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第0話

 窓の外では、刻々と時が流れていた。  九曜(くよう)は窓の外の、陽が昇り、沈むまでの光景を視界の隅で確認していた。  全てが雲の上での光景だった。  九曜は雲を貫く峻厳な山、凌雲山(りょううんざん)の頂上にある、仙人の仙洞の、美術品がところせましと並べられた一室で、三十後半とは思えない均整の取れた裸身をさらして、じっと立ち尽くしていた。  九曜は気の遠くなるような羞恥心にさいなまれるものの、身動きが取れなかった。生ける彫像と化していた。  九曜の眼前には、この仙洞の主、鷲の翼を持った、長い黒髪の、華のある顔立ちの壮年の男、仙人の翼弦(よくげん)が椅子に腰かけていた。  翼弦は九曜の師匠、仙人の孔雀(くじゃく)の友人で、九曜を生ける彫像にした張本人だった。  翼弦は、底知れない黒い瞳で九曜をじっと見つめていた。身動きの取れない九曜のことを、美術品を鑑賞するように、時に目を細めて堪能していた。  翼弦は用のない日は一日中、九曜を眺めていることもあった。  繰り返される日々の中で、九曜は翼弦の黒髪が、陽光を透かす茶褐色をしていることに気づいた。  人間じみた支配欲、独占欲、執念が仙人の翼弦の目に去来するのを、幾度も確認した。  九曜はつい最近まで、翼弦の本性を知らなかった。  仙人らしく達観していて、豪気で鷹揚な雰囲気をまとう翼弦が、これほど執念深い男だとは、九曜はゆめにも思わなかったのだ。  九曜はかつて、仙人の孔雀の弟子として、そして孔雀の稚児として寵愛を受けつつ、修行にはげんでいた。  そんなある日、九曜は孔雀から稚児の任を解かれた。そして孔雀の友人の翼弦から乞われて、彼のもとへ行く約束をした。  しかし、約束は果たせなかった。  九曜は紆余曲折を経て、少年の頃からいつも九曜のそばにいた、九曜と同じ孔雀の弟子の幻以と添い遂げ、本当の幸せを見つけた。  翼弦はこの結末に納得しなかった。 「もとはと言えば」  翼弦は口の聞けない九曜に語りかける。 「私がお主に言い寄ったのは、お主の師匠が考えたはかりごとだった。相思相愛だというのに、なかなか一緒にならない弟子たちが結ばれるように、私が当て馬役として一枚噛まされたというだけの話だった。お主が幻以と幸せになれば、それでよかったのだ」  九曜が幻以と幸せを紡いでいた矢先、九曜は翼弦からさらわれて、人間がたどり着けない場所、彼の居城に閉じ込められた。  翼弦のものになることを拒んだ挙句に、蒐集物の一つにされてしまったのだ。  九曜は、愛しい男のもとに戻りたいと願い、心で翼弦に訴えた。  しかし、九曜がどんなに願っても、翼弦は術を解かなかった。  決して心を明け渡さない九曜に対して、翼弦は容赦がなかった。  誰かが呼ぶ声がして、翼弦はゆっくりと椅子から立ち上がり、彫像と化した九曜のもとへ歩み寄った。  翼弦は九曜の頬に触れる。  翼弦の手の平の感触が身動きの取れない九曜に伝わる。 「気が変わったのだ。お主は美しすぎる。あやつとの碁に負けたからとはいえ、不本意な役を引き受けるのではなかった。お主は私のものであるべきだ」  翼弦は九曜の前で身を屈ませると、九曜に口づけした。  抵抗することが許されない九曜の目から、涙が一筋、零れ落ちる。   九曜の涙を見た翼弦は、愉悦に満ちた微笑を浮かべると、九曜の体を愛撫し始めた。  九曜は、皮膚をわななかせ、喉の奥でかすかな苦鳴を漏らした。  甘い苦攻めをひとしきり楽しんだ翼弦は、窓の外を見上げる。 「新月で身動きが取れず、さぞ辛かったろう。安心しろ、今宵からまた月が輝き始める。我々が愛の囁きを交わせるわずかな機会だ。今宵こそ、お主のよい返事を待っているぞ。私は必ずお主の身も心も手に入れる。手に入れるまで、術は解かぬ」  言うと、翼弦の微笑は闇色に深まった。  空が次第に暮れなずんでいった。

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