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Begin

 打ち付ける波の音が、ざぷんざぷんと脳を揺らす──。  囚われていた幻惑から逃げるように、ゆっくりと瞼を持ち上げる。夕陽に照らされたお前が、柔らかく微笑んだ。妖艶に、それでいてあどけない。 「ねぇ、来年も来ようね」  それだけ言って、おもむろにサンダルを脱ぎ捨てた。立ち上がってズボンの裾を捲り上げる。そして、朱色に染まった波を踏み荒らしに駆け出す。  日陰で見ている俺の元に戻ってきて、強引に手を引く。 「もう! おいでよ!」  俺は、重い腰を上げた。すると、サンダルを脱ぐ間も与えられず、波打ち際まで猛ダッシュする。 「待てって! 帰りの電車どうすんだよ!?」 「え〜? 別にいいじゃん」  笑って投げられる軽口に、少し苛立つ。けれど、俺の胸に顔を埋め、額を胸に擦りつけてくるのを拒めない。そして、裾を摘まんで顔を伏せた瞬間、お前の(うなじ)に見蕩れた。  ゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見上げる。夕陽に照らされているからではない。頬を赤く染め、もごもごと唇を動かす。 「じゃぁさ、乾くまで帰んなきゃいいでしょ?」 「帰んないでどうすんの?」 「どう····したい?」  お得意の狡い聞き返し。そうやって、いつも俺を惑わせる。俺は、羽織っていた薄手の上着を羽織らせ、柔らかく抱き締めた。 「帰るよ」 「······意気地なし」 「いいよ、意気地なしで。····ごめんな」  俺達は、ガラガラの電車に乗り込み、誰も居ない間だけ手を繋いだ。  地元に着くと、俺たちは兄弟に戻る。 「あーあ。帰ってきちゃった〜。意気地なしの所為だからね」  愛らしく唇を尖らせる。この、勝手気儘で口の減らないチビは恋人の蒼弥(そうや)。3つ歳の離れた弟だ。  俺が、高校を卒業と同時に一人暮らしをすると言ったら、当たり前のようについてきた。その時はまだ、蒼弥はただの弟で、コイツの想いにも気づいていなかった。  実家からも近く、蒼弥は俺の家と実家を行き来する。けれど、週の大半は俺の家で過ごすから、実質2人暮らしだ。  いつまでも兄離れしない、面倒な弟だと思っていた。しかし、それはある日を境に一転する。  俺がサークルの新歓で帰りが遅くなった日。寝ずに待っていた蒼弥の様子がおかしかった。いつもは底抜けに明るいのに、まるで夜叉のような形相で俺を出迎えた。  何か、怒らせるような事をしただろうか。その程度に思ったが、直後に思い違いだと気づく。  俺の胸にしがみつき、服のにおいを嗅ぎ始めた。俺は驚いて、蒼弥の肩を掴んで押し離す。  怪訝そうな表情で俺を見る。その目には見覚えがあった。  あれは、俺が高校に上がってすぐの頃。俺に初めての彼女ができた。浮かれた俺は、蒼弥に自慢したくて彼女に会わせた。  俺の部屋で顔合わせをし、飲み物を取りに部屋を出た数分の間に、きっと何かがあったのだろう。俺が部屋に戻ると、彼女は入れ替わりに帰ってしまった。  翌日、学校で『弟さんと仲良いんだね』と言われたきり、暫くして別れてしまった。理由は特にない。彼女から連絡が来なくなり、所謂、自然消滅というやつだった。今思えば、蒼弥が何か言ったのだろう。  それから部活に明け暮れていた俺は、彼女というものに恵まれなかった。蒼弥にも、そういう浮かれた話はなかったと思う。この頃には、一緒に遊んだりする事は殆どなくなっていたから、あまり知らない。  そして、俺を疑うような眼差しを向ける蒼弥だが、彼女を紹介した時に見せた目をしていたのだ。  香水のニオイがすると言ってシャツを剥ぎ取られる。それを、洗濯機に叩きつけるように投げ入れた。相当機嫌が悪いらしい。  さっさとシャワーを浴びろと急かされ、リビングに戻ると再び胸にしがみついてきた。 「ちょ、おい何だよ!?」 「女の人と仲良くなったの?」 「あー··いや、別に。隣に座ってた先輩が、酔ってフラついてたから駅まで送ったけど、彼氏が迎えに来たから引き渡したよ」 「香水くさい」 「その人のだな。ははっ。なんだよ〜、ヤキモチか?」  ほんの少し揶揄っただけだった。