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この、ひとときの間だけでも
別にさ。
一処に留まりたくないとか。
自由でありたいとか。
束縛されたいとか。
そういうんじゃなくてさ。
そんな拘りは俺にはなくて。
俺のこの赤い瞳は見たくないものまで映してしまうから。
さっきまで優しかった人たちの嫌悪や欺瞞なんて見たくないから。
一人で旅を続けていただけで。
だからアッシュフィールド家に使用人として長く留まることは、別に苦痛でも何でもない。
ヴァニタスも。
マチルダも。
メモリアも。
スヴェンも。
セオドアも。
「……君も。良くも悪くもヴァニタスの周りに集まる人たちって、素直なんだよねー」
「し、使用人の分際で私に気安く話しかけるな!」
そう言ってしまった後、バツが悪そうに俯くヴァニタスの弟、シルヴェスター。
最近、彼は時々屋敷の近くまで来る。
でも屋敷には入らずに、ずっと屋敷を眺めて、切なそうな表情を浮かべている。
「謝ったら、許してくれると思うよー」
ヴァニタスは引き摺るような性格じゃないし。
今はちょっと、余裕がないかもしれないけど、それでも素直に謝れば、ヴァニタスはきっと許すだろう。
シルヴェスターはキッ! と、強く俺を睨んだ後、すぐに俯いた。
「俺が……」
「うん」
「俺が、兄上と逆の立場だったら……」
「……うん」
「俺は、俺のことを嫌悪するのに……」
シルヴェスターの母親のマドリーンにとって、シルヴェスターは自分とアッシュフィールド公爵を繋ぐ楔のようなものだったそうだ。
死なれては困るから、最低限のシルヴェスターの世話はしたが、それだけだ。
アッシュフィールド公爵の寵愛を失うのが恐ろしく、自身の美や魅力を磨くことに没頭して、シルヴェスターと会話をしたり、ましてや遊ぶことなどなかったらしい。
「俺は、自分の境遇は正妻のレオノーラ様と兄上のせいだと思っていた」
「うん」
「正直、憎悪していた。レオノーラ様と、兄上を」
それは……仕方がないだろう。
人間は、大人であっても母親を恨み、憎んでいる自分を自覚できる者は少ない。
自分を産み、自身の生殺与奪を握る母親は子供にとっては神のごとき存在なのだ。
神は恨めないし、憎めない。
そんなことをしたら、恐ろしい罰が下されるかもしれないと、子供は恐怖するからだ。
何しろ母親は、自身の生殺与奪を握っている。
幼い子供は、母親に見捨てられたら生きてはいけないのだ。
だからこそ、人間は母親への恨み、憎しみ、呪いをより向けやすい相手へと向ける。
シルヴェスターの場合、それがたまたまレオノーラ姫とヴァニタスだっただけだろう。
「レオノーラ様が亡くなって、兄上が悪魔憑きとしてこの屋敷に幽閉されて、母上が父上と結婚した時、私がアッシュフィールドの後継者になると決まった時……正直、ざまぁみろって思った。だが、その後……」
「レオノーラ姫の末路と、それをヴァニタスが目撃したことでも知ったの?」
シルヴェスターは俺の言葉に驚いて目を見開いた後、コクリと大きく頷いた。
「兄上は恵まれた環境でぬくぬくと生活していたわけじゃなかった。母親が自ら命を断つことを目の当たりにしてしまったら、私でもきっと正気を保ってはいられない。私が兄上であれば、レオノーラ様の死や理不尽な自分の幽閉を私や母親のせいだと恨み、憎み、呪うだろう。だが……」
実際はそうではない。
セオドアの登場やスピルスとの交流を断たれてしまったこと、セオドアとの決闘を控えていることで今のヴァニタスに余裕はない。
でも、彼はセオドアが現れるまでそれなりに楽しく生活していたし、何だかんだでセオドアを嫌っているようには見えない。
セオドアもセオドアで、何だかんだでヴァニタスのことを気に入っているように思える。
だから実際の所、ヴァニタスとセオドアの決闘についてはそこまで心配はしていない。
どちらかが死ぬまで戦うということはないだろう。
……あのスヴェンと親しい仲のセオドアと、スヴェンの養い子のヴァニタスだから、多少の怪我は免れない気がするけど……でも、うん……きっと大丈夫。
「あのさー、シルヴェスターくん」
「貴様! 流石にそれは不敬だぞ!?」
そんなの、どうだっていい。
俺はそもそも、ラスティルの人間じゃない。
だから俺はシルヴェスターの濃紺の髪をワシワシと撫でくり回した。
「シルヴェスターくん」
「何だ、無礼者め!」
「手紙を書いてきなさい」
「……手紙?」
「羊皮紙に、君の思いの丈を全部書き連ねてきなさい。幼少期からの、思いを全部。お兄さんが、ヴァニタスに届けるから」
抵抗するのを諦めたのか、いつの間にかシルヴェスターは俺にされるがままになっていた。
そして、俺に髪を撫でくり回されながら、幼い子供のようにコクンと頷く。
俺はつい、表情が緩んでしまう。
「……羨ましいなー」
「…………?」
「アリスティアが滅びなかったら、俺にもこんな可愛い弟が居たのかな……って」
「可愛っ……! 貴方は、アリスティア王国の」
「そう、生き残り」
母さんの顔は知らない。
父さんと2人、ずっと旅をしてきた。
旅先で兄弟や姉妹を見掛ける度に、ちょっと憧れを感じていた。
アリスティア王国が平和だったら、母さんが生きてたら、俺にも弟や妹がいたのかなーって。
もちろん、全ての兄弟姉妹の関係が良好でないのは知っている。
兄弟姉妹でいがみ合う姿、対立する姿も長い旅の中で目の当たりにしてきた。
それでも……。
つまるところ、俺は寂しいのだ。
ヴァニタスの世界の物語では、俺は英雄らしい。
このラスティルだけじゃなくて、世界中を旅してたくさんの人々を救い、ついには魔王を倒すらしい。
でも正直、そんな名誉や成果よりも、俺はこの寂しさを補いたい。
孤独を埋めたい。
俺という男は、存外自分勝手な男なのだ。
世界平和より、誰かの側に居ることを願ってしまうくらいに。
「…………っていうか、今俺のこと“貴方”って言った?」
ふと顔を上げると、シルヴェスターは耳まで真っ赤になる。
「可愛いー。マチルダに貰った飴ちゃんあげるー」
「貴様! あまり調子に乗ると……」
怒鳴り散らそうとした口にマチルダ特性の蜂蜜の飴を放り込む。
「…………美味しい」
「喉にもいいよ。ヴァニタスはよく歌うから、喉の負担が軽減するようにマチルダも試行錯誤してんの」
「歌……兄上が…………」
声変わりしたヴァニタスの歌は、以前よりも迫力が増した。
でも、美しいことに変わりはない。
「宿題をこなしたら聴けるかもしれないよー」
「…………書いてくる。兄上に届けてくれ。頼む」
そう告げると、シルヴェスターは髪がくちゃくちゃのまま、白馬に跨がり去っていった。
あの髪でもカッコいいって、お貴族様ってズルい。
「旅……か」
恐らく、ラスティル王国での一件が解決したら、俺はこの国に留まってはいられないだろう。
世界を救う為、旅をしなければならない。
それでも……。
「今だけでも……どうか…………」
このあたたかい場所に居させて欲しい。
誰かのぬくもりを感じられる場所に居させて欲しい。
どうか、このひとときの間だけでも……。
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