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第39話

「ひーちゃん」  名前を囁かれて、重い瞼をあげると、唇がしっとりと吸われる感覚に意識がだんだんとはっきりしていく。目の前には、眦を染めて微笑む柊がいた。 「しゅ…」  目元をこすって、気怠い身体を起すと、柊はスーツを身にまとっていた。  そうか、今日は、仕事でどうしても出かけるって昨晩言っていたっけ…と、ぼんやりする頭で思い出す。スリッパに足を差し入れて、重い身体を立ち上がらせる。ふら、と前に倒れかけるのを、すぐに大きい身体が抱き寄せて受け止めてくれる。甘い整髪料の匂いと、柊のバニラが混じって、よりじっとりと甘い匂いが漂う。 「ここでいいよ?」 「でも…」  一応、僕はこれから養ってもらう立場で、働きに出る夫をベッドから見送るなんて無礼なこと出来ない、と考えて柊を見上げる。寝起きの冴えない僕に、さらに笑みを深くした柊は、口づけをしてくる。ちゅ、と愛らしい音が静かな寝室に響くと、妙にリアルでむずがゆい感覚がしてくる。 「寝起きの可愛いひーちゃんのこと、誰にも見せたくないから、ここでいいよ」  ゆっくりと僕の身体をベッドに座らせると、その足元に跪いて僕を見上げる。美しいエメラルドは今日も健在で、潤んできらきらと輝かせながら、僕だけを映していた。 「ひーちゃんが待ってくれてるから、すぐに帰ってくるからね」  いい子で待っててね。  そう囁くと、柊は僕の頭を撫でて、何度か唇に吸い付いてから、手を振って寝室から出ていった。僕も、力ない腕でなんとか手を振って、笑顔で柊を送り出す。  柊がいなくなった寝室は、しん、と静まり返り、冷たいような気がした。そうしていると、頭ががんがんと鈍く痛み出し、ベッドにもう一度潜り込んだ。ここ最近、寝起きはずっとダメだった。日中も、身体は重だるい。疲れだろうと言い聞かせているが、おそらく微熱がずっと続いているのだ。今日は、柊もいないし、少しゆっくりさせてもらおう。と瞼を降ろすとあっという間に眠りについてしまった。  控え目なノックが数回聞こえて、僕は目を覚ました。寝起きのかすれた声で返事をすると、屋敷の執事の声が聞こえた。 「お昼はいかがなさいますか」  寝汚いと思われてしまう、と咄嗟に起き上がるが、シーツが足に絡んで、ベッドから転げ落ちてしまう。どたん、と音を聞いて、執事が慌てたように室内に入って手を貸してくれた。 「お怪我はありませんか、奥様っ」  僕のもとへ膝をついて、心配そうに手を出してくれた執事は、黒髪がさらさらと光る美しい男性だった。咄嗟に綿貫かと思い驚くが、垂れ目の優しそうで清廉とした顔つきは違う人だとはっきりわかる。そんな勘違いしてしまう自分は、ホームシックなのかと、つい笑ってしまうと、執事がより眉を寄せて心配そうに僕を見ていた。 「みっともないところを、ごめんなさい。大丈夫です」  そういって立ち上がろうとするが、大きなベッドのシーツは予想よりも重くて足が抜けず、また態勢を崩してしまう。あっと思った時には、執事が薄い身体で受け止めてくれていた。 「ご、ごめんなさい、ありがとうございます…」  急いで床に手をついて、身体を起す。今度は意識して足を動かすと、するり、とシーツから抜け出すことができた。執事に視線を移すと、まだ眉を寄せてこちらを見ていた。 「奥様…僭越ながら、お熱があるのでは…?」  奥様、と呼ばれていることに改めて気づき、慣れないむずがゆい響きに躊躇うが、執事は心底心配そうに僕を見ていた。綿貫に似ているこの人であれば、話しても良いかと顔の筋肉を緩めて話をした。 「実は、ここ何週間か微熱が続いていて、だるさが抜けないんです」 「それはいけません!」  執事は急いで立ち上がると、シーツを整えて、僕をベッドに寝かしつけた。寝室を出ていったと思ったら、別に執事がおかゆやら水の入ったたらいやらをたくさん運び入れてきた。 「すみません、そんな大したことではなくって…」  近くにいた若い女性の執事に、申し訳なくて謝罪すると、とんでもありませんと首を横に振られた。 「奥様の健康が何よりも大切なことですわ。すぐに旦那様もお帰りになるそうですから、ゆっくりなさってください」  僕と同い年くらいであろう少女は、にこりと微笑むと、失礼しますと言ってから、僕の額にひんやりと濡れたタオルを置いてくれた。