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第11話

 目を覚ますと、教室内は暗がりになっていた。甘い彼の匂いに、うっとりとまばたきをする。彼は起きていて、身じろぎする僕に相変わらず目もくれず、正面を向いて雑誌を読んでいた。身体にかかっているブレザーに気づく。こういう優しさが温かくてたまらない。起きなくてはならないのはわかっていたが、もう一度ブレザーを肩までかけて、瞼を閉じて大きく深呼吸した。佳純は何も言わない。遠くで時計の秒針の音がする。もっと、もっとゆっくりと進めとぼんやり祈る。外は相変わらず美しい緑に弾ける雨粒の音がする。雲で見えない、暮れかけの太陽の最後の明るさが淡く僕たちを包む。 「腕、痛くないの?」  おそらく、ずっとこの姿勢であろう彼の美しい顎を見つめながら、寝起きのぽやけた声で尋ねる。彼は目線をそのままになんとないことだと言うように、別に、と短く答えた。口元がゆるみ、腫れのひいた頬がほころんだ。  ずっとこのままいたら、彼も付き合ってくれるのだろうか。視界を遮り、彼の匂いをもう一度、身体の奥深くまで染みわたらせるように息を吸う。彼の匂いも、体温も、優しさも、これがないと、僕は生きていけない気がしている。  意を決して、わがままを言う身体にムチを打って起こす。 「もう暗いね、帰ろ」  僕は、彼のブレザーを肩にかけなおし、荷物の整理をし始める。後ろで佳純はまだ横になって雑誌を読み耽っている。彼も、僕と同じように、後ろ髪引かれる思いでいてくれたら、嬉しい。と、心の中で思い、ゆっくりとペンケースに一本一本筆記用具をつめていく。そして、カバンの奥底に折り畳み傘を隠しこみ、その上に机のものを重ねていく。  カバンのチャックを閉めるころに、佳純は、のっそりと身を起こした。大きく身体を伸ばしている背中についたゴミを、軽く払う。ワイシャツ越しに、また彼の熱い体温を感じて、このままこの広い背中にしがみつきたくなる衝動を抑え込み、ブレザーを彼の肩にかける。  昇降口まで一緒に歩いて、靴に履き替える。最近、一緒に行動するようになって、初めて彼が特進中の特別クラスに在籍する人だと知った。それに驚いて声をかけるが、彼は先ほどのようになんてことない、といったように、別に、と答えるのだった。一体何者なんだろう…と気になるが、たとえ佳純が何者であっても、彼は彼であり、僕が彼を求めている事実は変わらないのだ。彼が、別に、というならば、気にしないようにした。  大きいローファーに足をいれた佳純は、のろまの僕をちゃんと待っていてくれる。早足で彼の隣に並ぶとゆっくりと歩を進める。軒先で佳純が、身体に見合った大きい傘を開こうとしたときに、僕はおずおずと話しかけた。 「佳純、今日も傘…忘れちゃった」  彼は、僕を瞳にとらえてから、その傘をぱっと開かせた。やや僕に傾けてくれる。その中に僕は飛び込み、彼に身体を寄せて、雨の中を歩いた。  朝からの雨で、どうやって登校したのか、なんてことを彼は聞いてこない。本当は、傘を忘れたなんていう嘘は見破っているかもしれない。知ってか知らずか、彼はこの大きな傘のもとで僕を享受してくれる。彼一人であれば丁度よい大きい傘も僕が入れば、少し小さい。だから、肩をぶつけながら歩くのだ。 「佳純、濡れちゃうからもっと、そっちに傘を寄せて」  何度も、そう伝えるのに彼は、僕を見もせず、無視するように自身の右肩を濡らすのだ。だから、もっと身体を寄せたくなる。それは、あくまで、傘を貸してくれている彼が濡れないように、だ。  なんてわがままで意地悪なんだろう、と自分でもわかっている。でも、無言で甘やかしてくれる彼にもっと甘えたくてしかたないのだ。  雨粒はさらに大きさを増したようで、傘を鳴らす音がさらに大きくなった。 「佳純」  その音に紛れるように、つぶやく。 「君がいないと、僕…」  ぱしゃ、と小さな水たまりを踏んでしまい、靴下がじわじわと濡れていくのを感じる。その不快さだって、彼と肩を寄せ合えば、気にならないのだ。 「いつも、ありがとう」  言い出しそうだった言葉を寸出で飲み込み、違う思いを伝える。