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アイツに会いに行こう。

「あ、そうだ。アイツに会いに行こう」  九月中旬、夏も終わりはじめたある日、俺は急に思い立った。だから、会いに行くことにした。  スマホを開いて時間を確認する、午後六時。日の短くなったこの季節、辺りはライトがなければだいぶ暗い。今くらいの時間なら(しゅう)もバイトを終えて家に帰ってる頃だろう。夏休みにも遊ばずお仕事なんて、俺と違って柊は相変わらず真面目なやつだ。  外に出ると、もう秋本番が近付いてきています、なんて言ってた気象予報士の言葉が頭に浮かんだ。確かに秋独特の冷たいような懐かしいような風が頬に吹き付けて、寒いくらいだった。ちょっと前まで半袖すら脱ぎたくなるくらいの猛暑だったのに、振り向いても見えないくらい夏は遠くに行ってしまったらしい。こりゃあ、ため息だって吐きたくなる。いつもだったらそれだけで嫌になって外出も諦めるところだが、今回は違う。だって柊に会いに行くんだから。  手に持ったままだった上着をさっと羽織って、歩き始める――。  しばらく歩いたところで、ふと、そういえば手土産でも持っていくべきなんじゃないだろうか、と思い至った。高校時代は何もなくたって学校で会ってたし、そうじゃなければ俺が勝手に柊の家に遊びに行ってた。俺という男子高校生なんてそんなもんで、思いついたらすぐに行動する何も考えないバカだったから、あのときは「手土産持っていこう」なんて発想すらなかった。 「でもまあ」呟きながら、くるっと向きを変えた。「恋人に会いに行くのに手ぶらってのも、な」  口に出しながら、柊が隣にいたら顔真っ赤にして「何言ってるの」だの「恥ずかしいじゃん」だの言われてたんだろうな、なんて考えて身体が軽くなる。早くその声が聞きたくて、その顔が見たくて。  コンビニの自動ドアを抜けると、少し前とは打って変わって冷房をあまり感じなかった。やっぱりもうそんな時期が来てるんだよなぁ、なんて思いながらポテチを持って飲料コーナーに向かう。 「ココアココアっと……」冷蔵と常温の一本ずつ手に持ち、首を捻る。「今時期ってどっち?」  夏の冷房でも寒がるような柊のことだ、このくらいの気温ならホットの方が喜ぶに違いない。まあ、俺はどっちでもいいし、ここはふたつとも買って選んでもらうのがいいかもしれないな。  ふと、飲み物の選択肢がホットかアイスのココア、つまりほぼ一択しかなかったことに気付いた。どうしてこんなにココアが好きになったのか、一瞬考えて、すぐにアイツのせいだったことを思い出す。何というか、ココアが俺たちをここまで近づけてくれた、みたいな。まあ、市販のそれらには甘いマシュマロも入ってなければ、アイツの真心も愛もこもってないし、物足りないのはそれはそうなんだけど。  コンビニから出て、ビニール袋をガサガサ言わせながらるんるんでまた歩き始める。横断歩道を渡って、それから見えてきたアパートを見上げた。いくら貧乏大学生だからって、こんなボロいところに住むなんて……かく言う俺も、これに近いアパートに住んでる訳だけど。  柊が住んでる部屋の扉を前に、急にハッと我に返った。数日後には大学後期の講義も始まるし、実は今日会いに来なくたって良かった。あのままつまらない夏の夜を数回やり過ごせば、何もしなくたって柊に会えるんだった。 「ってか、俺が会いたいから来たんだっつの」  首を振って大きく息を吐く。それからインターホンを鳴らせば、奥から返事が聞こえてくる。「はい、ちょっと待ってください」開いた扉からひょこっと柊が顔を出した。  目が隠れるくらいの長さの真っ黒な髪、端正な顔立ちを隠すような黒縁メガネ、まるで雪みたいに白くて滑らかな肌。触れたらすぐにでも溶けてなくなってしまいそうな儚さをはらんでいる。でも、だからこそ、俺の隣から離したくない。 「よっ」 「ま、待ってよ、雪希(せつき)!? 来るなら来るって言っておいてよ!」俺と目が合った瞬間、柊の頬が真っ赤に染まる。「雪希にはないんだろうけどね、僕の方には準備ってもんがあるんだよ!」  俺の返答を待たずに、柊はさっさと部屋の中に戻っていった。扉が閉まる直前「ちょっと待ってて、片付けるから」と聞こえた。  よく考えなくたって柊は顔が良い。あんなに整ってる甘いフェイスなんてほとんど見ないくらいだ。なのにアイツは「恥ずかしいから」のひとことで全部を隠そうとする。俺だったら見せびらかしてちやほやされたいくらいなのに、もったいない。