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第32話
マンションに帰宅し背広を脱ぐ。
「ふー……」
ダイニングキッチンに続く広く快適なリビングには、ベッドに使えるカウチソファがあった。ここで寝起きする遊輔の為にと、同居スタート数日後に薫がネット注文したのだ。テーブル上にはこれまた遊輔が来てから増えた、ガラスの灰皿が乗っかっている。
左手で灰皿を引き寄せ灰を落とす。
ふと視線を上げ、テーブルに置かれたトートバックに気付く。中からはみ出ているのは文具屋でよく見かける、A4サイズのクリアホルダー。
「アレは」
「Lewis」の営業開始前、「rabbit hole」に立ち寄った。会場を貸してもらった礼を改めて述べる為だ。
幸い両店舗は然程離れておらず、支度中のマスターは快く二人を出迎えた。
『胡散臭い口車に乗ってみるもんねえ。警察の人に聞いたわ、イベントに紛れこんでたんでしょあのサイコ野郎。全くどーゆー神経してりゃ自分が殺した子の遺影見にこれるのかしら、張っ倒してやりたい。えっ、平坂と一緒に消えた客?ごめん、わかんない。アタシも忙しかったし……ていうかアンタたちどこ行ってたの、〆作業手伝ってもらおうと思ってたら見当たんなくてびっくりしちゃった』
『すいません、コイツがオードブルに当たっちまったみてえで』
『あらまっ、ホント?だいじょぶ?』
『風祭さんに介抱してもらったんでもうすっかり』
『他のお客さんは無事かしら、食中毒者を出した店なんて風評広がったら嫌よ』
『はは……』
『これで少しは春人ちゃんの気も晴れたかしら。アリガトね、お二人さん』
弔い合戦を終えたマスターは、どこかせいせいした顔で春人の嘗ての指定席を眺めていた。
バックの中に入ってる……ということは、イベントの企画書?だとしたら見覚えないのは自然だ。
盗み見しようと手を伸ばした瞬間、湯上がりの素肌に純白のバスローブを纏った薫が帰ってきた。
「出たのか。行ってくるわ」
足早にバスルームへ急ぐ。すれ違いざまボディソープが香った。
「あの」
手首を掴まれたたらを踏む。
「……じゃ駄目ですか」
「あ?」
「行かないで。このまましたいんです」
意味不明な発言に戸惑い、まじまじ見返す。
「けどお前は」
「俺は汚れてるから」
「そうか?ちょっとは酒臭かったけど、服はピシってしてたじゃん」
「風呂行って気が変わっちゃったらヤだし。実は俺、手フェチなんです。インク染みが付いた、貴方の手が好きなんです」
フェアリー・フェラーの犠牲者の名を書き出した手に指を絡め、自身の頬へ、唇へ導く。
「だから落とさないで」
「テメエだけキレイになっといて、俺だけ汗でべとべとのシャツのまんまかよ」
そこまで言ってハッとする。薫は「汚れてたから」と過去形にせず、「汚れてるから」と現在形で言った。地下室で見た映像が甦り、知らず奥歯を噛み締める。
何も悪くねえお前が、劣等感や罪悪感を背負い込むのは間違っている。
そういいたいのに言えなくて、言えばますます惨めにしてしまいそうで、もどかしくてたまらなくなる。
「遊輔さんはそのままで。どうか今のまま」
切実な懇願に絆され、カウチにすとんと尻を落とす。
「ばっくれたりしねえ」
「知ってます」
「ちゃんといるから」
「わかってます」
気詰まりな沈黙。手探りの駆け引き。遂に忍耐力の限界が訪れ、切なげに顔を歪めた薫が遊輔を押し倒す。
灰皿に捨てられた吸殻がジジッと燻り、天井に取り付けられたファンが、極端に緩慢な動作で回る。
カウチに寝そべった遊輔が目だけ動かし、リビングとドアで仕切った廊下の先を仰ぎ見る。
「寝室でヤるんじゃねーの」
