまらないから、もう己の気持ちを疑うことは困難だともわかっていた。
食後、俺達は客室へと向かったけれど、エドワードの意思を汲んで、夜は俺も同じ寝台に入る事になった。寝台脇には香油の瓶があったから、使用人達も既に俺たちの関係を疑っていないのがわかる。
緊張しながら湯あみを終えた俺は、ガウンを羽織って寝台に座っている。その正面で、エドワードが服を脱ぎ捨てた。先ほどの俺は理性を飛ばしてしまっていたから、引き締まったエドワードの肉体美を見ると、顔が熱くなりかける。俺もオメガにしては引き締まっているという自負があるが、鍛えているアルファには勝てはしない。
「ジャック」
寝台へと上がってきたエドワードが、抱きしめるようにして俺を押し倒した。
「んぅ」
そしてそのまま、俺の唇を奪う。口腔に忍び込んできたエドワードの舌が、俺の歯列をなぞる。片手では、エドワードは擽るようにして、俺のうなじを撫でている。そうされると、じわりじわりと俺の体の奥から、再び熱が浮かび始める。先ほど知ったばかりの、発情の熱の兆しだ。
「ぁ、ああっ」
エドワードが急に俺のうなじへと噛みついた。ぐっと強く噛みつかれて、全身が熱を帯びる。噛まれた箇所に意識が集中してしまい、脳髄が痺れたように変わる。気づけば俺は、舌を出して、必死に呼吸をしていた。
「あ、あ、あっ……」
何度も何度も強く噛まれる。痛みはなく、その度にゾクゾクと全身に快楽が広がる。エドワードの左手が、その時俺の陰茎を握りこんだ。そして扱きながら、何度も噛みつかれると、俺はいよいよ呼吸が苦しくなった。
「あ、あ……」
じわり、と。オメガの体は濡れるとはいうが、自覚ある状態でそれを体感した事の無かった俺は、自分の後孔が融けていく感触を初めて知る。未知の感覚が怖いと思っていると、エドワードが右手で、その箇所に触れた。
「香油は不要そうだな」
「っ」
「じっくりと慣らしてやりたいところだが、今夜は俺ももう、抑制が効かない」
「ぁァ……」
エドワードの指が、一気に二本入ってくる。それをかき混ぜるように動かしてから、エドワードは獰猛な目をした。
「ここが好きだろう?」
「ア!」
「さきほど覚えた。あとは、ここだったか」
「ああっ!」
的確に内部の感じる場所を指で刺激され、その度に俺は大きく喘いだ。自分のものだとは信じられないくらい、甘い声が零れていく。それから三本に増えた指が、俺の中を解すようにバラバラに動き始める。時折ぐちゅりと卑猥な水音がした。
「挿れるぞ」
「ンあ……ああっ、あァ――!」
エドワードの巨大な陰茎が、ぐっと俺の中へと入ってきた。硬いものが俺の内壁を擦り上げるようにして、進んでくる。根元まで挿いり切ると、巨大な膨らみを感じた。亀頭球だ。アルファ特有のものだと聞いたことはあったけれど、理性ある状態でそれを感じるのは、はじめてのことだった。栓をされてしまったかのような気分で、太い楔に穿たれ、俺は動けなくなる。思わずエドワードの体にしがみつく。快楽が恐ろしい。
「ん、ぁ」
エドワードが動き始める。最初は腰を揺さぶるようにして、それから次第に前後に抽挿を始める。その度に水音が響き、俺の内側が蠢く。
「あ、ああ、っ、ぁ……あ!」
激しさを増していき、肌と肌がぶつかる音も響き始めた。その頃には、再び俺の理性は断絶的になり、いつしか俺は快楽の奔流に飲み込まれた。
「たくさん出すからな」
少し掠れた声でそう言われたのを理解した直後から、俺は熱に飲み込まれて、何も覚えていない。
次に揺り起こされた時には、窓の外から高い日が差し込んできていた。
「起きろ、ジャック。寝かせておいてやりたいが、客人だそうだ。いいや、客は俺のほうなのだが」
「ぁ……」
緩慢に瞬きをした俺は、正面にエドワードの端正な顔を捉えた。
「エヴァンス公爵が到着したそうだ」
「父上が?」
「ああ。俺達の関係を認めてもらわなければならない。行こう」
それを聞き、俺は一気に覚醒した。
その後身支度を整えて応接間に行くと、顔面蒼白の父が、非常に困ったように俺を見てから、ひきつったような笑みを浮かべた。
「そ、その。ようこそ、エドワード殿下。それに久しいな、ジャック」
「ご無沙汰しております、父上」
「お初にお目にかかる、エドワード・エネーゼルだ」
