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第10話

 次に僕が目を覚ました時には、真っ暗な自室だった。しっとりとした何かに身体が包まれていて、視線をやると、裸の彼が僕を抱きしめて、規則正しい寝息をたえていた。  その湿度や温度が、生々しく僕に現実を思い起こさせる。  いつの間にか僕は気絶していたらしい。  断片的だが、何度か意識の途中覚醒があって、彼が何度も僕を攻め立てている記憶があった。  身体はずっと痛かったし、怖かった。涙も止まらなかった。  それでも、僕はそれで良かった。  彼が、僕を求めてくれて、それに応えられることが嬉しかった。  彼との、一生消えない絆を得ることが出来て、嬉しかった。  もう、誰も、僕と彼とを引き裂くことは出来ない。  それが、うなじの痛みとして表れていた。  美しい彼の寝顔に、そ、と触れる。  これで、いいんだ。  しあわせなんだ。  それなのに、この落ち着かない感じは何だろう。 「ん…」  ぴく、と瞼が長い睫毛を震わせて、ゆっくりと美しい瞳が見えてくる。数回、まばたきをすると、彼はとろける笑みを見せて、僕にキスをした。 「聖…」 「さく…ん…」  しっとりと唇をあわせると、しあわせで涙が出そうになる。  彼が、微笑みながら、僕の頬を優しく撫でる。それがくすぐったくて、淡く笑ってしまう。そして、優しく抱き寄せられると、体温の高い彼に包まれて、じんわりと溶けたくなる。  しかし、しばらくすると、彼が急に、僕の肩をつかんで、顔を合わせる。 「えっ、俺…」  がば、と急に起き上がると彼は、目を見開いて裸の僕を見ていた。頭を抱えて、何かぶつぶつと言い出す。 「俺…聖の、お見舞いにきて…そしたら、聖のいい匂いがして、だんだんぼんやりしてきて…それで…」 「さく…?」  彼にあわせて、身体を起すと、後ろから、どろ、と溢れるのがわかった。ベッドを汚してしまう、と急いで立ち上がるが、足に力が入らなくて、かくん、とその場に倒れてしまう。ベッドに上半身を預ける形で膝立ちになると、つ、内腿を白い液体が伝って落ちていく。それを、彼は凝視して、みるみる顔を白くさせていった。近くにあったティッシュでその液体を拭っていると、彼も急いでベッドから這い出てきた。慌てすぎて、転げ落ちていたが、それでも立ち上がり、僕の肩をつかみ、背後を凝視した。 「さく?」 「う、あ…夢じゃ、ない…」  僕のうなじを見て、彼はそうつぶやいた。あまりの反応に、僕も不安になってくる。強い力で身体を起されて、向き合う形にされると、焦燥する彼が僕に聞いた。 「聖、身体大丈夫?変なところない?」  慌ててそう聞かれて、僕も何がなんだかわからずに、うん…と小さくうなずくしかなかった。それから、彼は急いで着替えて、僕にパジャマを着させた。でも、そのパジャマのシャツは、やっぱりいくつかボタンが千切れていて、ボタンをとめていた彼はそれに気づくと、ますます顔色を悪くしていた。 「俺、なんてことを…」 「え、さ、く…?」  それから彼は、俺をベッドに座らせると、人を呼んでくる、とせわしない音を立てながら部屋を出て行ってしまった。全く事の成り行きがわからずに唖然としていると、彼が、僕の付き人である綿貫を連れてきた。綿貫は三十代の美しいベータの男性だ。聡明で、よく気も利くが、なかなか人に愛想を見せない。いつも冷たい無表情で僕も最初は怖かったけど、すごく愛情深い人で、僕にはよく笑顔も見せてくれる。この家で一番信頼している、僕の大切な人だ。  家族同然の彼に、事後を見られるのは大変恥ずかしかったが、あまりにも彼の様子がおかしくて、僕はまた怖くなってくる。座っている僕の足元に膝をついて、綿貫は僕の手を優しく握りしめた。 「坊ちゃま、何か違和感のあるところはありますか?」  いつもの淡々とした綿貫の声でそう聞かれたので、僕は素直に、首を横に振った。それよりも彼の様子が変で、入口に立ったままの彼を見ると、わざと目線をそらされた。どき、と心臓が固まって、汗がにじんでくる。その様子に目敏い綿貫は気づいている。 「西園寺様は、初めてのラットで気が動転なさっているだけです。大丈夫ですよ」  僕にだけ見せる笑顔で、綿貫は柔らかい声で囁いた。そして、何度も僕の手を撫でてくる。しばらくそうやって、僕に体温を分けてくれたあと、慣れた手つきで僕のクローゼットからシャツを取り出して、ボタンの千切れたシャツから、ピンと張りのある生地のシャツを首元まできちんと留めてくれる。足腰が笑ってしまって立てない僕を、横抱きにして、悠然と歩き出した。  そのまま、僕と彼は、綿貫の付き添いで、彼のかかりつけの病院へかかることとなる。その間も彼の熱い手のひらを、冷えた僕の手を握りしめていて、時節、僕を気にするように視線をやっていた。僕はそれに気づいていたが、目があったとして、どう反応すれば良いのかわからないから、膝頭をじっと見つめていた。