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第85話

 頭が、ずんずんと鈍く痛む。それなのに、身体は妙な浮遊感があって、現実味がない。 「ひーちゃん、ごめんね」  遠くで、声がした。柔らかな何かに包まれながら、誰かに手を握られている。すぐ近くに体温を感じる。反対に自分の身体は、氷のように冷たいような気がした。 「どうしても、僕はひーちゃんがほしい」  震える吐息が睫毛にかかる。ぎゅう、と身体をしめつけられる感覚があって、抱きしめられているのだとわかる。 (柊…? 泣かないで…)  出会った頃の小さな、女の子のような柊が泣いている映像が頭に浮かぶ。慰めたくて、抱きしめてあげたいけれど、身体が鉛のように重くて、ぴくりとも動かない。  こめかみの辺りに、しっとりと柔らかいものが吸い付いて、ちゅ、と小さく音を立てる。 「愛してるよ、ひーちゃん…」  その吐息が唇にくすぐった時、地響きのような乱暴な音が聞こえた。ぴたり、と柊は動きを止めたが、また顔を寄せようとするが、あまりにもその音は続く。柊は、溜め息をついて、僕の頭を大きな手のひらで撫で、額にキスを落した。  横になっている身体が少し跳ねて、自分がベッドの上に寝ていて、柊がそこから降りたことを、頭がだんだんと動き理解し始める。  静かに扉を閉めると、扉越しに誰かが柊に話しかけているのがわかった。ドアを叩いていた人だろうか。男だ。 「聖はどこだ」  は、と目が覚めた。  その声に、導かれるように意識が浮上した。薄暗い部屋は寝室で、僕は柔らかく広いベッドの上に寝かせられていた。起き上がろうとするが、身体が言うことを聞かない。 (さく…っ!)  心の中でしか叫べない。頭を起そうとすると、ずきん、と鋭く痛み、顔をしかめる。なぜこうなっているのか、鈍い頭を動かして考える。  ホテルで柊と話をしていた。それで、彼から連絡が来て、帰ろうとしたら、頭がくらんで…。 (やっぱり、紅茶に何か入ってたんだ…)  やけに甘い粘度の高いものが紅茶に入っていたことを思い出す。  最初ためらっていたのに、最後に気が緩んで、柊の子犬のような濡れた瞳に騙されてしまった自分を責めた。 「なんですか、一体。挨拶のひとつも出来ないんですか」  柊の冷たくて硬い声が扉越しに聞こえた。僕には、今、耳を澄ませることしか出来ないようだった。 「犯罪者にする挨拶は持ち合わせていない」  低くうなるような彼の言葉に、びり、と指先が痺れる。強い威圧を声だけでも感じる。けれど、それに対して柊は、飄々と答えているようだった。 「そうやって権力に物言わすような乱暴なやり方しかしないから、大切な人一人、守れないんじゃないですか?」 「貴様…」  ドンッ!と強い衝撃の音がする。誰かが壁を殴りつけるような。  枕元にある温かな色を灯すライトの紐がぶらぶらと揺れている。彼の威圧が強すぎて、振動を起している。しかし、柊は臆することもなく、大きな溜め息をついた。 「英雄色を好むっていうじゃないですか。あなたには、他の人間が余るほどいるでしょ?」  お盛んなようですし、と嘲笑した柊の言葉に、胸がずきん、と痛んだ。 (それは、そうだよね)  わかってはいる。わかってはいるけど、改めてその事実を他人が述べていることを耳にすると、やっぱり、深く胸に刺さる。  彼がどれだけ優れた人材なのかは、遠くから見ていた僕だからこそ知っている。 (それでも…)  それでも、彼を好きだと思う。その気持ちと同じくらい、彼が僕だけを見ていないことに憤りを感じる。けれど、それを乗り越えないと、僕は彼を本当に愛せないことをわかっている。