俺が挨拶する隣に、エドワードは座っている。本来であれば、俺は父の隣にいるべきなのだろうが、この席に促された。
「ジャック。エドワード殿下のお気を害する事のないようにな」
「は、はい……」
「不肖の息子ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
父はそれだけ言うと、ごまかすようにカップを手に取る。エドワードは余裕たっぷりの笑みを浮かべていた。
「俺のほうこそ、ジャックの気を害さないように気をつけたいところではあるが。それは婚姻の承諾を得たという理解でいいんだろうな? エヴァンス公爵。いいや、義父殿」
「え、ええ、ええ。どうぞ。ジャック、きちんとお仕えするように」
「は、はい……」
「仕える必要はない。俺達は対等な番なのだからな。では、明日にでもエネーゼル帝国へ出立する。ジャックはもらっていく。あとは、美味な白ワインも少々」
「どうぞ! いやぁ父として嬉しいかぎりだ」
「――では、ここに『ジャック・エヴァンスと、エドワード・エネーゼルの婚約を宣言する』」
こうして俺とエドワードの結婚の話はまとまった。
俺の想像と違い、反論者は誰もおらず、祝福されて俺は旅立つ事となった。
馬車で移動するのかと思いきや、エドワードは魔術を使えるそうで、魔法陣を用いて移動したため、エネーゼル帝国までは、ものの数分で到着した。皇帝宮の造りは独特で、異国に来たのだと感じさせられる。
俺の腰に腕を回して歩きながら、エドワードは後宮塔の最上階にある広い部屋に俺を促した。
「正妃の間だ。ただ、他の妃をとる予定はないから、この塔には君と使用人しかいない。少し寂しいかもしれないが、俺が通おう。それは約束する」
「もったいないお言葉です」
「だからそう硬くはなるな」
「つ、つい……」
「――その気優しい姿も、フェロモンの香り同様清廉でたまらない。だから誰の目にも入らないように、ここに閉じ込めておきたくなってしまう」
「え?」
「なんでもない」
こうして俺の新生活が始まった。
エドワードは毎晩、俺の部屋へと訪れる。その度に俺は、快感を教え込まれていく。それだけではなく、いくつもの話をした。お互いの趣味や好物、そういったものの話だ。それすら知らずに、俺達は番となったのだが、知れば知るほど好きになっていくから、それがまた不思議でたまらなかった。
俺の懐妊が発覚したのは、その半年後の事だった。
風の噂で、俺の母国では、『野獣オメガが狂暴・粗野な皇帝の子を孕んだ』と、面白おかしく言われていると聞いたが、現在までに俺は、エドワードは優しい人だと思っているから、本当に人の噂とはあてにならないなと感じている。
ただ、生まれた子は悪しざまに言われなければいいと願いつつ、そう――『皇帝』として即位したエドワードの姿を、俺は正妃の座る椅子に腰を下ろして眺めている。俺の母国とは比べ物にならないほどの強大国の皇帝となったエドワードは、凛々しい顔をし、出会った時にも見せていた怜悧な眼差しで、淡々と謁見に臨んでいる。最近、朝の謁見や、正妃としての執務などで、俺も後宮から出て皇帝宮に駆り出される事が増えてきたのだが、エドワードは、俺が単独で執務をするのを嫌がる。当初は、別の国から嫁いできたせいかと考えていたのだが、エドワードがいうには、俺を一人にして他の誰かに奪われないように気を付けている結果だという。考えすぎだ。それこそ野獣オメガな俺を、奪おうなんて奇特な人間は、エドワード本人くらいのものだと思う。
その後、俺達の子供は無事に生まれてきた。長男はアルファで、エドワードによく似た髪と瞳の色をしていた。
「ジャック」
「なんだ?」
子を抱いていると、俺の隣でエドワードが微苦笑した。
「子は俺も可愛いが、嫉妬する。もっと俺を見るようにな」
「っ、な、なにを言って……」
「愛している」
このようにして、婚約破棄され野獣と言われた俺ではあるが、今現在は、幸せに暮らしている。あるいは、破棄の事件があったからこそ、運命の番と出会えたのかもしれない。そう、運命だ。俺も今では、エドワードとの間の関係が、運命である事を疑っていない。心から俺は、エドワードを愛している。
―― 了 ――
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