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第18話

 たった一人で臨む発情期は、不安と苦痛でいっぱいだった。寂しくてつらくてしかたない僕を救ってくれたのは、心の底から待ち焦がれていたアルファだった。  いつもは七日間あれば、確実に落ち着くはずの発情期は、今回は長かった。収まったかと思うと、彼が隣で抱きしめてくれる体温を自覚してしまうと、また身体の奥でオメガが開花してしまう。ずっとその繰り返しだった。それでも、僕は良いとこっそり思っていたのだ。だって、佳純が僕を甘やかしてくれたから。ちゃんとわかっていたんだ。ダメだって。ちゃんと、一人で立って、一人で耐えて、一人で進まないと、と。でも、佳純は僕のそうした決意を感じ取ると、きつく抱きしめ、簡単に発情させてしまう。あのマスカットのような爽やかで甘みの強い匂いに包まれると、僕はとろけて何も感がられなくなってしまうのだ。  二週間ほど、二人で、この隔離シェルターに隠れて、甘い時間を過ごしていた時に、学校の話をすると、もう夏休みだと笑われてしまった。そんなに時間が経っていたことに驚いたが、奥でうずく僕のオメガの部分は、すっかり佳純色に染められてしまったことを思うと、月日の流れを感じざるを得ず、顔が熱くなってしまうのだ。  今日も、どちらが最初に仕掛けたのかわからないが、抱き着いて匂いを分け合って、お互い貪りあった。彼の胸元に顔をよせ、お互いじっと抱きしめあっているときに、佳純がつぶやくように尋ねてきた。 「夏休み、どうすんの」  僕の毛先を長い指先で遊んでいる彼をちらりと見やり、その優しい眼差しに満足しながら、もう一度胸元に顔を戻す。んー、と答えようとすると、声がかすれており、少し咳払いをする。さっきまでの情事を物語っており、恥ずかしくなった。毎日、欠かさず数回は交わっているにも関わらず、いくら第二の性のせいだとはわかっていても、まだ恥ずかしさはあるのだ。 「実家には帰ろうかな、と思ってるけど…」  去年の夏は、数日実家に帰宅した。母は、友達と遊びつくして帰ってこなくても良いのにと小言を言っていたが、久々の息子との対面を喜んでいたようで、毎日の食事は好物ばかりが並んだ。  質問の主からの返答がなく、顔をあげると、じ、と彼は僕を見つめていた。その青にも紫にも見える深い色の瞳に、心臓が高鳴る。誘われるように、近づき、うっとりと口づけをした。  佳純が僕の唇に音を立てて吸い付き離れると、熱い吐息と共に囁く。 「遊びにくるか?」 「行くっ」  どこに行くのかもわからなかったが、僕は身を起こし、即答してしまった。佳純は目を少し見開いたあと、呆れたように、ふっと笑い、それを誤魔化すように、僕を抱き寄せた。  どこだってよかった。佳純と一緒なら。頬を彼の胸板につけると、とくとくと心音が聞こえて、甘い匂いが鼻腔いっぱいに広がる。瞼を降ろすと、世界には僕たち二人だけの気がして、多幸感に睫毛が震えた。  次の日には荷物をまとめ、おそらく佳純が呼んでいたのだろうタクシーに乗り込み、車に数時間ゆられて山の中の小さなコテージについた。外から見ると周囲の木々がたくましすぎて小さく見えただけであったことを、中に入ったときに気づいた。二階建てのそこは、ヒノキの匂いが満ちており、窓は大きくガラス張りで広々としていた。窓を開けると、蒸していた空気があっという間に快適な室温になり、クーラーがいらないことがよくわかった。何も言われずに連れてこられた、この別荘はどうやら、佳純の持ち家らしい。一体どうして高校生が持ち家を持っているのか聞こうとしたが、すぐにやめた。僕らが通う桐峰学園では、その辺の公立高校に通うような一般的な学生が僕を含めごくごくわずかであることを思い出したからだ。 