「ここで」
「せっかちだな」
「散らかってるんで。見せたくないもの沢山あるし」
「壊したりしねえよ」
「電子機器は繊細なんです」
「落っこちねえか」
「抱き止めます」
「カウチ壊れたら」
「往生際悪いですよ」
声色に脅しがこもる。いかにも器用そうな長くしなやかな手が、遊輔の首筋を辿り、襟元を緩めていく。遊輔は諦め顔で仰向けたまま、カウチの肘掛けに頭を委ね、薫のしたいようにさせる。
服を脱がす手付きは至極丁寧だった。シャツのボタンを上から順に外し、はだけ、なめらかな胸板と引き締まった腹筋を暴く。
「……」
しばらく言葉を忘れ、見とれる。遊輔が顔を横に倒す。
「じっと見すぎ」
「すいません」
素直に謝罪した後、切羽詰まった表情で呟く。
「一個だけ聞いても」
「何」
「なんで抱かせてくれるんですか」
「そりゃ」
「同情ですか」
絶句する遊輔を至近距離で覗き込み、静かに問い質す。
「貴方を好きなこと、気付いてたんですか」
束の間返答に迷うも、嘘と逃げを許さない眼差しに降参する。
「……なんとなくは」
「どのあたりで」
「ホテルに泊まった夜、お前にヤられる夢を見た。最初は猫だと思った。元カノの飼い猫がてのひらぺろぺろしてるって……今考えりゃリアルすぎた、感触も生々しくて」
東京に帰ってからもことあるごとに思い返し、あの夢はもしや事実だったんじゃないかと疑い始めた。
「帰りの態度もおかしかったし、なんか後ろめてえこと隠してんなってぴんときた」
「もっと早く言ってくれれば」
「確信持てなかったんだよ、勘違いで妙な空気になったら嫌じゃん」
直接問い詰めなかった理由は他にもある。
もしアレが妄想だったら、薫を性的対象として見ていると暴露するようなものだとブレーキが働いたのだ。
「慰めてくれるってさっき言いましたよね」
「ああ」
「俺、可哀想ですか?」
フェアリー・フェラーにもてあそばれ、父が撮ったビデオを変態仲間に回され。
「それが動機なら、同情に付け込むほど落ちぶれてません」
理性と欲望のせめぎ合いを乗り切り、小声で拒絶する青年をかっきり見据え、とことん世間擦れしたふてぶてしい面構えで焚き付ける。
「俺の相棒名乗んなら、弱味に付け込めるくらい図太くなれ」
「罪悪感を利用しろって?」
遊輔は蓮見尊の自殺の真相を知らない。自分の記事が原因で死んだと思い込んでる。
「遊輔さんがヤらせてくれるのは、父を殺した負い目があるからですか」
「人殺しだかんな俺は」
「違います。違うんです」
「蓮見以外もさんざん食いもんにしてきた。挙句が干されてこのザマ、前の職場の名刺を撒いて偽インタビューしてんだから笑えるぜ。お前に足んねえのはな、ヨゴレになりきる覚悟だよ」
俺がいる場所まで堕ちてこいと、薫の運命を変えた、憧れの人が唆す。
「ヤんの?ヤんねえの?明日にゃ気が変わってるかもしんねーぞ」
「後悔しませんか」
「くどい」
「女性を抱いたことしかないでしょ」
「上か下かとっとと決めろ」
「ノンケなのに抱けるんですか」
「フェラできたし余裕余裕」
嘘だ。遊輔は緊張していた。
生唾を嚥下し、きっぱり宣言する。
「俺が抱きます。抱かせてください」
この不健全なドロドロが尊敬なのか崇拝なのか性欲なのか恋情なのか区別できず、それらすべてをごった煮にした衝動が押し寄せ、噛み付くようなキスをする。
「!ッ、」
「最初に言っときます。手加減忘れたらごめんなさい」
遊輔さん。遊輔さん。遊輔さん。
心の中で繰り返し名前を呼び、首筋の薄皮をはみ、鎖骨のふくらみを吸い立てる。
「ンっ」
肘を立て上体を起こすのを制し、右の乳首を含み転がす。
「ここ、さわられるの初めてですか?男でもちゃんと感じるんですよ」
