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第43話 ジロウ
案の定、その人は下野の席に案内された。
にこやかにリロンが話をしているのが見える。
少し話を終えてから、リロンが軽くお辞儀をし、キッチンに向かう姿を見た。
その流れる仕草の途中、リロンはジロウと一瞬目を合わせた。
フロアの端と端で、リロンと目が合う。一瞬だったが意識がぶつかるのを感じた。それはバーシャミの時から、リロンとの合図になっているものだった。
ジロウもテーブルのお客様との挨拶を終えて、足早にキッチンに戻った。
「リロン!」
「ああ、ジロウ!やっぱりあの人だった。可哀想なくらい焦ってる。何かあったみたいで、約束に遅れたっぽい。ドルチェがまだだから、ドルチェだけでも二人分って出せる?」
リロンも相当焦っているようで、ジロウを見るなりバーシャミの時のように英語で喋り始めている。
「OK!リロン。パスティッチェーレに伝えるよ。二人分出すから。パスティッチェーレ!二人分のドルチェいける?」
そう言ってドルチェの担当にジロウは急いで声をかけると、もちろん!と返事がすぐに返ってきた。
「OK、じゃあよろしく!あっ…ちょっと待って…あのさぁ、ひとり分だけでいいんだけど、アレ追加で作れる?えーっと、ホットケーキ。フワッフワのパンケーキじゃなくて、きつね色したホットケーキ。小さめでいいよ。今日のドルチェはティラミスだろ?そのとなりに置いて欲しい」
以前、雨の日に、バーシャミで下野が待っていたのはあの人だ。
その日、ホットケーキが食べたいとかなんとか言っていたなと、ジロウは急に思い出し、パスティッチェーレに追加のお願いを出した。
パスティッチェーレは、突然のジロウの思いつきにも驚くことなく「OK」と軽く言い、シャカシャカとホットケーキの生地を作り始めている。
「リロン」と縁江がリロンを呼び、何か伝えられている。リロンが真剣な顔で縁江の話を聞いていた。
レセプションに来てくれたお客様は皆帰って行ったので、残すは下野のテーブルだけとなった。
「下野さんも、他に誰もいない方が気が楽でしょうね。リストランテで食事の相手が来ないって相当焦るだろうし、しかも今日はレセプションだったから余計だよなぁ」
武蔵がリロンとの会話を聞いていたようで、話しかけてきた。下野のことは武蔵を含む三人だけはわかっていることだ。
「カポクオーコ」と、パスティッチェーレからジロウは呼ばれた。
武蔵と話をしているうちに、パスティッチェーレがドルチェを仕上げてくれた。一皿だけホットケーキがのってるから大きめの皿になっている。
リロンを呼んでくれと支配人に頼み、下野のテーブルに出すように伝えた。
「リロン、こっちの皿を相手の人に出して。ホットケーキが乗ってる方。あの人、好きって言ってたことあったよな」
「あははは、英語では全部パンケーキって呼ぶって言ってたくせに。OK、わかりました」
さっきまで焦っていたが、リロンは少し落ち着いていた。そんなリロンを見てジロウはホッとする。縁江に何かアドバイスを受けたのだろうと思う。
「パスティッチェーレにお願いしたんだ。これは俺からだって言っといて」
リロンはジロウを見て笑って頷いた。
キッチンスタッフと最後の打ち合わせをした後、最後の客、下野の席にジロウは挨拶に向かう。
途中、フロア支配人の持田にリロンもテーブルに来るように伝えてもらった。
「今日はありがとうございました」
二人に向けて笑顔で挨拶をした。
テーブルの上には食後のコーヒーだけになっていた。ドルチェの皿は下げてあったので、もう食事は終了していたようだ。
「ジロウさん、フィエロオープンおめでとうございます。今日はレセプションに呼んで頂きありがとうございました」
「こちらこそ、いつもありがとうございます。下野さんのおかげでここまでこれました」
と、笑顔でジロウと下野が会話を始める。
下野の前の席には、あの人がいた。
下野の想い人だ。
「来てくれてありがとうございました」
その人に向かいジロウが笑顔で挨拶をした。昔、リロンが働く前のバーシャミにでは、下野と二人でよく来てくれていた。
「大切な日に…本当に申し訳ございません」
その人が謝罪を口にし、立ちあがろうとするのをゆっくりとした口調で制する声がした。
「大丈夫ですよ」
リロンの声がする。後ろを振り向くと、ジロウにもニッコリと笑いかけるリロンがいた。
「そうです。何も問題ありませんよ。もう周りに他のお客様はいないし…ゆっくりしていってください」
ジロウがそう言うと、下野が笑いながら会話に入ってきた。
「ジロウさん、俺のドルチェにはホットケーキは付いてなかったよ?」
「フフフ…あれはシェフからお客様への特別なサービスです」
下野の想い人だけにサービスしたものだと、リロンが笑いを含む言い方をして、場を和ませる。
昔、バーシャミでリロンがホットケーキミックスを渡したことがある。そのことをきっとここにいる四人は思い出している。
「ありがとうございます。ドルチェ、美味しかったです。それと…ホットケーキ思い出しました」
ほらなと、ジロウは思いリロンの方を見た。その人が笑って言い出してくれた。あの時を思い出してくれているという。
「春ちゃん、じゃあ行こうか」
そうだ、この人のことを『春』といつも下野は呼んでいたと、ジロウは思い出した。
下野の春を見る視線が甘い。甘くて低音な声で春に言葉を投げかけている。
「うん…」
二人の視線が絡み合い、春も笑顔で答えていた。二人が何か乗り越えたような気がした。
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