この思いだって、本心なのだから、良いだろう。きっと、雨音で佳純には聞こえていないだろう。  数歩、足を進めたところで、左肩に彼の手がかかり、ぐっと身を引き寄せられた。 「濡れるぞ」  その手はすぐに戻っていってしまったが、一瞬の力強さに、求められているような錯覚を覚えた。頬がさらに紅潮するのを自覚するほど火照る。 「うん…」  彼が持つ傘の柄に、僕も手をかける。誰にもわからないように、彼の人差し指に小指をかける。  もっと、寮が遠ければ良いのに。彼との帰り道は、いつもあっという間だ。僕を寮の軒先まで送ると、彼は少し僕を見つめてから、踵を返す。 「佳純、また明日、ね」  声をかけると、彼は振り返り、小さく手をあげ、すぐに来た道を戻っていく。その大きな傘が雨で見えなくなるまで、僕は見送る。このじんわりと、寂しさが心に広がる時間が嫌いだけど、それと同じくらい佳純の存在が心の中で大きくなっている気がしてしまう。  そうした焦がれるような日々を、確実に一日一日、佳純と過ごしていった。彼と過ごすゆるやかな時間が好きだった。  一つ残念だったことは、世間では梅雨明けが発表されていたことだ。  二人の教室を彩っていたアジサイは、すっかりを花を落としていた。もう、七月がやってこようとしていた。それに合わせて、学生にとっての大きなイベントがやってくるのだ。 「ここ、わかんないよ~佳純、教えてよ~」  机にうなだれながら、隣で相変わらずもくもくと、何が楽しいのか成人向け雑誌を読み耽る佳純に声をかける。佳純は、寝返りを打ち、僕に背中を向けた。 「ていうか、なんで佳純は勉強しないの?!テスト、今週だよ!一緒に勉強しようよ!」  彼のワイシャツを引っ張りながら、やいやい騒ぐと彼は、呆れ顔で振り返る。 「勉強しなくても、テストは解けるだろ」  心から、なぜ勉強するんだ、と聞いているような顔に、余計いらだちを感じ、彼の肩をぽこすかと叩く。僕は凡人なんだ~努力しないと成績はもらえないんだ~と嘆くと、彼はもとの態勢に戻ってしまった。仕方なく、僕だけめそめそしながらも、勉強に向かう。 「七海」  ふと意識が戻る。どうやら、かなり没頭して勉強できていたようで、辺りがすっかり暗くなっていることに気づかなかった。彼が珍しく先に荷物の準備を終わらせ、目の前で待っている。 「あ、ご、ごめん…もうこんな時間か、ちょっと待ってね」  慌てて教科書やペンケースを仕舞い込み、席を立とうとしたときに、彼がひらりと一枚の紙を僕の目の前にある机に落とした。それを手に取り、見るとどうやら映画の券のようだ。 「これ…」  数年前に出版された小説の映像化されたものだ。その作者が好きで、中学生のころからずっと読んでいる作品のひとつだ。その映画が再来月公開を予定していた。 「試写会の招待券、行くか?」  チケットから、目線をあげると彼は僕の返事を待っていた。もう一度チケットに目をやると、日付は今週末だ。たまたまなのか、テスト明けの日曜日だ。 「い、いく…絶対、いく、いきたい!」  ぎゅ、とチケットを握りしめて、彼を見上げると、はにかむようにゆるく微笑んでいた。それを隠すように佳純は一人で教室のドアへと足を進める。 「テスト、頑張れよ」  ひらひらと手を振っていた。急いで彼の背中を追いかけて、身体をぶつけた。  休み時間、彼の隣でよくこの本を読んだ。映像化される話もした。もしかしたら、彼はそれを覚えていてくれたのではないか。僕の話を聴いて、心にとめておいてくれたのではないか、と思うと、チケットを握りしめた指先が震えるほど胸がいっぱいになり、つい泣きそうになった。  佳純の隣に並び、覗き込むように見つめていると、ふと目が合う。えへへ、とゆるみきった笑顔を見せると、彼はやや眉を下げて、笑った。 「この映画、隣で機嫌よく見られるように、勉強教えてねっ」 「がんばれ」  どういうこと?!とすねると、彼に頬を軽くつねられた。その手をつなぎ留め、キスできたらどんなに良いだろう、ちらと考えてしまったことを心の奥底にしまいこみ、僕は彼と笑いあった。

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