予想を上回る感度の良さに愉悦し、交互に乳首を吸い、甘噛み、舌で突付く。
「っ、ふ、それやめろ」
「どうして?気持ちいいでしょ」
「シツっけえんだよ」
「元カノにさんざんしてきたくせに自分の番になった途端逃げるの狡い」
「前戯、は、とばせ、ふッく、覚悟はできてんだ」
「負けず嫌いだな」
爪先が突っ張り、指先がギュッと窄まる。
「も、そこい、っから」
遊輔は女が好きだ。セックスもそこそこ上手いと自負してきた。
なのに今、三十二年の人生で初めて受け身に回り、一方的に注ぎ込まれる快楽に慄いている。
「野郎の胸なんていじっても楽しかねーだろ」
「遊輔さんの余裕を剥ぎ取るのは面白いです」
「!く、」
芯がしこった突起を引っ掻き、挟んで揺らす。鋭い性感が弾け、甘酸っぱい痛みにすり替わる。
「コリコリしてきた」
押しのけようと翳した手はあっさり掴んで戻され、仰け反る首筋から鎖骨へ、鎖骨から胸板へ、薫の手と唇が淫らに這い回るのを斜めに傾いだ眼鏡越しに見守るしかない。
「薫」
ぷっくり腫れた乳首を執拗に搾り立て、熱い舌を絡める。唾液の筋を曳いて下りた舌がへそをほじくり、鼠径部をぴちゃぴちゃ舐め回す。
しめやかな衣擦れと潤む水音が羞恥を煽り、受動の快楽に弱い体は勝手に反応し、洗練された技巧と狂おしい情熱を兼ねた愛撫に高まっていく。
「遊輔さんの知らない性感帯、全部開発してあげます」
ローブのポケットからチューブを取り出し、蓋を開けて搾りだす。透明なローションを両手で伸ばし、もぞ付く下半身に塗りたくる。
「邪魔なんで下も脱いじゃいましょうか」
薫がスラックスごと下着をずらし、陰茎を外気にさらす。驚きに見開かれた目が意地悪い笑みを含む。
「勃ってますね」
「お前、が、変なとこいじくっから」
「さわったのは上だけですよ、それで下がこんなになっちゃうんですか」
「見んな」
弱々しい抗議をはねのけ、股間にローションをまぶす。
「んっ、んっ」
「見えますか遊輔さん、ぐちゃぐちゃぬるぬるですっごいやらしい」
大量のローションが垂れ落ち、シーツに溜まる。薫は遊輔の陰茎を握り、陰嚢や会陰を揉みほぐし、潤滑剤を馴染ませていく。
「気持ちいいですか」
「よくね、ぁっ、気持ち悪ィ」
「嘘吐き」
「嘘じゃね、んん゛ッ!?」
「ほら、会陰をぐりぐりすると先っぽがぴくんて跳ねる。本当は気持ちいいんですよね」
「よせ、ぁっッ」
「ドクドクあふれてきました」
カウパーの濁流とローションが混じり合い、薫の手の中でぐちゃぐちゃ音をたてる。
「も、じれってえ、さっさと突っ込め」
「駄目ですよちゃんと慣らさなきゃ」
切ない。苦しい。じれったい。急激に高まる射精欲。震える手で縋り付き、バスローブの布地を噛む。ボディソープとシャンプーの香りがした。
「指入れます」
「~~~~~~~~~~~~~~~!」
ツプリと後孔にめりこむ。たった一本なのに圧迫感が凄まじく、胃袋が底上げされる。
「ぁ゛ッ、ぐ」
ますます強くバスローブを噛む。窄まりの指が鉤字に曲がる。
「念のため聞きますけど、元カノにアナル調教とかされてませんよね」
「~~~そこっ、に、入れたのは、座薬だけだ。ローターは勘定に入れねえ」
吸って吐いて吸って吐いて、どうにか激痛をやり過ごす。異物感が薄れる間もなく、二本目が沈む。
「ん゛っ、ん゛ん゛」
「声出して」
ローブを噛んだまま首を横に振る。薫が呆れた風に苦笑し、指の抜き差しを始める。
括約筋の強張りをほぐすように最初はゆっくりと、次第に速く激しくピストンし、汗ばむこめかみを啄んで気を散らす。薫が唇をなめる。
「三本目です」
貪欲な襞がうねり、中指と人差し指と薬指を喰い締める。
「大丈夫ですか」