でも、良いように考えればそれを見られるのは俺だけってことだし、恋人の特権ってことだ。それも悪くはない。  カチャ、と控えめな金属音が鳴った。そろそろと(うつむ)き加減の柊が出てくる。 「は、入っていいよ……」猫背がいつも以上に曲がっているのか、柊はちっちゃい。 「ありがと。んじゃ、お邪魔しまぁす」 「あ、えと、スリッパこれ使って」  五分も待たなかったはずだったのに、掃除機でもかけたのかって思わされるくらい綺麗な部屋だった。俺の部屋みたいにデザインの統一性が皆無な見た目じゃなかったし、もちろん、服やらタオルやらで散らかってもない。いつも部屋は整頓されてるんだろう、少しも片付けるものなんてないくらい。  テキトーで雑な俺とは違って、柊は生真面目で綺麗好きでしっかり者だ。ここまで正反対だから、逆に居心地も良いんだろうな、たぶん。 「で?」柊は少し頬を膨らませながら、俺にここに座れとベッドをポンポン叩いた。「今日は何の用で来たの?」 「用なんてないよ。今日来たのは、ただ柊に会いたかったから」  そう言うと、柊はゆっくり頭を抱えた。「もうそろそろ後期も始まるのに、こいつ……」 「そんなことよりさ」道すがら買ってきたものたちを袋ごとドカッとテーブルに置いた。「柊はなんで俺んち来ないの?」 「何言ってんの、この前だって遊びに行ったよね?」 「じゃなくて!」  ココアをふたつ取り出してどっちが良いか聞けば、柊は案の定ホットを選んだ。缶を開けて柊に差し出してから、続きを切り出す。 「どうしてこんなボロに住むのは良いのに、俺と一緒に住むのはダメなのって」  柊は飲み損ねたココアの一口めを吹き出した。「なっ、何言って……!?」  これは柊が大学進学を機にひとり暮らしするとか言い始めた頃からの、いちばんの大きな疑問だった。だって、ふたりだったら家賃も光熱費も水道代もその分安くなるし、分担すればひとりで生活するより断然楽だし、何より――。  とは言え、俺だってわかってる。柊は何でも恥ずかしがるヤツだ、大学入学前にこんなことを申し出れば「じゃあ別の大学にする」だとか、「絶対無理、合鍵も渡すもんか」とかって()ねるだろうことは想像に(かた)くない。だからここまで待った、この大学一年初秋というタイミングまで。夏休み始めに提案してやればいいのに、夏休みも終わりにさしかかった頃に言うあたり、俺も意地悪だなぁ、なんて思う。 「俺んちの方が大学近いし、どっちかと言えば新しい方だし」 「いや、でも……その」 「しかもさ、ずっと一緒にいられるじゃん?」  それが嫌なんだって、柊のちっちゃな呟きが聞こえた。から、それを俺の武器にしてやる。 「そっか、俺と一緒にいんの、そんなに嫌だったか。俺のこと嫌いになっちゃった?」 「嫌いな訳ない!」 「柊にとって俺は『嫌いじゃない』程度なんだろうなぁ、寂しいよなぁ……」  にやにやしながら柊の方に視線を向けてやれば、また頭を抱えてため息を吐いてた。こいつも忙しいもんだな。まあ、全部俺のせいなんだけど。 「あのさぁ、雪希ってほんっとうに性格悪いよね」  今度は俺の方が小さく呟く、どっちが。柊からのお気持ち、どれくらい聞いてないと思ってんだよ。そりゃまあ、それくらい予想通りではあるけど、俺にだって限度ってもんがある。少しの駄々をこねるくらい、許されるだろ。 「わかったって」俺を拗ねさせている原因を自覚しているのか、柊は頬を膨らませながら口を少し開く。 「だから、その……す……」 「す?」 「す……」ふうと大きく息を吐いた。「僕だって、雪希のことは……す、きだよ、そりゃあ、さ……?」  この言葉が聞けただけで俺は大満足だった。恥ずかしそうにホットココアを口元に持っていく柊からそれを取り上げて、代わりに口を塞ぐ。柔らかくて真っ赤な柊の唇は、やっぱりマシュマロを浮かせたココアみたいに甘い。 「ん~、やっぱり俺がこっち住もっかなぁ」 「やめてね? 雪希なら本当にやりかねないん――」  なだれ込むように一緒にベッドに転がった。少し冷えるようになってきたこの時期、こうやって柊とくっつくくらいがちょうど良い、なんて言うにはちょっと柊の体温は低い。 「待ってよ雪希、ちゃんと座って。僕も考えるからさ」 「しないよ、今俺はこうしてたいんだもん」  ふと、部屋の隅にストーブを見つけた。んー、と少し考えてから、揺れる柊の瞳を見つめる。 「やっぱエアコンある俺んちで一緒に住もうよ」

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