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第28話 シグナル、トランス、レシーブ5
正直、どうかと思った。母を助けるためとはいえ、自分の存在が危ぶまれるかもしれない過去を、直接本人に聞かせるのはいかがなものかと。それでも、翔平が同行すると言って聞かなかったから連れてきた。でも、本当にこれでいいのかどうか……。思い悩んでいた俺の方を見て、翔平がグッと唇を噛み締めた。俺のスーツの袖を掴んで被りをふる。何度も何度も。
——まあ、今更帰れとも言えないけどな……。
俺は翔平の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、微笑みながらうんうんと頷いた。それを見てホッとしたのか、翔平も俺ににっこりと微笑み返してきた。とんでもなく無垢な笑顔を向けてくるから、うっかりドキッとしてしまった。高校三年生でそんなに無垢な笑顔って出来るものなのか? と疑問に思ってしまうくらい、汚れのない笑顔にやや心を乱されて落ち着かなかった。ただ、俺以上に鉄平は落ち着かなかったらしく、遠くから俺に向かって唸っているのが聞こえた。
「心配すんな、俺は蒼しかいらねーから」
そう言いながら、鉄平の髪もぐちゃぐちゃにしてやった。鉄平は少し迷惑そうに眉を寄せていたけれど、この関わりを好意的に捉えているらしく、ふっと微笑んでいてくれた。
これから、大垣さんが経営していたダイニングバーへ事情聴取に行く。そこの店員や常連たちに、大垣さんの最近の様子や交友関係、過去のストーカー騒動を詳しく聞く予定だ。警察からも何度も事情聴取されているはずなのに、今日のVDSの聴取にも好意的な返答をくれた。長年うちに所属していたから、何度も話は聞いていたのだと。
『心から信用できる会社よ、何かあったら頼るといいわって。本当に何度も聞いてます!』
電話に出てくれたスタッフさんからもそう言っていただいた。俺と蒼と田崎は、それを聞いて少し涙ぐんでしまった。それほど信用されているんだ。絶対に、真相を解明したいと思っている。
翼さんの無実を証明するためには、とにかく確固たるアリバイが必要だ。ただ、大垣さんの死亡推定時刻はまだ明らかになっていない。それどころか、亡くなった日もまだ特定されていない。行方不明になってすぐ動いていれば、その辺りははっきりしていたはずだ。だから、ここは警察の落ち度だとはっきり言える。それを突かれたくない警察に、あの人が入れ知恵をしたのだろう。
「蒼、永心の親父さんが絡んでいたら面倒だな。その時はどうする?」
「そうだなあ……申し訳ないけど、徹底的に調べ尽くして、失脚していただくしかないかなあ」
涼しい顔をして、結構なことを言い切ってくれた。俺が驚いて呆気に取られていると、厳しい表情で俺の方を見た。
「無実の人間に罪を着せることは、それくらいの代償を払うべきことだろ。大垣さんが、永心氏にそこまでさせるほどの何かを仕掛けていたのなら、話は違うかもしれないけどな……それは無いと思うから」
そうだろうとは俺も思う。そして、未だにわからない。永心氏と大垣さんは一体どこに接点があるのだろうか。飲食店を経営していると、付き合いで政治家と知り合うこともあるのかも知れない。でも、それくらいの付き合いでトラブルが起きたとしても、狙われるのは店の方であって、本人に攻撃を仕掛ける意味はあまり無いだろう。命を奪うよりは、もっと合理的に動く方法は、他にいくらでもあるだろうし。永心氏が無駄な攻撃を仕掛けるとは、到底思えない。だからこそ、今回の捜査を妨害している意図もわからない。その点がどうしてもスッキリさせたい部分ではある。
「こんにちは。VDSの鍵崎と申します。16時でケイさんとお約束させていただいてまして……」
大垣さんが経営していた店は、「Sarasvati」という。サラスヴァティ、インドの川の名前で、女神の名前でもある。東に伝わるにつれ、その名を変え、日本では弁財天と呼ばれる神でもある。学問や芸術の神であり、水を司る。大垣さんと翼さんは、芸術鑑賞が趣味で仲良くなったのだそうで、一緒に旅をしては御朱印帳にその足跡を残していくのを趣味にしていたのだそうだ。お店の名前は、翼さんと二人で考えたのだという。それほどに二人は仲が良かったらしい。