「イケる」
「無理しないで。声、掠れてますよ」
「ヤニ焼け」
息を荒げて返す遊輔。鼻梁に引っかかった眼鏡の奥、潤んだ目が弓なりに笑む。
「痛々しい強がりやめてください、もっといじめたくなっちゃいます」
根元まで埋めた三本指で腸内をじゅぷじゅぷかき回す。前立腺のしこりを突き、捻り、性感帯と化した腸壁を巻き返す。
「ん゛っ、ん゛っ、んんんん゛っ」
「色気がない喘ぎ声」
「うるせ、ンんッ」
「下、グチャグチャのドロドロじゃないですか。ローターにヴァージン奪われたのは悔しいけど、俺の指はもっといい所に当たるでしょ」
「薫っ、もっよせ、抜けっぁあ」
「可哀想な遊輔さん。機械は融通利かないから、イッた後もお構いなしにぬるく嬲られ続けて苦しかったですよね」
頃合いと見て束ねた指を引き抜けば、腸液とローションが混じり合い、粘性の糸で繋がれる。
肩で息する遊輔を見下ろし、冷たく尋ねる。
「やめるなら今です」
貴方が欲しい。俺の物にしたい。
「この先行ったら引き返せません。めちゃくちゃに抱き潰します」
「……わかってる」
「気持ち悪くないんですか、俺の事」
怖くないんですか。
「貴方のこと……妄想の中で汚し続けて、酔い潰れた時も悪戯して」
許してくれるんですか。
「信用を裏切った」
「一線はこえなかったろ」
「同じです」
「違え」
組めて嬉しかった。相棒になれて舞い上がった。隣に立てるだけで満足だった。
「わからないんです、なんでそれ以上欲しがっちゃったのか。貴方は移り気だから、普通に異性が好きだから、いずれ離れて行くのは目に見えていた。でも俺は違うって、もっと深い所で繋がってるって必死に思い込もうとしたんです。だけどホントはそんな事なくて、貴方の心も体も縛り付けたくて、俺には貴方だけで、貴方がいなけりゃ今だってずっと地獄のどん底でもがいてたに決まってて、やっぱりこうする以外に遊輔さんと繋がれる気がしなかった」
貴方は特別だから。
「遊輔さんは俺のヒーローなんです。今も。今でも」
エスカレートしていく父の虐待に悩み、鬱々と日々を過ごす薫の背中を押したのは、若き日の遊輔が捏造した記事で。
「馬鹿ですよね。父さんのようにだけはなりたくなかったのに、あの人のやり方をまねることでしか、貴方は手に入らないと思い詰めた」
「お前は富樫薫だろ。蓮見尊じゃねえ」
富樫薫と風祭遊輔は嘘の絆で結ばれている。
薫が飛び下り自殺に見せかけ父を殺したことを遊輔は知らず、薫は遊輔の捏造記事に責任を押し付けたことを伏せ、欺瞞に欺瞞を上塗りして相棒をやってきた。
「本当言うと、俺だけのヒーローでいてほしい」
独り占めしたい。
「危ない目になんか遭ってほしくない。誰にもさわらせたくない。でもね、そんなこと言ったら軽蔑されちゃうでしょ。世界中他の誰に嫌われても痛くないけど、貴方に選ばれない俺に生きてる価値なんかこれっぽっちもないし、だったら全力でサポートして、互換できない有用性をわかってもらうしかないじゃないですか」
たれた前髪に表情を隠す。
「いつも取材対象追っかけてた貴方を、振り向かせたいと願ってしまった時点で負けだった」
硬直と弛緩を繰り返す脚をこじ開け、後孔に屹立を添える。
「!ッぐ、」
衝撃が来た。
指とは比較にならない熱量と体積が押し入り、収縮する直腸を拡張がてら進んでいく。
「かお、る、ぁふ」
「しっかり掴まって」
言われたとおりしがみ付く。剛直が熱く脈打ち、ゴリゴリ前立腺を曳き潰す。
「キツっ……締まる」
「痛ッぐ、ぁっあ、薫やめっ、も無理っ抜け、そんなされたらもたね、ッから」
「やめないって言いましたよね。遅いですよ」
死ぬほど痛くて恥ずかしい思いして、なんで抱かれてんだっけ?
