90 / 90

第90話(終)

 けれど、僕の意思で決めたことであって、彼が苦しむ必要はないのに。 「だから、俺は、何にも縛られずに、ただ、堂々と聖の隣にいられる自分になりたかった。そのために、自分に出来ることをやろうと決めた」 (同じだ…) 「ぼ、僕も…っ!」  彼の手を両手で握りしめて、胸の高鳴りが押さえきれなくて、前のめりになって心のままに言葉を並べた。 「僕も、さくの隣にいられる自分になりたくてっ、たくさん勉強したよっ…全国模試で、一番にもなったんだよ? それから、あ、アルバイトだって、始めたんだよ? 先輩たちから、いろんな仕事を任せてもらえるようになったし…、それからっ、えっと…」  彼に伝えたかったことが、奥底から溢れ出てくる。言いたいこと、たくさんあったのに。  いざ目の前に彼がいると、胸がつまって、上手に言えなかった。けれど、彼は、少し目を見開いたあと、頬を染めて、微笑みかけてくれた。 「聖は、すごいな」  僕の小さな頭をすっぽり包み込んでしまう手のひらが、優しく頭を撫でた。背筋が震えて、喉が締まる。 「そ、れにね…、僕、やりたいこと、見つけたんだ…」  彼は首をかしげて、僕の言葉を待っていた。ただ、微笑んで、じ、と慈愛に満ちた瞳で僕を見つめていた。 (…嬉しい)  たったそれだけのことなのに、身体は歓喜で震えて、涙が止まらなかった。 「困っている人の、役に立てる、弁護士になりたい…っ」  彼が背中を押してくれた。大学への道。その道の中で、僕が心の中で考えていた目標。今、実際に勉強をしてみて、それは確実なものに変わった。 「聖は優しいし賢いから、いい弁護士になるな」  なんとなく、過ごしていた毎日。  彼が僕のすべてだった。その彼がいなくなってしまったら、生きていく理由もなかった。だから、必死に、身体を変えて、縛り付けようとしていた。  だけど、彼が離れて行って、今、僕はその時間の必要性を強く感じた。 (僕が僕であるために、僕が僕を好きになるために、この努力は必要だったんだ) 「だから、さく…」  握りしめていた手を離して、両手で彼の顔を包んだ。温かくて、無駄のない輪郭に指を這わす。確実に、本物の彼が、今、僕の手の中にいるのだと感じられた。 「僕以外、隣にいさせないで」 「聖…」  眉をぴくり、と反応させた彼は、僕の名前を大切そうにつぶやいた。 「僕以外に、簡単に触らせないで」 「うん…ごめんな…」  僕の手に、長い指が這う。そして、水かきを撫でて、指が絡む。僕は、彼の頬を撫でながら心をすべて届けた。 「僕以外と二人きりにならないで」 「うん」  彼は僕の言葉に、ゆるゆると顔をほどいて、小さくうなずいていく。僕は、彼の耳朶を、目尻を、頬を撫でる。 「僕だけ…全部、僕だけにして…」  少しかさついた、唇を親指で撫でると、熱い吐息がさわさわとそれをかすめる。 「わかった」  瞳で僕を射抜きながら、彼は低く、かすれた声でつぶやいた。そして、長い睫毛を伏して、僕の指先に甘く吸い付く。ゆったりと瞼が持ち上がると、澄んだ青が僕を映す。 「他は?」  ねえ、と僕の手を包んで、頬ずりをする彼は、嬉しそうに笑みながら僕にねだった。 「他には? もっと、聖の思っていることを知りたい…」 「他、には…」  視線が泳いで、彼から距離をとろうと手を緩めるが、手首が固定されたままで動けなかった。 「逃げるな…」  手のひらに、彼がキスを落して、じ、と眦を染めて僕を見つめていた。  胸が苦しくて、下唇を噛んで、漏れそうになる吐息を飲み込む。出てしまいそうになっている要求も、飲み下した。けれど、彼はそんな僕の心がお見通しなようで、逃げるなと手を引いた。教えろと、耳元で甘く囁く。