それだけのことなのに、すう、と身体が軽くなった気がした。 「ありがとう、ございます…」 「私たちは奥様の執事でもあります。たくさん使ってくださいませ」  頭を下げると彼女は静かに部屋を出ていった。  その言葉に甘えようと、ふう、と一つ息をつくと身体の力が抜けて、意識がまどろんでいく。しかし、それが眠りの世界に落ちる前に、今度は医師が来室した。白髪の老医師は僕にいくつか質問し、重い身体を起して脈をはかられる。その後、シャツの下に手を入れて、聴診器で胸の音を聞かれる。こうやって医師にかかるのは、ひどく久しぶりだなあと思っていると、廊下から大きな足音が聞こえ出し、ばたばたとそれは、まっすぐこちらに向かってきて、盛大に部屋のドアを開け放った。 「ひーちゃんっ!」  聴診器を当てられる僕を見つけると、柊は目を吊り上げて睨みつけてきた。びく、と身体が小さく跳ねて固まると、医師は聴診器を戻す。すぐさま柊は、僕のもとへ駆けよってきて、長い腕で捕らえた。ぎゅうぎゅうと強く抱き寄せられて、う、と小さく呻くと、老医師はふぉっふぉっふぉ、と声を軽くあげて笑った。 「変なとこは見つからん。おそらく、疲れが出たんじゃろう」  柊は医師をするどく睨みつけ続けていて、失礼だと声をかけようとするが、あまりにも冷たい目をしていて声が出なくなってしまった。それも見ていて、医師は小さく笑う。 「奥様はご苦労なさるだろうのう」  それではご達者になりますよう、と頭を下げて、執事が案内するままに部屋を出ていった。足音が遠のくと、強い力で肩を掴まれてベッドに押し倒されてしまう。目を見開いてその力の主を見上げると、冷たい瞳で僕を見下ろしていた。 「やっぱり、離れるべきじゃなかった…」 「しゅ、う…?」  つ、と冷たい汗がこめかみを伝う。胡乱な目で柊は、顔を近づけて、目を開けたまま唇を覆われた。至近距離でまっすぐに僕を見つめる瞳は、いつもの輝きを持った翡翠ではなく濁った色をしていた。  怖い。  反射的に身体に力が入り、唇を引き結ぶと柊が親指で口端をなぞってくる。 「開けて」 「…え?」 「浮気してないか確認するから、口開けて」  何言って、と話しかけようとすると、ずぬり、と親指が口内に入って、口を開けた状態に固定してくる。目線をあげると、すぐそこに柊がいて、にゅる、と熱い舌が僕の舌を舐めまわす。羞恥と恐怖で瞼をきつく降ろして、彼からの愛撫に耐える。  舌が僕の舌に絡まって、にゅくにゅく、と上下に擦るように絞られる。久しぶりのそうした行為に、身体は、あっという間に熱を持って、ぴくん、ぴくん、と小さく跳ねる。じゅるる、と僕の唾液をめいっぱい吸ってごくりと音がした。恥ずかしさに涙が零れると、今度は、たら、と柊から温かな液体が送り込まれてくる。それの取り扱いに困っていると、彼の舌が歯列をなぞって、上顎の奥の方を尖った舌で撫でた。ぞわぞわ、と寒気にも似た甘美な電流が、指先から指先へと帯電して、反射的に、こくり、と嚥下してしまう。  すると、柊は眦をゆるく下げて、うっとりと瞼を降ろして、僕の口内を味わった。頬裏をこすこすと何度も擦って、吸い上げる。細胞ごと食べつくされてしまうようなキスに、僕は震えて喘ぐことしかできない。柊が満足するのを待つしかないのだ。  柊の立派な犬歯が甘く舌を噛んで、ようやく解放される頃には、舌がびりびりと痺れて、息をするのもやっとな状態になるほど乱されてしまっていた。いつもよりも、感じやすい気がするのは、どうしてだろう。しかし、靄がかかったように不明瞭な意識では何も考えられなかった。最後に、首筋に高い鼻をこすりつけて匂いを嗅がれる。 「んぅ、あっ」  強く吸われて、ぴり、とした痛みに思わず声が出てしまう。その痕を確認するように、ぬめった舌が何度も舐めてから、赤い舌を見せながら柊が離れていく。 「ひーちゃんは、僕のものなんだからね」  悪いことしちゃだめだよ、とにこりと柊は僕に微笑んで、軽く唇に吸い付いてから抱き寄せた。  また、あの笑顔に戻ってしまった。僕は瞬時に柊の異変に気付いてしまい、かたかたと震える指先を握りしめた。

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