「あ、鍵崎さんと果貫さんと……翔平君ね。それから、パートナーの鉄平君。いらっしゃい。そこ、座っててくれる? みんなコーヒーでいいかしら?」
ケイさんは、ものすごく通りのいいハキハキとした声で一気にしゃべってしまうと、L字型のカウンターの奥にあるテーブル席に、俺たちを案内した。
店内は夜営業に向けて準備中で、テーブルを拭いたりモップをかけたりしているスタッフが数人いた。暖色系の暖かい色合いが目に優しく、センチネルが経営しているだけあって、照明も色味が優しくて控えめで、音楽も巨大なコーンが存在感を放つビンテージのスピーカーが、温もりのある音を鳴らしていてくれた。
「ケイさん、無礼を承知で単刀直入にお伺いしたいのですが、大垣さんが亡くなった日は、こちらに翼さんは来ましたか?」
ケイさんはコーヒーを一口含んで、喉を鳴らした。ぎゅっと眉根を寄せて、苦々しい顔をしたかと思うと、ゆっくりと口を開いた。
「来ましたよ。ランチの後の休憩時間に、晶とここで会う約束をしていたんです。この席で二人でパスタを食べながら話してました。翼が好きだったらしくて、喜ばせたいからって、晶が作ってあげてたんです。翼もすごく喜んで食べてましたよ。なんてことないナポリタンでしたけど」
そして、全員に断った後にタバコに火をつけた。ふーっと一つ煙を吐いたのを見計らって、俺は質問を続けた。
「ランチの後ってことは、今くらいの時間ですか?」
「そうね、そうだった。この時間しか空いてないから」
「二人が何の話をしていたのかはご存知ですか?」
「マメンツがどうのこうの言ってた気がします。マメンツは晶の今の彼が作ったものなんでしょ? あの子、発表がある度に自慢するからツールの名前だけは詳しいんです。翼にも自慢してるのかしらと思ってたんですけれど。今の彼と付き合い始めてから翼に会うのは初めてだって言ってたから」
翼さんはマメンツ作成の依頼は受けていたけど、それは電話での話だったらしい。引き渡しの日に、久しぶりに顔を合わせたのだそうだ。なるほど、と納得しかけていた時、翔平が横から口を挟んできた。
「あの、すみません、俺ちょっと気になってしまって……訊いてもいいですか?」
翔平が口を開くと、ケイさんはとても眩しいものを見るような顔をした。そして、穏やかに微笑むと、優しくコクンと頷いた。
「あの、晶さんには僕も少し前にお会いしました。すごく綺麗な方ですよね。それに身だしなみもきちんとされてますよね。母とここで会ったのなら、きちんとお化粧されてましたよね? 服も綺麗な服でしたよね?」
「もちろん。その日も普通に営業してたから仕事用の服だけどね。これよ。スタンドカラーのシャツに、黒いパンツ、エプロン、パンプスね。キチンとメイクして、気合い入ってたわよ。元彼に再会するんだから、当然よね」
そこまでしゃべって、ケイさんはあっ……と口に手を当てた。翔平にとっては翼さんは母親だ。元彼と言われても、返答に困るだろう。そこにいた全員がやや気まずい空気になったことを感じていた。どう次の会話を切り出そうか迷っていると、意を決したように、鉄平が口火を切った。話し始める前に、翔平の肩がピクリと動いたのが目に入った。
——手を繋いであげたんだな。やるな、鉄平。
俺がそれに気づいてふっと笑っていると、それを知りたくなったのか、蒼が俺の手を握ってきた。そこから俺の感情を読み取った蒼も、ふふっと笑った。
「あの、ちょっと先に聞いておきたいことがあるんです。翔平からじゃなくて、俺から聞かせてください」
ケイさんは、鉄平に向かっても眩しそうに微笑んで、首を縦に振っていた。
「おばさんがトランスジェンダーで性自認が男性だってことは知ってます。翔平がそれを知って、自分の出自について悩んでいて。ケイさんは、おばさんから妊娠することや出産することについて、何か聞いてますか? もちろん、翔平がおばさんに聞くべきことです。それはよくわかってます。でも、翔平はセンチネルのランクが高くて、予想以上の衝撃を受けるとすごい勢いで落ち込んでしまうんです。だから、先に少し知っておきたくて……」
「不思議なんでしょ? 男なのに女の体のまま生きてるのが。母親になったことも。それはねえ、一言で言うと、翼がとても変わってるってことなのよ」
「ど、どういうことですか? 変わってるって言うのは、トランスジェンダーのことですか? それとも……」