なのに蒼弥は、俺が首から掛けているタオルを掴んだと思ったら、グンと引き寄せてキスをした。  俺の大事なファーストキスだった。  俺は突然の事に茫然と立ち尽くし、数秒の間を置いて理由を尋ねた。他にも言う事はあったろうが、思考が停止していたのだから致し方ない。 「好きだからに決まってるでしょ。じゃなかったら、貴重なファーストキスあげるわけないじゃん」  困惑した俺は、蒼弥の柔らかい唇を凝視した。すると、さも当たり前のようにもう一度唇を重ねる蒼弥。  俺は『やめろ』と言って突き放し、逃げるように部屋へ篭もった。そして、蒼弥を避けて深夜に水を飲みにキッチンへ出る。  暗闇に冷蔵庫の明かりが眩しい。呆けた頭で、グルグルと考えを巡らせる。これまで見てきた、蒼弥の言動を思い返せば何の事はない。全てのピースが揃ったようにハマっていった。  ····という事は、だ。蒼弥のあの目は、酷い嫉妬によるものだったのだろう。  水のペットボトルを手に、ぶわわっと込み上げた熱が指先を震えさせる。耳まで熱くなり、俺は蒼弥への想いが兄としてのものなのか、自信が持てなくなった。  1時間ほど、リビングでソファに寝転がり、何も考えずにボーッと窓の外を眺めていた。雲に隠れ、月の明かりがぼんやりと優しい。  そのままウトウトしていると、ふっと影った感覚で目を開ける。頭上には、蒼弥が立っていた。 「寝れない?」 「寝れるわけねぇだろ」  半ば八つ当たりのように、強い口調で返す。俺を覗き込んでいた蒼弥は、気まずそうにふぃと目を伏せる。そのままポツリと言葉を落とした。 「ごめん····でも、好きなんだ」  俺を揶揄っているのではない事を、その表情から読み取れてしまう。親よりも、おそらく友人よりも、コイツのことを知っているのだから。 「それっていつから?」 「わかんない。けど、自覚したのは彼女連れてきた時」 「······ハァ。で、俺とどうなりたいの?」 「ずっと····一緒に居たい」 「だけ?」 「····っ!? できたら··“俺の”って思ってたい」 「お前の····兄ちゃんでいいの?」 「こ、恋人····が··いい!」  蒼弥の頭を撫で回し、『考える』と言って部屋へ戻った。どうしてここで断らなかったのか。そんなの、俺自身が1番分かっていない。  ただ、嫌悪感や忌避感などは無かった。全てに合点がいき、受け入れる事ができてしまったからだろう。何より、蒼弥を可愛いと思うのだから、これを手放せるわけもない。  この翌朝、ベッドに忍び込んで一緒に寝ていた蒼弥に、『恋人になってください』言われた。寝惚け眼で『よろしくお願いします』と言った俺が悪い。  こうして、トントン拍子にお付き合いが始まった。この時の事は、本心が漏れたのだと思っている。  意気地なしと呼ばれた俺は、詫びにケーキを献上する。大概の事はこれで機嫌がなおる。  しかし今回は、どうにも虫の居所が悪かったらしい。ケーキにフォークを突き刺しながら、くどくどと俺の奥手さに嫌味を言い続ける。いい加減鬱陶しくなり、半分以上残っているホールケーキと蒼弥を置いて自室に戻った。  翌日、起きたら蒼弥は既に登校した後だった。行ってらっしゃいも言えてない。それだけは、喧嘩をしていても欠かさなかったのに。  俺は大学からバイト先へ直行し、帰宅したのは深夜だった。 玄関に、揃えて置かれたスニーカーがある。蒼弥は今日もこっちに来ているらしい。寝室を覗くと、静かに寝息を立てていた。  蒼弥のベッドに腰掛け、少し赤らんで腫れている目尻に指を這わす。起こさないようにそぅっと触れるが、俺に敏感なようで起こしてしまった。 「ん····おかえり。兄ちゃん、一緒に寝よ?」 「あぁ、さっとシャワー浴びてくるわ」  俺は軽食を食べ、シャワーを浴びてベッドに潜り込む。俺を待って端に寄っていた蒼弥が愛おしい。今度こそ起こさないように、慎重に抱き締める。  だが、結局起こしてしまい、キュッと擦り寄ってきた。背中を小気味よく叩くと、蒼弥は子供の様にすやすやと眠った。  コイツがどこまで俺を求めているのかは、正直分からない。だけど、今はキスまで。俺は勝手にそう決めている。だから、眠った蒼弥の瞼にキスを落として俺も眠った。

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