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第1話

二学期が始まり、生徒たちが睡魔と戦う昼下がりの午後。 心地よい声音が空気を伝い、僕の耳まで伝わる。 「この不定積分についてだが……この部分をtと置いて……」 黒板の前に立ち、低い声で穏やかに説明する数学教師、萩原慎は子守唄になると評判の先生だった。 そして僕は高校三年間ずっと、その数学教師のことが好きだった。 はじめて彼が教壇に立ったとき、僕は全てを奪われたような気がした。 彼の大きな両腕に優しく包み込まれたい。その骨ばった手で僕の頭を撫でてもらいたい。 何度そう思っただろうか。しかし。 結局は勇気がなくて、萩原先生に声すらかけられなかった。 僕は臆病で、いつも最悪な事態が起きることばかり考えてしまう。 それに、男が男に懸想するだなんて、先生に迷惑をかけてしまうかもしれない。 遠くから見ているだけだった。それだけで十分だった。 はずだった。 だけどやっぱり、この身体に宿った温かな気持ちは、心の灯火としていつも僕を照らしてくれた。そんな存在をなかったことにはしたくない。 そして。 高校卒業まで残り100日となった日、僕は人生最大の駆けに出る。

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