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第1話
ざぶん、と冷たい水の中へと身体が躍り出る。
着せられていた白色の神装束が水を吸い、どんどん、水底へと身体が引き摺られていく。だが、賢木(さかき)にはどうしようもない。沈んでいくままに身を委ねていた。
溺死は苦しいはずだ。だが抵抗する気力も、その気もない賢木は空気を求めてもがくことはなく、ただ意識をぼうっとさせながら、小さくなっていく地上の光を見つめていた。
(本望です、まさしく命をかけて、愛仁様を愛することができました)
もとより、最初から死んでいてもおかしくなかった命なのだ。それが幸運にも生きながらえることができ、こんな最期を迎えられたことを感謝するべきなのかもしれない。
賢木は目を閉じる。もう身体の中の酸素はほとんど残っていない。ごぼり、と最後の空気を吐き出した。
「ありがとうございました、私の愛する愛仁様」
様々な思い出が頭を駆け巡る。出生もよくわからない賢木をここまで育ててくれた養父母、しっかりと屋敷と賢木を守ってくれた使用人、同僚の照れた笑顔、小さな内親王の可愛らしい声、そして何より男らしく、賢木を愛してくれた愛仁。
(私は幸せ者だ……)
そう思い、意識を遠のかせようとした時、賢木の手を何かが掴んだ。
「賢木っ!」
水の中であるのに、はっきりと声が聞こえ、驚いて目を開く。
青い光だ。眩く、けれども賢木を見据え、どんどん近づいてきて、賢木は動揺した。
両頬を包み込まれる。目の前にはとうに諦めたはずの、賢木の愛する男の顔が目に飛び込んできた。
数ヶ月前
どんどん、と廊下を走る音が聞こえ、橘賢木(たちばなのさかき)は筆を止めた。足音は賢木の仕事部屋の方に近づいて来ている。
足音の主は一刻も早く賢木に知らせたいことがあるのだろう。だがもうその『知らせ』が何か、賢木は知っている。宮中はその噂で持ちきりだからだ。例にも漏れず、賢木も女房たちがくすくす、と噂話をしているのを耳に入れていた。
几帳に手がかけられる音がする。はあはあ、と息を切った音がし、賢木は口の中に笑いを含ませた。
「橘、橘! やったぞ!」
がらり、と大きく音を立てて、部屋に入ってきたのは同僚の小野(おの)であった。膝に手をつき、汗だくの顔を乱雑に袖で拭いながら側に近づいてくる。
「なんですか? 朝から騒々しい。ここは端とはいえ、龍帝陛下がおわします宮中ですよ。そのようにはしたなく走り回るものでもないでしょうに」
わざと咎めるような口調で、話しかけるが、賢木の声色に冷たさはない。終いには堪えきれず、ふふ、と笑いが溢れでた。
笑った賢木を見て、小野は困惑しているような表情をする。
「あれ? もしかしてもう知っているのか?」
「噂は怖いですね、こんなところで字を書くだけが仕事の私のところにまでもう話は回ってきていますよ」
ありゃりゃ、と小野は頭を掻く。
「まあ見てくれよ、手伝ってくれたお前のおかげだ、ほら。俺と一緒になってくれる、と返事をくれたんだ」
差し出された文は手汗に濡れ、くしゃくしゃになっていた。しかし芳しい紫陽花の香りが漂う。下級貴族の小野が持つにしては上質な紙だ。
その手紙には細く、流麗な文字で、和歌が歌われている。
『白馬を操る流鏑馬が射手如く、貴方様はわたくしの心を射止めました。雨の降らない梅雨が終わる頃、貴方と共になりたい』
直情的な和歌だ。女性が詠むにしては少し強い。しかしそれほどの想いをこの女性は小野に対して感じているのだ。
賢木はふと胸が熱くなり、膝あたりでぐ、と拳を握る。
「ありがとう、橘が代筆してくれたおかげだ」
「私は貴方が言ったことをそのまま書いただけですよ。礼なんか入りません。でも本当に良かった。彼女と貴方が結ばれて、私も一安心です」
賢木も口元を緩める。筆を置き、彼と向かい合い、微笑んだ。
この小野という同僚、和歌や漢詩に造詣が深く、下級貴族であるが、上級貴族にも引けを取らないぐらいの知識とセンスを持っている。しかし字が汚くて、その第一印象のせいで、恋愛が全く上手くいかない。
そこで、小野とは逆に美しい字を書く賢木が同僚の代筆をしたのだ。
小野は善人だ。何事も一生懸命で、空回りをすることもあるけれど、そういうところも含めて、賢木は彼を応援していた。
