60 / 90
第60話
「嘘だ……嘘だ、嘘だ! 僕は、見た…っ、あの日…」
彼が、僕のために用意したであろうマゼンダ色の透き通るガラスのコップを夢木は、暗い目をさせて床に落として、粉々に割った。そして、僕を見つけると、勝ち誇ったように、にんまりと笑って、明らかに彼の白いワイシャツをだぼつかせて、艶めかしい細い脚の間から、彼の残滓を垂らして、見せつけたのだ。その白い肌には、無数の情事の痕が見て取れた。いくら性に疎い僕でもわかるほどのものだった。
「っ、一番…、嘘、ついてほしく、なかった…っ、なんで…」
信じられなくて、それでも夢木に言われるがままに寝室へと足を運んで、裸で眠る彼を見てしまったのだ。
思い出したくなくて、顔を冷たい指先で覆う。涙を握りしめるように、ぎゅ、と指先を握りこむ。止めどなく溢れる涙が、手のひらから腕を伝って、温かなシャツの中で沁みていく。
「なんで……、僕、誰にも迷惑かけないように、暮らしてたのに…どうして…」
どうして、こんなに苦しい思いをしないといけないの。
やっぱり、僕なんかが、彼と、一瞬でも、未来があるかもとか、両思いなのかもしれないとか、身不相応な願いを抱いてしまったから、罰があたってしまったのだろうか。彼と再会してしまった、あの入学式の日に、もう一度転校すれば良かったのか。いろんな言い訳を募って、彼の近くに少しでもいられれば、それでいいと、欲をかいてしまったからなのか。彼とまた、結ばれて、甘美な時間を味わって、それを思い出として、有り難く受け取って、すぐに身を引けば良かったのか。卑しくももっと、と強請ってしまったから、こんな目にあっているのだ。だからだ。
「ごめんなさい…」
僕はいつだって、間違ってた。
僕なんかは、誰とも関わっちゃいけないんだ。
「ごめんなさい…、好きになって、ごめんなさい…」
僕なんかが、みんなが憧れる、みんなに好かれる王子様に恋をしてしまったからいけなかったんだ。独占しようとしたから、罰が下ったんだ。
「もう…もう、嫌いになるから…許して…」
僕を楽にさせて。ごめんなさい。
まだ、好きでいて、ごめんなさい。
嗚咽がどんどん止まらなくなっていて、気が付けば、息の仕方がわからなくなってしまっていた。苦しくて、息を吸おうとすればするほど、呼吸ができなくて、苦しくてさらに、どうしていいかわからなくなる。身体の力が抜けて、その場に膝から崩れてしまう。
(もう、死ぬんだ…)
罰があったんだ。しょうがない。
生きてたって、彼と結ばれることはなくて、苦しいことばっかりで。
(もう、いい…)
やっぱり、向き合おうと思ったけど、僕なんかが好かれてるはずなんかない。苦しいことばっかり。最後まで、嘘をつかれて、僕は簡単に騙せるやつだと思われてたんだ。都合の良いおもちゃでしかなかったんだ。
涙でゆがんだ視界が、ぼんやりと何かを映す。どうでもよくて、瞼を降ろすと、涙がずっと眦からあふれて、こめかみを伝っていく。
「聖」
遠くで、名前を呼ばれる。
(まだ、呼んでくれるんだね…)
嬉しい。
もうやめようと何度思っても、彼の声で名前を呼ばれてしまえば、簡単にそんなこと忘れてしまう。
身体の奥から体温が戻ってきて、足元がふわついて、視界に映るものがきらきらして見えてしまう。
(本当に、僕って、バカだな…)
可哀そうなくらいバカ。
「聖…っ」
ぎゅう、と何かに強く身体が締め付けられるような感覚があって、意識がゆったりと戻ってくる。身体にじんわりと酸素が巡って、色々な感覚が鮮明になってくる。ふわ、と鼻腔に、甘い、花の蜜のような、大好きな匂いが漂う。嬉しくて、しあわせで、もっとその匂いで身体をいっぱいにしたくなる。
次は、熱い何かに包まれているのがわかってくる。すると、瞼が上がってきて、薄闇を柔らかな暖炉の灯が辺りを照らしているのが見える。指先がようやく動くと、硬い何かが柔らかな布で包まれて、僕を締め付けているのがわかる。それを辿っていって、視界がはっきりとしてくると、ようやく、彼に抱きしめられているのだと、眠っていた頭が回り出した。
「ぁ、く…」
うまく呂律が回らなかった。けれど、彼は充分わかってくれていて、抱きしめている腕の力をさらに強めた。それが、嫌なはずなのに、嬉しくて、涙があふれる。身体は、たくましいその胸板に預けてしまう。背中に手を回して、そっと、シャツを握る。
「聖…っ、ごめん…ごめんっ…」
その声に、は、と強く意識を引き寄せて、彼の胸板を押した。身体は離れなかったが、彼は顔を起して、僕を覗き込んだ。ばらばらと号泣する彼は、僕を見つめて、前髪を流すように髪を撫でつけて、もう一度、ごめんと小さく囁いた。
「でも、俺、嘘はついてない…だからっ」
「や…やだ…っ」
顔を背けて、さらに腕を突っぱねると、身体は離れた。柔らかな絨毯の上に、僕の身体はあって、彼と距離をとって、ソファにもたれかかる。手を伸ばしたままで、彼は固まっていた。僕が呼吸を整えながらにらみつけていると、彼は俯きながら手を戻した。
「聖が、姿を消したあの日…」
ぽつりと彼が話し出す。本当は聞きたくなかった。けれど、彼があまりにも涙をぽたぽたと絨毯に吸わせているので、哀れに思えて、視線を反らしながらも耳を澄ました。
