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第29話 スランプ

 新学期の慌ただしさがなくなってきた日の放課後、朔也が「やっほ」と放送室の扉を開けると、床に座り椅子を机代わりにしてなにかを書いていた山宮が「ん」と手をあげた。だが、その右手がマスクを外すと怪訝そうな表情が表れる。 「お前、今日書道部は?」 「自主練だから大丈夫」 「珍し。先週は放課後一度も来なかったろ。自主練も皆勤賞狙いかと思ったわ」  「今日はちょっと気分転換しようかなって」  笑いながら言った朔也の言葉に彼がじとっとした目つきになった。 「朝も来たくせに気分転換にここを使ってんじゃねえよ」 「だって、防音で静かだし、図書室よりも集中できるし。おれがいたら邪魔?」  すると山宮がシャーペンを置き、深いため息をつく。 「それ、邪魔じゃねえって言わせようとしてね?」 「バレた?」 「ったく……まあ、いいけど。邪魔じゃねえわ。好きにすれば」 「ではお邪魔しまーす。嬉しいなあ、山宮君って優しいんだなあ」  朔也は明るくそう言ってさっさと上履きを脱いだ。山宮と鞄一つ分空けて、定位置になったカーペットの床にどさっと腰を下ろす。一方の山宮は膝に肘をつき、そこに顔を載せた。 「折原って、案外わがままっていうか、甘ったれっていうか……」 「山宮君の寛大さに感謝してます! 頼れる人には頼ろうと思ってさ」  急に山宮が口を噤んだ。ちらりと彼を見やると、頬杖をついた顔が照れたように赤らんで、不自然にきゅうっと結んだ口を誤魔化すように手でこすっている。こちらの目線に気づくと「ズリいやつ」と朔也の腕にぽすっと右ストレートを打ち込んだ。 「折原っていい性格してんな。教室でバラしてやりてえわ」 「それはこっちの台詞。山宮だって教室では大人しそうなのに、結構口悪いよ」  朔也はそう言いながら数学の教科書とノートを取り出した。出席番号を考えれば明日当たるのは確実だ。その様子を見た彼も、「あ」と慌てたような顔になった。 「数学、俺も当たるわ。今日習ったとこ、至急解説要求」  案の定の流れに朔也は内心笑い、彼の復習に付き合った。冬休みの経験から彼の躓きそうなところは分かっている。  冬休み明けに二人で話して以来、放送室で過ごす時間が増えた。チャイムの一件等、朝早くから山宮は放送室にいることが多く、朔也が朝訪れるようになってもう何日にもなる。放送室に部員以外が入ってはいけないという言葉も覚えているが、入るなと言われたことは一度もない。  今日、朔也が放課後に放送室にやって来たのには明確な理由がある。部活に行きたくないからだ。  卒業式パフォーマンスに向けて、今、朔也はスランプに陥っていた。  形を整えようとすると筆の勢いが落ちてもたつく。気持ちのままに筆を走らすとバランスが崩れる。立って書く練習になると、周りとの連携ばかりが気になって字に集中できない。  顧問にはそういった心の迷いを指摘され、ますます体が強張って字が縮こまる。初心に立ち返ろうと自主練では臨書に取り組んだが、手本とは似ても似つかない字になった。得意分野である字を真似ることすらできないのだ。  一週間前の新一年生の推薦入試が終わった日、書道部は放送部の協力のもと、パフォーマンス甲子園の予選演技の撮影に臨んだ。人数の減った一、二年生だけで行う演技で、朔也は今井と共に選手として参加する予定だった。だが、急遽顧問は朔也を補員、別の一年を選手に変更した。振りつけ等もしっかり叩き込んでいたのだが、字が書けなければ足手まといでしかない。  そうやってあからさまな形で選手を外され、畳敷きの部屋の隅で一人筆を振るう朔也に、部員たちもなにも言わなかった。だが、朔也にはそれが一番怖かった。部長に、先輩に、同学年の女子たちにどう思われているのか分からない。  墨のにおいを感じ取れなくなり、畳のささくれに心が落ち着かなくなる。文鎮についた墨の汚れも筆先の小さな割れ目も、お前はここにいるべきじゃないと抗議しているようで、朔也は道具入れにつけていた「心願成就」のお守りを外した。  その点、放送室は居心地がよかった。  学校のどこよりも静かで人目を気にしなくてもいい。今井との話を聞いてしまったことには触れておらず、相変わらず関係はクラスメイト止まりではあるが、距離は縮まっている。無条件で自分を受け入れてくれる山宮は、書道に行き詰まっている今なくてはならない存在だった。

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