もっと意識が濁っていれば良いのに、やけに頭は冴えていて、それがまた、僕をなんだかわからない焦燥感へと誘った。  血液検査や触診などを受けて、彼と並んで、医師の部屋へと入る。綿貫が入口付近で静かに立っていた。彼は僕の手を、ずっと握りしめていた。  若い医師はカルテを見てから、淡々と僕に告げる。 「結論から言うと、九条さんは何ともありません」  少し裂傷がありましたが、それも薬をきちんと塗れば問題ありません。ちらり、と彼を見てから、そう話す。気まずそうに、きゅ、と少しだけ握られた手に力が入った。 「何ともって…なんで、今の段階で言い切れるんですか…その、妊娠、とか…」  彼が、意を決して、医師に言い返す。最後は、小さい声にしりつぼみとなってしまったが。すると、医師は色のない瞳で、何の感情も抱かないまま、ありえない、と言葉を続けた。 「なぜなら、九条さんは、ベータだからです」 「え…?」  二人して、同じ言葉が出てしまった。そして、医師は、テーブルの上から、一枚の書類を僕に渡す。そこには、血液検査の結果が表となり、事細かく記載されている。そのプリントの一番上には、僕の名前と、その横にしっかりと「β」と黒字で刻印されていた。 「ど、どういう…」  僕は、渇いた口の中を湿らすために、ごく、と唾を飲みこみながら、プリントから顔を上げた。医師は、面倒くさそうに、椅子を回してパソコンに何かを打ち始める。 「はっきりと数値として表れています。間違いありません」 「でも…っ」  確かに、あの時。十歳の時に学校でもらった診断結果には、大きく「Ω」だと印字されていた。僕は必死に訴えようとする。  だって、僕が、ベータだったら。僕と彼とを結ぶ、それが切れてしまう。  本当に、僕と彼は、一緒にいられなくなってしまう。 「何度確認しても、結果は間違いありません。本当に、一時検査の結果はオメガでしたか?」 「でも、確かに、俺は聖の匂いに…」  彼が口元を押さえながら、独り言のようにつぶやく。血色の良い彼の顔色は、いつもより薄くなっていった。  医師が溜め息混じりに、僕を睨みつけた気がした。 「君たちは、まだ幼すぎる。一時の感情で生み出される勘違い、というものは人生で多くあります」  この医師は、僕が嘘をついていると疑っている。さらに、僕たちの感情や出来事を、勘違いだと言っている。鈍く、心臓がうねり、さっきから背中を冷や汗が伝い落ちている。  する、と熱が去っていくのを感じて、ほどけた手に振り返る。彼を見ると、目を見開いて、青ざめた表情で僕を見つめていた。 「聖…、俺…」 「ち、ちが…っ、本当に…!」 「必要であれば、バース性証明書を発行しますが」  僕が彼に本当だと伝えようとすると、それを遮るように医師が冷たく言い放ってきた。そんなものいらない、と叫びそうになった僕の肩を、大きなものが包む。 「お願いします」  バリトンが鼓膜を揺らし、振り向くと綿貫が僕の肩を撫でていた。 「坊ちゃま、今日はお疲れです。また今度、お話を聞きに来ましょう」  いつも無表情の男は、僕にだけ、微笑みをくれる。その笑顔を見ると、いつだって僕は、なんだか大丈夫という気持ちになって、背中を押されてきた。今日ばかりは、それを完全の受け取るほどの気持ちのゆとりはなかったが、優しく肩を撫で、落ち着くように穏やかに話しかけられて、こくりとうなずくしかなかった。  まだふらつき、ところどころの関節が痛む身体をなんとか起こし歩く。綿貫に肩を抱かれて、診察室を出ると、彼は、何かは、と気を取り直して、綿貫から奪うように、僕を抱き寄せた。そして、ずっと熱い身体はうなだれる僕の身体を支えてくれていた。  その温度を感じれば感じるほど、彼と僕とは遠い存在なのだと示されているような気持ちになっていった。 「聖、大丈夫。大丈夫だから」  何かの間違いだから。  そう彼は何度も繰り返した。自分に言い聞かすかのように。  はっきりと、証明書に、僕の身体はベータだと書かれていた。  アルファの父親と、オメガの母親は絶句していた。二人から、なぜベータが生まれるのか。ただ、両親は僕の前ではそんなこと一言も漏らさずに、黙って背中をさすってくれた。  それから、母親はすみやかに、西園寺家に連絡を入れたようだった。  うちの息子はオメガではなく、ベータでした。だから、婚約は…。と話をしているのを、遠くで聞こえた。それは、当たり前の結果だった。親同士は、婚約解消という話を進めていた。  噛まれたうなじは、そのうち、かさぶたとなって、消えてしまうのだろう。  あんなに必死に、求められたのに。あれは、何かの勘違いだったのだろうか。  思えば思うほど、僕は暗闇の中に、独りぼっちになっていく。光の見えない、真っ暗な闇の中に。

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