朦朧とする頭で考え、面倒くさくなって思考を放棄し、次第に激しさを増す抽送に仰け反り、無意識に伸ばした右手で頭を掴む。
「止めねえでいいから、ぁっぐ、耳貸せ!」
気ィ失うまえに伝えとかねえと。
「俺ッ、が、雑誌干されてからも特ダネ追っかけられんのは、天才ハッカー様がばっちりネタ集めしてくれっからで、お前がいて、いてくれて、実はめちゃくちゃ助かってる」
首の青黒い痣をさすり、ベッドに縛り付けられた青年を見た時の、凄まじい怒りと絶望を呼び覚ます。
「痛く、ねえか」
「……はい」
「すまなかった」
「なんで謝るんですか。悪くないのに」
「もっと早く着いてりゃ」
「それを言うなら俺の方こそ、遊輔さんの絶体絶命のピンチに文字通り手も足も出なくて情けない。使えなさすぎて死んだほうがマシだ」
「ンなわけあるか」
お互いの不在が精神的負債となり、片や遊輔の右手の火傷を唇で、片や薫の首の痣を指で、贖罪のように辿りゆく。
「無理矢理ヤられんのはやだけど、繋がんのは満たされる」
「嘘だ……」
「違えって」
「こんな時まで優しくしないでください」
「嘘じゃねえ」
「じゃあ、俺のこと好きですか」
「可愛いって思ってる」
目の前の顔が歪む。
「何だよそれ」
「尽くしてくれるとこもゲス悠馬に妬くとこも、ぶっちゃけ面倒くせえけど、すっげえ可愛い」
インクで汚れた爪で、潰れた豆がまた固まった手で、頬に滴る涙を拭ってやる。
「手放したくねえ」
「……ずるいなあ年上ぶって」
「実際年上」
背中に両腕を回し、力を込めて抱き締める。
「俺たち二人でバンダースナッチだろ」
一分間は恐ろしく早く過ぎる。一匹のバンダースナッチを押しとどめる方がまだ楽だ。
だけど二人なら、時間にだって立ち向かえる。
「お前が隣にいてくれんなら、俺は俺を見失わずにいられる」
堕ちて堕ちてどん底まで堕ちて、嘗て少年だったお前に憧れてもらえるヒーローじゃなくなっても、地獄まで付き合うと約束してくれた片割れがいるから、燃え滓みてえな正義感をクソみてえな世界にくべて生きていける。
「行こうぜ最後まで」
「―はい」
耳たぶを軽く噛むやいなやペニスが太さを増し、遊輔の腰を掴んで猛烈な抽挿を始める。
「ぁっあ、ッぁあ、ふぁあっ、あっあ」
ロングストロークに乗じ腰が上擦り、勢い良くばらけた前髪が額を叩き、だらしなく顔が蕩けていく。
半開きの口から涎を撒き、無我夢中で腰を振り、狙い定めて前立腺を突きまくる剛直を喰い締める。
「すげッいい、ぞくぞく止まんねッ、ぁっふ、ィく」
「ぐちゃぐちゃ繋がってる音聞こえるでしょ」
「かきまぜんな、ぁっ」
「隠さないで」
「性格悪ィぞてめえ!」
「前も後ろもドロドロ。泣いてるんですか」
薫が悪戯っぽく笑い、喘ぐ遊輔と唇を重ね、一際深く腰を叩き込む。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!」
「大好きです。遊輔さん」
脳裏で真っ白な閃光が炸裂、体内にぬるい粘液が放たれる。それとほぼ同時に遊輔のペニスから白濁が飛び散り、虚脱しきった体が前のめりに倒れ込む。
絶頂の余韻に浸るのもそこそこにシャツとズボンを身に付け、疲労困憊の遊輔が口を開く。
「ところであれ何」
「あれってどれですか」
「机の上のクリアホルダー」
バスローブを肩から落とし、薫が血相変えて跳ね起きる。
「……中、見ました?」
「まだだけど。見られちゃまずいもんなのか」
「そういうわけでもないんですけど」
「もったいぶった言い方すんな」
「見たら引きます絶対」
「夜のオカズコレクションか」
俄然元気になった遊輔が跳ね起き、渋る薫を押しのけてファイルをひったくる。
いそいそページをめくるやいなや、下心全開の含み笑いが当惑の表情に塗り替わる。
「俺の署名記事……」
駆け出しの頃から現在に至るまで、十数年に亘りコレクションされた大小無数の切り抜きを見下ろす。