そして彼は賢木の力を借り、ずっと一途に思い続けていた、身分違いの美しい姫君の心を射止めたのだ。
「とにかく良かったです、私が代筆をしたことは内密に。貴方と藤原夏雨(ふじはらのかさめ)様との恋は宮中にもう知れ渡っておりますので。私が目立つことが嫌いなのは貴方も知っているでしょう?」
宮中は噂の広まりが早い。特に誰それが別れた、とか、付き合っているとか、そういう色恋沙汰は火のように、瞬く間に駆け巡っていく。
小野の恋が実ったのは良いことだが、賢木まで噂の中心となるのは好ましくない。
自分はいつも誰かの陰で良い。ひっそりとつつがなく、生涯を終えられたらそれでいい、と常に思っている。
小野のように、激しく、命をかけるような恋や想いをすることはできないのだから。
「わかった、けれど姫だけには伝えておくよ。俺、隠し事は苦手なタチだからさ。代筆なんて怒られるかな、やっぱり破談するなんて話になったらどうしよう」
あれだけ豪快な歌を詠む姫だ。多少のことでは動じないだろう。まあ叱り飛ばされ、尻に敷かれる小野の姿は容易に想像ができるが。
賢木はその様子を脳裏に描き、ふふ、と静かに笑った。
「大丈夫でしょう。彼女自身はきっと貴方の悪筆なんて気にしないでしょうから。お話はそれだけですか? また何か良い知らせがあれば教えてくださいね」
賢木は小野に背を向け、仕事に戻る。小野がそれじゃあ、と言って出て行き、賢木しかいない部屋は静かになった。
賢木は姿勢を正し、筆を持つ。書きかけで放置してあった宮中行事の予定表を無心で書き綴り、途中でやめてしまった。
少し落とした目線が陰った。自嘲気味な笑みが口元に浮かんだが、賢木は気がつかないでいる。
(羨ましい、私も一度でいいからあんなに熱心に他人を愛してみたい、愛されたい)
だが、賢木にそれが叶わないことはよくわかっている。秘密を抱えた身体では、恋愛どころか、誰かと親しくなることも難しい。
立ち上がり、庭を覗くと、葉桜の隙間から陽光が透けて見える。桜の花びらが散り、枝に葉が多くなってくると梅雨がやってくるはずだが、まだその気配はない。
賢木はそっと額から側頭部にかけ、指で触れた。すると、何か硬いものに当たる。
それは真っ直ぐに伸びた龍角だ。根本は濃いが、先にかけてどんどん黄色が薄くなっている。
透明に澄んだ龍庵湖という巨大な湖を東方に抱え、巨大な霧深い山々に囲まれた煌安帝国には龍神の血を引く人々が暮らしている。
元からここに住む龍神たちのところへ、別の土地から移ってきた人間たちが共に住むようになり、二つの種族は交わったのだ。
それが神代と呼ばれる時代で、文字すらなかった時分の話であるから、何かしらの資料が残っているわけではない。伝聞として言い伝えられているのみで、不確かなことが多い。
大昔は龍神たちの血が濃く、不思議な力を持っている龍人たちもいたというが、今は血が薄れ、そういった力を持つ龍人はいない。
だが龍神たちがいた名残として、この国の人々は龍角を頭に宿して生まれてくる。
ほとんどの龍人の角は白色や薄い灰色で、これを瑞雲角という。だが黒、青、赤、黄、緑と色がついている者もおり、それぞれ黒曜角、青雨角、紅蓮角、黄雷角、緑翠角という。
時たま、何も色のない透明な角を持つ龍人が生まれてくることがあった。透咲角と呼ばれ、いわゆる先祖返りだと言われていた。
透咲角を持つ龍人は極めて珍しい体質をしており、三月に一度、五日ほどの発情期が来る。そして男性の場合、その発情期の間に性行為をすると子を孕むことができるのだ。
昔は男性も、女性も、透咲角を持つ龍人は少ないながらも存在していた。そして時が経つに連れ、段々と減少していき、最後に透咲角を持つ龍人が現れたのは百年ほど前だ。だが、幼くして亡くなってしまったらしい。現在は確認されていない。
ちなみに賢木は黄雷角の持ち主だ。ただ少し色素が薄い。
日陰でひとり、ひっそり生きていくと決め、後悔したことはないが、光に憧れてしまうことはある。
陽光の眩しさに射抜かれたような気がして、賢木は思わず手で目元を覆ってしまった。
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