力の入らない手のひらを、ぎゅ、と握りしめる。 「誰かと間違えているんじゃないのか?」  今度は、彼が鼻で笑って言い返した。 「色恋使って荒稼ぎさせてるのは、お前の方だろう?」 「何を…」  余裕そうに彼が軽い口調で柊に言う。柊は反対に、苦々しく相手をうかがっている様子が受け取れた。その時、チャイムの音が部屋に鳴り響いた。柊は、にやりと笑って、彼に言い放つ。 「先輩には、御恩がありますから、お返ししないと」 (柊、何を…?)  重怠い身体を叱咤させて、何とか身体を起こす。ずり落ちるように床に這いつくばって、隙間から灯りが漏れるドアに近づく。離れたところで施錠が解かれてドアが開く音がする。 「なっ、なんで…」 「は? なんで、あんたが…」  柊ともう一人、高い声がした。勝手に身体が緊張状態になり、本能がその声が誰なのかを教えてくれる。 「なんで? 咲弥? 咲弥は!?」  どたどたと荒い足音で部屋に駆け込んできたのは、白いニットに身を包んだ天使のような少年だった。 「うっ…」  どくどく、とこめかみが痛み、頭全体が収縮する鈍い痛みに襲われて、その場に伏してしまう。それでも顔を上げて、ドアの細い隙間から、中をうかがう。先ほど見たままのコートのポケットに手をいれた彼が立っていて、その前に、柊と夢木美久が立っていた。 (どうして、柊と夢木が…)  つながることのない二人が並んでいた。柊は眉を吊り上げて彼を睨みつけていて、夢木は彼のもとに走った。そして、彼の腕に抱き着いて、上目遣いで必死に彼に訴える。 「どうしてっ? 今夜こそ、一緒に過ごすって約束してくれたじゃないっ」  夢木を冷酷な光のない瞳で見下して、彼は思い切り突き飛ばした。小さく悲鳴をあげて夢木は床に倒れた。 「触るな。汚らわしい」 「さ、さくや…?」  思わず、彼の纏う冷え切ったオーラに、僕ですら、びくり、と肩をひるませてしまった。 「ど、どうしたの、咲弥? ぼ、僕は、咲弥のお母さまから認められてるんだよ? それに、咲弥が契約したがってるグレゴリー社の社長の息子だよ?」  僕にこんなことしていいの?  夢木は、急いで身を起して、なんとか笑顔を貼り付けて、彼に交渉をしかけた。しかし、彼の表情は一切変わらずに、睨みつけていた。 「だから?」 「…は?」 「だから、なんだ」  夢木は狼狽えて、絨毯の毛足を強く握りしめた。彼は大きな溜め息をついて、肩をすくめた。 「お前、本当にあの女がお前なんかを相手にしていると思うのか?」 「だ、だって! 現に、お母さまが咲弥のホテルに送ってくれたじゃないか!」 (ほ、てる…?)  頭が、がんがんと強く痛み出した。 (どういうこと…、夢木とさくは…)  やっぱり、そういう関係なの?  絶望の淵から、一気に落とされる気分だった。彼は違うと僕に言っていたのに。  涙が零れそうになっていると、彼がまた溜め息をついて、眉間を押さえた。 「お前は、ほとほとバカだな。そんな相手、毎日何十人もいた。それに、あの女がお前を使ったのは、お前が身体で稼いだ金とコネの手土産があったから。それだけだ」  何を夢を見ている、と彼は呆れた様子で夢木を見下ろした。夢木の白い肌は一気に青ざめていく。 「それに、相手にしたことなど一度もないのに、知ったように俺のことを吹聴して何か楽しいのか?」 「なっ!!」  彼の真剣な一言に、今度は怒りで顔を真っ赤にさせた。指先は震えている。 「去年、あれだけ日本で叩いて追放したのに、それでも這い上がって平気で近づいてくるお前の面の皮の厚さと、変態オヤジの相手が出来る特殊能力は認めてやる」 「なに、いって…」 「新しいパパはアメリカの大企業の社長だ。