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第32話

 なんで。  なんでなんで。どうして。  どうして。  ずっと心に押し殺してきた疑問は、やはり消えることなく膨らむばかりだった。  その結果、まざまざと自分の愚かさを知ることとなってしまった。  わかっていた。  僕はベータで、アルファの彼とは違いすぎる。ましてや、アルファの中のアルファの彼と、ベータの僕なんか。  確実にオメガだと診断されたはずの僕は、気づけばベータになっていた。  それは僕すらも信じられない事柄だったけれど、彼からしてみれば、裏切られたと感じるのは当たり前のことだ。だから、その仕返しを受けただけなんだ。  もしくは、彼の気まぐれ。  昔、自分になついていたペットが他のアルファに尻尾を振っていると勘違いして、おもしろくなくて手を出しただけ。  むしろ、ペットですらなかったかもしれない。  使ってなかったのに、他人に取られそうになって、急に所有欲が駆り立てられた、ただのおもちゃ。それが僕。  わかってた。  わかってた。わかってたはずなのに。  何度も、自分に言い聞かせていたのに。  それでも、彼の優しいキスに。甘い名前の囁きに。燃えるような情事に。  勘違いしてしまった。  彼と過ごす中で、何度か聞こうとして出来なかった。  僕のこと、好き?って。  でも、好きと言われても信じられる自信がなかった。また、自惚れ屋で都合よく勘違いしてしまう自分に嫌悪するだけだと思った。  好きじゃないと言われたら、今度こそ、期待すら抱くことを許されなくなってしまう。  だから、聞けなかった。  それに、彼も言わなかった。  昔は名前と同じ回数、好きだと言ってくれた。でも、大人になった彼は、一つもそういった囁きをしなかった。  だから、僕も、名前を呼べなかった。拒否されてしまったら、今度こそ、諦めなければならないと思ったから。  どっちにしたって、こんな絶望の底に落とされるなら、いっそのこと、聞いておけばよかった。  せめて、彼の口から、聞きたかった。  お前なんかが本気にするな。  ベータが夢抱いてるんじゃない。って。  こんなことになるんだったら、言えば良かった。  大好きって。  何もかも、遅くて、後悔ばかりが募って、僕の心をもみくちゃにする。  ただでさえ体力がないのに、走りに走ってきた。ぜえぜえと肺から濁った音がして不快だった。上手に身体に酸素が送られなくて、苦しくて、その場に膝をつく。木々に囲まれた芝生の上にごろりと横になると、陰っていた月が顔を出す。きれいな満月だった。涙に反射して、まぶしい。ほろり、と一粒、眦からあふれると、きらきらと輝いて見える。  こんなに月は美しいのに。触れることすら許されない。手を伸ばすと、どれだけ自分が地の底にいるかを実感させられた。  ますます涙が止まらなくて、ひゅ、ひゅ、と器官が狭くなり、大きく咳き込んだ。咳は静まることを知らず、胃の中の物を逆流させた。すでに消化されており、胃液しか出ない。苦い味が広がって、何もかもが嫌になる。  息するのも苦しい。生きているのも苦しい。考えると余計に苦しい。  がさ、と近くの草むらが音を立てる。なんだろう。動物?不審者?どっちであっても、どうだっていいのだ。もう、生きていても苦しいことばかりだった。  瞼を閉じると涙がまだ流れる。  後悔ばかりだ。  なんで、もっと自分の気持ちを言わなかったんだろう。  なんで、こんなに我慢してきてしまったのだろう。  なんで、こんなに傷つくことばかり気にしてしまったのだろう。  なんで、もっと好きだって言わなかったんだろう。  言ったところで、結末は変わらない。なぜなら、僕はベータだから。 「聖」  混濁していく意識の中で、名前を呼ばれた気がした。月明かりが遮られて、誰かが僕の身体を抱き起している。耳元に胸板が当たって、あまりの体温の高さに身体が火傷しそうだと思えた。どくどく、と早い心音が、そこにいる人の生命力の強さを表しているようだった。  肩を揺さぶられて、汗で張り付いた前髪を払ってくれる。何度も名前を呼ばれる。ぽた、と頬に何か雫が落ちた。 「しっかりして! 死なないで!」  汚れた口元をかさついた親指が、何度もこする。  月が雲に隠されると、ぼんやりと目の前の人物の顔が見えてくる。必死に僕の名前を呼んでいる彼は、泣いている。 「聖先輩! 先輩!」  大きな声で僕の名前を叫びながら、湿った胸元に僕をきつく抱きしめる。あまりの力強さに、本当に息苦しくなってきて、力ない手で彼の逞しい腕を叩く。それに気づくと、ぱっと離れて、僕の顔を間近で覗いてくる。 「先輩? 聖先輩っ、死なないでっ!」 「勝手に…殺す、な…」  上手に笑えたかわからない。もう全身だるくて、身動きすらつらい。 「よかったー! 聖先輩が生きてるぅ!」  ぎゅうぎゅう、またバカ力で僕を抱きしめて、濡れた頬を擦りつけてくる。やめろ、と言おうとした時、器官が狭まって、咳き込んでしまう。しつこい咳はまた僕の胃を縮こませる。急いで柊から離れて、げえ、と出せるものを出してしまう。驚いた柊はパニックになりながら、僕の背中をその大きな手のひらで何度も撫でてくれた。それだけで、すう、と身体が楽になっていく。ふ、ふ、と短く浅い呼吸を繰り返していると、柊がペットボトルを差し出してくれた。それを受け取って、口に含むが、また咳き込んでしまう。それが納まるまで、柊はずっと僕の背中を撫でて、大丈夫ですか?と心配してくれた。柔らかいタオル地のハンカチで僕の汗や涙や、口元を拭ってくれる。その優しさに、また涙がこぼれてしまう。  柊に、こんなに優しくされるような人間じゃないのに。  そう自嘲すると、ペットボトルを煽った柊の影がどんどん近づいてきた。はっきりとしない思考の中で、あ、と気づいたときには、柊の唇から与えられる水分を、ごくり、と飲んだ。ゆっくりと、少しずつ、温かい水が僕の中に沁みていく。 「しゅ、う…」  離れていくと、つ、と飲みはぐれた水滴が口の端から漏れた。それを丁寧に指先で拭った柊は、もう一度僕に口づけをした。身体を起そうと、もぞりと動こうとすると、彼の手で肩をがっちりとつかまれて、動けなくなってしまう。そして、柊はまたペットボトルの水を口に含んで、口移しで僕を潤した。何度かそうすると、呼吸が落ち着いた僕を見て、安心したようにその大きな身体に僕を包み込んだ。 「よかった…」  心底安堵したように、つぶやいた柊の吐息は、熱く、僕の身体に体温を取り戻させた。固まっていた指先は上手に動かせないが、彼のシャツに手を当てる。すると、柊の手のひらは僕の後頭部をすっぽり包んで、さらに抱き寄せる。よかった、と囁いて、頬ずりをした。  温かい体温と言葉に、僕は瞼を降ろした。涙がはらはらと月明かりに照らされて光りながら、柊のシャツに吸い込まれていった。

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