「ここ、すごく良いところだね」  窓を開けて、サンデッキにでて、深呼吸をする。深く空気を吸うと、森の柔らかい匂いが身体の隅々に生きわたり、大きく伸びをする。ここ数週間、あの小さな世界で情に塗れる幸せな時間を過ごしていた身体は変に凝り固まっているようだった。そんな僕を気遣ってか、僕たち以外の人間の気配のない、小鳥のさえずりと木々のざわめきしかない空間に連れてきてくれた佳純に感謝していた。振り返ると、室内から佳純は微笑み、長い脚で近づいてきた。  サンデッキをぐるりと囲う柵に手をかけ、また身を乗り出して深呼吸をする。なんて心地よいんだろう。肌に森の湿度がしみる気がした。風が木の葉を揺らし、それに紛れて、大好きな甘い匂いが漂う。振り返ろうとしたら、柵に置いた手の脇に大きな手のひらがおかれる。後ろには、彼の体温を感じた。佳純は、僕のつむじで大きく深呼吸しているようだった。その気配に体温が上昇し、今すぐ抱きしめてほしくなった。振り返ると、もう彼は僕に背を向けて、室内に戻っていってしまった。は、と漏れた吐息には熱がこもっていて、それを周囲の木々が風と共に連れ去っていってくれた。  そのあと、この建物の中を簡単に案内され、彼がもってくれた僕の荷物は、客間に置かれた。机と椅子があり、スタンドライトがベットサイズの机に置いてあり、その横には、シングルサイズのベットがひとつあるだけだった。枕もとにある窓からは、美しい緑の木々が輝いていた。 「じゃあ、あとは好きにしてくれていいから」  隣にいる彼を振り返り、声に出そうか悩んでいると、佳純は柔く微笑み、頭を撫でてきた。そうして、静かに扉をしめ、出て行ってしまう。シングルサイズのベットと閉められたドアを何度も見返した。  てっきり、また彼と一緒に過ごせると思っていた、あさましい自分が急に恥ずかしくなってしまった。そうだ、彼だって、アルファとして持ち、生まれたもので僕を助けてくれたボランティアの活動のひとつでしかないのだ。しかし、もっと甘やかな関係を抱き始めていた僕は、一人勘違いをしていたのかと大きく落胆すると同時に、恥ずかしさで指先が焦げるようだった。落ち着こうとベットに座りこむが、気持ちは落ち着かず、ふわふわの枕を、ぼすんと叩いた。優しい柔軟剤の匂いがして、余計に恥ずかしくなった。  暖炉のあるリビングに行くと、彼はソファに座り、英語の文献を読んでいた。長い脚を組み、口元に手をあて難しい顔をしている彼は知的で魅力的だった。声をかけようと思ったがもったいなく思い、しばらくその姿に見惚れていると、残念ながら彼が僕に気づいてしまい、最近は当たり前のようになってしまった微笑みをむけられる。僕はその瞳に促されるままに隣に腰掛ける。彼は読書に熱中しているらしく、僕は外を見やる。大きな樹木と愛らしい小鳥の囁き声、うっすらとまだ傷跡が残る右頬を柔く撫でる風に瞳を閉じた。  次に、瞼を開けたときは、少しひんやりとする風が通っていた。まどろみの中、目をさすると身体には柔らかい布がかかっていて、隣の彼を見上げると相変わらず目線は書物に向かっていた。ゆっくりと穏やかに流れる二人だけの時間が心地よく、僕は毛布をかけなおし、彼の肩に甘えてゆっくりと深呼吸した。ヒノキの匂いと彼の甘い匂いが混ざって、僕の脳の固まった部分をほぐしていくのを感じた。  心の中で、彼の名前を唱えた。それだけで、身体の奥がじわ、と温かくなるのがわかった。もう一度、試すように名前を心の中で唱える。すると、髪の毛をさらりと撫でられ、ぽんぽんと優しく包まれた。僕の心の声が、聞こえてしまったのかもしれないと思い、心の奥がじりじりと焦がれ、もう一度毛布を口元まで隠した。

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