ぞぞ、とうなじから背筋を電流が駆け巡って、鼻から息が漏れてしまう。手首を彼に拘束されてしまい、逃げることが叶わない。 「なあ、聖…、教えてくれ…」  視線をあげると彼は、眉を下げて、寂しそうに僕を見つめていた。 (…さくは、僕の一歩を待ってくれてる…)  だから、逃げるなと彼は言った。  対等であるために。これからも、ずっと長い将来を一緒にいたいから。我慢のすることのないように。  彼が、真剣に僕を考えてくれているからこその、言葉なのだと思うと、鼻が鋭く痛んで、また涙が溢れて止まらなくなってしまう。 (好き…、好きだよ、さく…) 「さくの…」  かすれて、震えた情けない声だった。ぐ、と息を飲むが小さい嗚咽が漏れていく。けれど、彼は、じっと僕の言葉を待っていた。 (僕たち、ようやく、ここまで来られた…)  傷つけあって、ぼろぼろになって。  それでも、やっぱり、好きで。  僕を思って、離れていって。  ずっと、待っていてくれた。  僕、勇気を出して、良かったってすごく思ってる。  ここまで来て、全部が明るみになって。  本当のことを言える、自分になれた。 「さくの番も、お姫様も、僕だけにして…っ」  やっと、言えた。  マゼンダのつつじに囲まれて、誓ったあの日から。  何も知らない子どもだったあの時から、幾重にも時は流れた。僕たちは、現実を知ったし、僕と彼とが住んでいる世界が違うことも痛いほどわかった。  それでも、僕たちは離れられなかった。  痛いほど、好きで。  好きだから、不安で、怖くて、傷つけあって。  それなのに、どうしても、僕には彼が必要だった。  目の前の瞳が、潤みを増して、暖色のライトがちらり、と光った。はら、と綺麗な頬を涙が滑っていった。 「ああ…もちろんだ」  彼は微笑みながら、うなずいた。すごくしあわせな笑みを浮かべながら、涙を流した。  そして、僕の右手を掬うと、指輪を抜いた。ずっと、そこに着けていたものだから、いざ離れていくと、さらされたその部分が冷たく感じられた。彼は長い指で、ピンクゴールドの細いリングを摘まむと、手のひらに乗せて、うっとりと口づけを落した。そして、今度は僕の左手をとって、睫毛を持ち上げた。静かで穏やかな青が、僕を捕らえると、真剣な表情で彼は口を開いた。 「西園寺咲弥は、生涯の伴侶として、九条聖だけを愛すことを、ここに誓う」  かすかに震える彼の指先が、僕の薬指に、そ、と指輪を通した。 「一生、俺の隣にいてください」  彼は、きゅ、と俺の左手を両手で包んで、額に当てた。祈るように囁き、僕の指輪に、その熱い唇でキスをした。 「聖の王子様は、俺だけでいいよな…?」  頭が重い。目が溶けたようにゆるい。涙はひどくなる一方で、嗚咽が苦しくて、言葉が出なかった。うなずくことしか答えられる手段がなくて、それでも彼には伝わっていて、頬を染めた彼は瞳に小さな瞬きをたくさん集めた海のようだった。それに見つめられて、名前を囁かれると、どうしようもできなくて、僕は、彼に誓いのキスをした。  ざあ、と風が吹き抜けるように髪束が揺れ、頬を撫でた感覚がする。マゼンダの海に囲まれて、つつじと彼の花蜜に溺れながら、誓いのキスをしたあの時のままだった。  震える瞼を持ち上げると、あの時と同じ、深い青の瞳が僕だけを映して、甘く微笑んでいた。 「聖…」  輪郭も、顔立ちも、あの時の面影はあるものの、確実に美しく成長していて、声も深く低く通る。鼓膜から、全身に流れて、帯電するようにびりびりと熱くなる。唇が疼いて、自分の唇をちろり、と舐める。彼が、ふ、と小さく笑う。  もう一度、成長した僕たちは、誓いのキスに揺蕩った。

ともだちにシェアしよう!