「お前が集めたの」
「まあはい、そうですね」
「バックに入ってたのは」
「『rabbit hole』のマスターに貸してたのを返してもらったんですよ」
「なんで」
「俺の口からはちょっと」
「は?もったいぶんな、たった今隅々まで見せ合った仲だろ」
「親しき仲にも秘密あり」
「よっくいうぜ働き蟻」
「遊輔さんにとって俺の存在って虫けらと同じなんですか、最高の相棒っていうのは方便ですか」
「言ってねえよそんなこと、都合よく補完すんな」
遂に観念する。
「最初お店貸すの渋ってたでしょ。で、切り札を使ったんです」
『rabbit hole』初訪問時、変装した薫が鞄から出した冊子を回想する。
「それ見せて説得しました。人となりをわかってもらうには記事を読ませるのが手っ取り早いですから」
悪いようにはしません。信頼できる人です。見た目はやさぐれてるけど正義感は人一倍、お店に押しかけて失礼働いたマスコミとは違います。
クリアホルダーに収められた記事は、どれも遊輔が落ちぶれる前……きちんと足を使って取材していた頃のものだ。
ブラック企業のビルから飛んだ社員の遺族を取材し、赤ん坊が虐待死したアパートを訪れ、集団登校中の小学生を巻き込んだ事故現場を踏み締め。
「……よくまあ集めに集めやがって……」
「やっぱ引いた」
「ストーカーかよ」
「証拠上がっちゃったし否定はしません」
全く悪びれず惚気る薫をよそに、クリアホルダーに視線を落とし、心の奥底からこみ上げてきた感慨を噛み締める。
そこには嘗ての遊輔をジャーナリスト足らしめた、今は廃れた良心の欠片が詰まっていた。
マスゴミに成り下がる一歩手前で遊輔を踏み止まらせた抵抗の記録を、薫は一枚一枚丁寧に切り取り、ファイリングしていたのだ。
書いても書いても報われず、刷っても刷っても届かずに。
「言ったでしょ。俺、貴方のファンなんです」
売れなきゃ無意味無価値と決め付けられ、どんどん占める面積を縮めていった記事を、見ていてくれた奴がいた。
「ずっと追っかけてきたから、偽物じゃなくても良い記事書けるって知ってます。嘘を本当にしようとして書いた記事は本物以上に尊くて、優しい作り話に飢えてる誰かを救うんですよ」
「わけわかんねーこと」
「『彼女はメリーゴーランドに乗れたのだろうか』」
拗ねた反論を遮り、凛と声を張る。
「今月十八日、東京都台東区で五歳になる佐々木まりえちゃんが亡くなった。母親の佐々木杏里容疑者の供述によると、彼女は躾と称し、まりえちゃんに度々虐待を加えていたそうだ。まりえちゃんはトイレや浴室、玄関で寝かされていた。手足を縛った上にガムテープで口を塞がれ、洗濯機で回されたこともあった。事件を報じたニュース番組に出演した某タレントは実母の鬼畜の所業を非難し、洗濯機に閉じ込められたまりえちゃんに、せめて最期の瞬間だけでも、メリーゴーランドが廻る遊園地の光景を思い描いてほしいと祈っていた。そこで筆者は疑問に思った。はたしてまりえちゃんは、遊園地に連れてってもらった経験があるのだろうか」
夜明けの静寂が満ち渡る部屋全体に、朗々たる声が染みていく。
「女性タレントは悪くない。遊園地に行った事がない子供がいるなんて、存在すら知らない子供がいるかもしれないなんて、多分想像もできなかったのだ。人間は体験したことしか思い出せず、知らないものを想像できない。それがどんなに素晴らしいものでも、だ。この世界はそうなっているのだ、残念ながら。そして遊園地で嫌な体験をし、遊園地が嫌いになる子もいる。たとえばジュースを零すとか風船を飛ばされるとかして、その子の中で膨らんだ哀しい記憶は、楽しい思い出を塗り潰してしまった」
東の空がだんだん明るみ、紺色のカーテンを濾した光が偽りのブルーモーメントをもたらす。