お前ごときが簡単に近づける相手ではない。裏で糸を引いてるやつがいると思ったんだ」  見つけるのに時間がかかった。  彼がそう言うと、夢木は、また顔を青くさせていた。そして、瞼を降ろしてから、今度は別の方向を睨みつけた。 「こいつみたいな色仕掛けしか知らない可哀そうなオメガを金持ちの変態オヤジたちに売りつけていたのは、お前だったんだな」  どれだけ儲けたんだ?  侮蔑の意思を込めて睨みつける相手が、柊であることを、僕は信じられなかった。 (柊が…オメガを、売買してたってこと…?)  オメガの人権迫害は世界的な課題であることは、誰もが知っていることだった。しかし、メディアはそれらを取り扱わない。何か大きな力が作用されているのだとよく聞いた。社交界で、汚い大人たちがオメガを愛人として持つことをステータスだと笑い合っていた。まるでペットのように。オメガとは、そうやって被害にあうことが多い。  噂でしか聞いた事の無いやり取りの当事者が目の前の男たちとは、夢にも思わなかった。  柊は、黙って、静かに彼を見返していた。 「…だから?」  今度は、柊が、先ほどの彼と同じセリフを言い放った。そして、薄暗い笑みを浮かべて、彼と向かい合う。 「需要と供給が適合している。それを繋げないなんて、もったいないでしょ?」 (柊が…、本当に…?)  昼下がりの温かで、少しほこりっぽい図書室。分厚い眼鏡をかけて、頬を染めて、朗らかに笑いかけてくれた男が、今、不敵に笑い、非人道的な話をしている。  冷たい汗が、額ににじみ出る。なんだか息苦しくて、口から漏れる息は細く震えていた。 「僕は、しあわせを商売にしただけ。変態の金持ちたちは、美しいオメガを求めていた。オメガも、金と権力を求めていた。ウィンウィンってやつでしょ?」  柊は悪びれる様子もなく、軽やかな笑い声をあげていた。 「反吐が出るな」  彼が片眉を上げて、吐き捨てる。それに、柊は眉間に皺を寄せて睨みつけた。 「お前らにいいことを教えてやる」  彼は、身動きできない夢木に顔を向ける。夢木は、彼と目が合うと、恐怖の色を強くして震える。 「お前のパパのグレゴリー氏は、最愛の人を亡くしている」 「え…? 奥様は、まだ…」  気合いを入れて塗られたグロスは、生気を失った夢木の顔の中で、てらてらと光っていた。彼はその夢木に肩を落として、お前はそんなことも知らないのか、と言い落した。 「グレゴリー氏は、最後に番ったオメガを深く愛していた。有名な話だ」  それを伝えても夢木は眉間に皺を寄せて困惑しているようだった。 「しかしな、そのオメガが薬物中毒によって亡くなってるんだ。だから、薬物への嫌悪は人一倍強い…」  薬物、という言葉に、夢木の肩がかすかに反応を示した。それに柊も、顔つきを険しくさせる。 「最近、グレゴリー社内で違法のセックスドラッグが売りさばかれているらしい。どうやら売り子はオメガだという情報だ」  彼は、口角をきれいに引き上げる。夢木は、がたがたと震え出し、大きな瞳からはぼろぼろと大粒の涙が零れ始めた。 「少々性癖が歪んでいるがいつも穏やかな社長が、怒り心頭らしい。血眼でそのオメガと、売り元を探している」  もう少しで見つかるだろうな。  彼がそう言うと、柊も顔色を無くし、震える手を腕ごと握り押さえている。 「いくらバカなお前らでも、社長にどんな仲間がいるかはわかるよな?」  必死に彼を睨みつける柊に彼は向き直り、鋭光を宿した瞳で射抜いた。 「不相応なんだよ、クソガキ」

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