「早く帰ろうと生徒の仕事を持って校舎を出てから、記憶がないんだ…」
嘘にしては、あまりにも稚拙で、思わず振り向いてしまった。しかし、彼は、深刻な顔で俯いて、頭を抱えていた。
「医者にかかったわけじゃないが、意識を失う前に何か刺されるような痛みがあったのは覚えている…」
気が付くと、自分の部屋で寝ていた。頭が猛烈に痛んで、身体もだるかった。隣に誰か寝ていて、聖かと思ったら、違った。急いでそいつをベッドから突き落として、驚いた…。
なぜかわからないが、夢木美久が隣で裸で寝ていた。急いで部屋中を探したが、聖はもう、どこにもいなかった。夢木のオメガ臭で、聖の匂いもわからなくなっていた。
絶望と怒りで我を失って…次に気づいた時には、生徒会メンバーに取り押さえられて、目の前では、顔中腫らした夢木が倒れていた…。
その時、夢木を唯一解放していた生徒会メンバーから一切の事情を聞いた。
夢木が昔から俺に固執しているのは、自分でもわかっていた。聖と同じ中学に入学する前に、やつが聖にやっていたことを聞いていたから、社会的にやつの親の会社を潰した。もとから、夢木が変態オヤジをパトロンにつけて運営しているような汚れた会社だったから、簡単に潰れた。俺は、それで仕打ちは許してやったが、やつが、まだ俺を諦めていなくて、新しい義父を見つけて、この学校に転校してきた。今度の義父は、俺の家ともビジネスパートナーでそう簡単に潰せる相手ではなかった。
「だから、こいつが聖に近づかなくて済むように、多少は我慢したんだ…」
心底嫌だったけどな。と、彼は小さく自嘲するかのように笑った。
「あの日、俺は絶対に、やつを抱いていない」
においでわかったからだ。
夢木を解放した生徒会のヤツを締め上げたら、簡単に吐いた。
そいつが校舎を出た俺に、薬物を投与して意識を飛ばさせて、担いで部屋まで連れていった。夢木はそこで、俺をレイプするつもりだったらしいが、ベッドに俺を寝かしたまま、生徒会のヤツに襲われたらしい。まあ、もとからそういう関係だったらしいし、夢木自身は、自分の身体とオメガ性を使ってのし上がってきたやつだからな。自分の身体を差し出すことなんか簡単だった。俺は、あいつらのプレイの一環に付き合わされたって訳だ。
だから、夢木の体内にあった体液は、俺ではなく、その生徒会のアルファのものだ。
「俺じゃない。絶対に、俺じゃないんだ」
強い眼差しで、彼は僕を見つめて言い放った。
「それに…もう、俺は、聖以外には反応しない」
眉を下げて、小さく笑う彼は、穏やかな表情だった。あれだけ、たくさんのオメガを侍らせていた彼が…と目を見張っていると、悪かった、と頭を下げられた。
「聖を傷つけて…不安にさせて」
夢木と関係がなかったことを科学的に証明することは出来ない。俺は襲われたが、聖を探すのを優先してしまって、医者に一筆書かせるのを忘れてしまったんだ…。
だけど、俺は、本当に、あいつとセックスはしてない。
続けて彼は、改めてそうやって断言した。
「でも…」
キスは、していた。
僕は、少なくとも、二回は見た。
一回目は、食堂で。二回目は、彼は僕に気づいていた。僕に気づいていながら、見せつけるように、キスをしたのだ。
思い出すと、ぐさり、と心臓を一突きされたような痛みがして、唇が震えた。それを指先で押さえて、自分を抱きしめるように身体を丸める。
「とにかく、あいつを聖に近づけさせたくなかった…」
俺に気を引かせるしか方法が見つからなかった…。
「許してくれ…」
低いバリトンを囁かせて、彼は改めて、頭を下げた。
目の前で、きれいに渦巻くつむじを見つめながら、ぱちぱち、と柔らかく焚火が爆ぜる音を聞く。
(本当に、信じていいのだろうか…)
どれも、一応筋は通っているように思える。
ただそれが、信じたいという自分の願望からなるものなのかは、わからなかった。そうかもしれない。でも、真実なのかもしれない。
帝王である彼が、涙しながらも、床に頭をこすりつけて許しを乞う姿に、心が動かない訳なかった。そのまっすぐの瞳も、真摯に物事を語ってくれているように感じられた。
(信じ、たい…)
大切なビジネスパーティーを抜けて、大雪の中、きんきんに冷えながらも会いに来てくれた。あんなにひどい言葉を浴びせたのに、今日も会いに来てくれた。
柊のもとに囚われていた僕を、助けに来てくれた。
今、惜しみなく愛を伝えてくれる。
その彼を、僕は、信じたいと思っている。
(だけど…)
「…本当、なの…?」
(もう、傷つきたくない…)
好きになったことを後悔したくない。
好きになった自分を、蔑みたくない。
「俺は真実しか話してない…」
聖に信用してほしいから。
そう彼は、はっきりと答えた。青い瞳に、温かな灯りが映っている。そして、その中に、僕が映っている。僕しか、映っていないのだ。
「俺は…ずっと、聖が、好きだ…」
聖だけが好きだ。
彼は、そう言い直した。眉を寄せて、眦をほんのりと染めているように見えるのは、焚火のせいではないだろう。
冷え切った指先が、ぴくり、と動き、鼓動が、とくんとくん、と心地よく早くなっていく。じわ、と身体の奥から、熱が湧いてくるようだった。
「僕、は…」
ともだちにシェアしよう!