「まりえちゃんが欲しいものは遊園地じゃなくて、もっと近くて遠い場所にあったかもしれない。だけどもし、もし彼女が生前一度でも遊園地に行っていたら、何が一番楽しかったか聞いてみたい。コーヒーカップなのか、メリーゴーランドなのか、フリーフォールなのか、観覧車なのか。来年には身長制限をクリアし、ジェットコースターにだって乗れたはずだ。これは筆者の願いだ。ただの戯言だ。杏里容疑者は生活保護を受けており、まりえちゃんは貧困母子家庭で生まれ育った。しかし、杏里容疑者は最初から娘を虐待していたわけではない。故人が通っていた幼稚園の集合写真には、髪を三ツ編みにし、うさぎのヘアピンを付けたまりえちゃんが写っている。筆者の取材をうけた杏里容疑者は、毎朝娘の髪を結ってあげていたと証言した。ヘアピンは去年の誕生日プレゼントで、まりえちゃんはとても大事にしていたらしい。杏里容疑者は世間体を気にして娘の髪を編んだのだろうか?否、と筆者は思いたい。出勤前の忙しい時間を割いて娘の髪を編む親が、子供と一度も遊びに出かけなかったとは考えにくい。故に筆者は祈る。まりえちゃんはメリーゴーランドを知っていたはずだ、と」
淀みなく諳んじ終える頃、遊輔は首まで真っ赤に染め、クリアホルダーに顔を埋めていた。
「~なんで覚えてんの、気持ち悪」
「何百回も読み返したんで自然と覚えちゃいました。何歳の時の記事ですか」
「二十五。先輩が追ってた汚職政治家の記事がポシャって、何でもいいから三時間で埋めろって無茶振りされて、死に物狂いで脱稿した」
「修羅場の思い出ですね。遊輔さんも遊園地に行ったことない子供でした?」
「忘れちまった。お前は?」
「ちょくちょく。父がね、罪滅ぼしに連れてってくれたんです。あの人にも罪悪感あったのかな、飴と鞭使い分けてただけかな」
「遊園地のチケットを口止め料にするなんてろくでもねえ」
憂鬱なため息。
「風船はいらない。ポップコーンもいらない。たった一晩、ぐっすり眠る夢を叶えてほしかった」
「そっか」
「あの記事を書いた人ならわかってくれるんじゃないかって思ってました」
「真実を報道するのがジャーナリスト。俺は事実を捻じ曲げた売文屋。けど」
「けど?」
「クソ親父に代わって、お前を遊園地に連れてきたかった」
ぱらぱらページをめくり、うさぎのペアピンを髪にさした幼女の写真に手を翳す。
「誰もなんも邪魔が入んねえ観覧車ん中で、一番安全なてっぺんのゴンドラで休ませてやりたかった」
記事の少女と子供時代の薫を救えず、悔やむ横顔に痛感する。
この人はやっぱり、俺のヒーローだ。
「……共有されてるなんて知らなかった。ずるいですよね、自分のだけちゃっかり消して。春人たちだって見られたくなかったろうに」
「仕方ねえよ、犯罪の証拠だ」
床に指を這わせ、薫の手を握る。
「お前はどうしたい?」
「……どうって」
「平坂の言い分信じんなら、あのビデオは他にもコピーされて変態どもの手に渡ってる」
「ブチ殺したいって言ったら許してくれますか」
「乗った」
薫が振り向く。遊輔は前を向いたまま、できるだけ朗らかに付け足す。
「付き合うさ。地獄まで」
「その言葉だけで十分です。回収はしますけど」
「凄腕ハッカーの本気に期待」
「手伝ってくださいね」
「見返りは」
「セックス」
「腰が死ぬ」
「一日一回キスは」
「右手に?」
視界がぐるりと反転し、カーペットの上に組み敷かれる。
「手フェチの分際でご不満か」
「手だけが魅力と思ってるなら過小評価が過ぎますね」
この世界には人に擬態した怪物が存在する。たとえば―……。
― 新宿二丁目バー『Lewis』 ―
間接照明がムーディーに演出するカウンターにて、バーテンダーの制服に着替えた薫が、ギャル二人組を接待する。
「口コミ読んでずっと来てみたかったの」
「爽やかイケメンなバーテンさんがいるって聞いて~」
「可愛いお客さんをお迎えできて光栄です。ご注文は?」