「いやいや、私の周りはトランスジェンダーもゲイもバイもたくさんいるから、そういう事じゃないわ。翼が変わってるのは、体調不良でもない限り、体が女でも一切気にしたことが無かったってところね。男の心を持って、女の体を持っている。だから、それがどうした? って感じだった」
ニコニコと話すケイさんを見て、翔平は驚きを隠せないようだった。確かに、翼さんは日常生活でトランスジェンダーであることを不便に思うことはあっても、不快に思うことは無かったと言っていたらしい。ただ、ここ数年は更年期に苦しめられていて、その時ばかりは体が女性であることを酷く嫌がっていたそうだ。実際、翔平がこれまでに耳にした翼さんの悩みは、全て更年期に関することだったらしい。それに気がついた翔平は、もう一段踏み込んだ質問をしてきた。
「あ、あの、あの……じゃあ、俺を産んだことを後悔したりしたとかは……産む行為って、男はするものじゃ無いじゃないですか…それをしたことも、何とも思ってないんですかね……」
ケイさんは、じっと翔平の顔を見ていた。その目は、翔平を通して翼さんを思い浮かべていた。何かを思い出している人は、視線がズレるからすぐにわかる。そして、ふっと視線を元に戻すと、翔平に向かって言い切った。
「流石にね、それは翼にしかわからないわよ。でも、晶が聞いた話は、ほぼ翔平君の自慢だったらしいわよ。あまりに羨ましいから、養子を迎えることにしてて良かったって言ってたくらいだから。悪い話を聞いたのなら、そんなふうには思わないでしょう?」
そう言って、翔平の顔に手を当てた。じっとその目を見つめながら、懐かしそうに目に涙を浮かべていた。
「晶と翼が別れたのは、晶が女性になる夢を諦められなかったからよ。翼は男性しか愛せない。そこに理由なんてないの。仕方なくお互いの幸せを願って二人は別れたの。だから、翼が晶を殺すことは絶対にない。そして、涼輔さんと出会って、翔平くんを産んだ。こんなに翼に似てる。笑顔は涼輔さんに似てるわね。それに、出産っていう行為自体もね、女でも嫌だったりする人もいるのよ。だってすごく大変なんだから。でも子供に会いたかったら、乗り越えるしかないじゃない? 翼も、あなたに会いたいからその道を選んだのよ。そこは深く考えなくていいんじゃないかしら。生まれてきて、愛されてる。それでいいのよ」
そう言って、にっこりと微笑んだ。翔平はケイさんの言葉を噛み締めるように、じっと一点を見つめたまま動かなかった。だんだん目に涙が溢れてきて、鉄平がそれを拭ってあげていた。
「あ、もう一つ言っておくわ。少し下世話な話なんだけど。相手が好きな人なのよ。気持ちよくなれるところを触られたら、気持ちよくなるわよ。神経なんだから。刺激すれば電気が走るの。そこはもう、翼と涼輔さんが抱き合いたいと思った時点で考える必要もないことよ。どう? これで疑問なくなったんじゃない?」
流していた涙がやや引っ込んだ感はあったが、言葉を反芻していた翔平は、「言われてみればそうかも」とこぼした。それを見て、ケイさんはニヤリと笑うと、「自分だって経験済みだったらわかるでしょ?」と笑っていた。本人はケラケラと笑っていたけれど、流石に事情聴取に来たメンバーは少し引いていた……。
「あ、ごめんなさい。そろそろ開店するわ。晶のお葬式の日は休むから、今日は営業するの。また何かあったら連絡してください」
そう言って、慌ただしく席を立とうとしていたケイさんは、翔平に近づくとぎゅっとハグをして、その後鉄平と二人をまとめて抱きしめた。
「生まれてきたからには、一生懸命生きて。パートナーと共に、目一杯幸せに暮らすのよ」
そういうと、「じゃあ、本当に時間だからごめんなさいね」と立ち去っていった。後ろ姿になると、涙を拭うように目を擦る姿が見えた。バックヤードに入る寸前に振り返ると、深々とお辞儀をして、こちらに向かって叫んできた。
「晶のこと、翼のこと、よろしくお願いします」
俺と蒼は立ち上がると、最敬礼をしてケイさんを見送った。頭を上げて、お互いに目を合わせると、ぎゅっと手を握り合って意識を合わせた。
——大垣晶殺害の犯人を、必ず見つけるぞ。
「よし、じゃあ戻るぞ。後は帰ってから永心達と……」
そう言っていると、田崎から着信が来た。俺はすぐに出ると、田崎が間髪を入れずに話し始めた。
『社長! 翼さんの容疑が晴れました! すぐに戻ってきてください!』
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