「詳しくないんでおまかせ」
「かしこまりました」
和気藹々談笑するバーテンと女性客を忌々しげに睨み、ブリキのバケツにモップを突っ込む。
「ちょっと遊輔ちゃん床が水浸しよ、拭き掃除の仕方もわかんないなんて三十二まで何して生きてきたの!?」
「ヒモと記者の二股」
「そんなへっぴり腰じゃ汚れとれないでしょ、もっと気合入れなさいよ!」
「痛っで!?」
「大袈裟ねえ軽く叩いただけで死にそうな顔して。さては昨日もお楽しみだったんでしょ」
薫と揃いのベストに身を包み、やる気なさげにホールを磨く遊輔にマスターが呆れる。
「と・に・か・く!ウチで働いてツケ返すって言い出したのは遊輔ちゃんなんだし、しっかり働いてもらわなきゃ困るわよ」
「この年でバイトとか終わってる。あー酒飲みてえパチンコ行きてえ馬券買いてえ」
不満たらたらぼやく遊輔の口元、突如叩き込まれた鋭角のチョップが煙草を弾く。
床に零れた煙草の火がジュッと消える。
「接客業なめてんの。どこの世界にくわえ煙草でモップがけするバイトがいんの、張っ倒すわよ」
「すんません」
「あとね、寝癖位セットしてきなさい」
吸殻を摘まんで捨てる遊輔と腕組みで説教するマスターを見比べ、女の子たちが内緒話を交わす。
「誰?お店の人?」
「がら悪~い。インテリヤクザみたい」
「インテリヤクザだったらもっとキリッとしてるでしょ、せいぜい身を持ち崩したギャンブラーってとこよ」
「ああ見えて良い所もあるんですよ」
シェイカーで攪拌したカクテルを注ぎ、薫がフォローする。
「たとえば?」
「口が上手い。色んな意味で」
「色んな意味って」
「下ネタやめろ!」
地獄耳の遊輔が抗議を申し立てるも、薫は優雅に肩を竦めて受け流す。
「やだなあ、口が上手いとしか言ってないのに口でするのが上手いって拡大解釈したんですか」
「てっめえ……」
「あ~あ、またたれてますよ」
疑問符の浮かぶ顔を見合わす女性陣をよそに、薫と遊輔は睨み合いで火花を散らす。
「あと遊輔さん、なに勘違いしてるか知りませんけどご自分で思ってるほど上手くないですからね。ギリギリ及第せいぜい並って所です」
「あーあーそーですかよ、二度としてやんねェ」
モップの柄に顎を付いてふてくされる遊輔。薫は「ちょっと失礼」と客に断り、こちらに歩いてくる。
「今夜は俺がしてあげましょうか」
顔を上げる。
薫がにっこり微笑み、遊輔は生唾を飲む。
「ここで?」
「終わったらね」
ポンと肩を叩き、声を潜めて囁く。
「次の標的リストアップしときました」
「……了解」
一瞬だけ絡んだ視線をそれとなく外し、薫はカウンターの内側へ、遊輔はモップがけに戻る。
今日もマスターは先に帰り、閉店後は遊輔と薫の貸し切りになる。二人きりの作戦会議がどんな方向に転がるか、どんな事件が待ち受けているのか、全能ならざる人の身で推し量るのは難しい。
深夜二時。
扉に掛けたボードを「closed」に裏返した薫が邪魔っけにリボンタイをほどき、新しい煙草を咥え、ライターで炙った遊輔がせっかちに仕切る。
「はじめっか」
「待って」
おねだり上手に煙草を没収し、唇を触れ合わせる。
絆されまい、流されまいと意地を張るのが愚かしくなるほどひたむきなキスは気持ちよく、さりとて挑み返すほど大人げなくもなれず、諦めと居直りにほんの少しの慣れ合いをサービスし、どこまで悪ふざけを許せるか、どこまでポーカーフェイスで持ちこたえられるか、探り合うように舌を絡めていく。
貪り尽くす勢いに飲まれカウンターに肘が当たり、唾液の糸引き離れゆく唇と、その向こうでほくそ笑む青年を睨む。
「~~~~~ッ、は、満足?」
「とりあえずは」
今宵も燻り狂えるバンダースナッチが目を覚ます。
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