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第42話

「な、に…」  佳純は力強く、僕の手から自分の腕を引き抜き、袖を直した。 「佳純…どういうこと…」  先ほど目にした彼の腕が、頭の中にこびりついている。あれは、注射痕だった。それも、一度や二度ではない。 「ねえ…佳純…」  身体の前で腕組みをするように左腕を隠し、顔をそらす佳純の腕にそっと触れる。ぎゅっと目をつむってから、佳純は僕に向き直り、微笑んだ。 「疲れてたから、栄養剤を点滴してるだけだ」  その笑顔は、力なくて、顔色は悪く、クマも濃く、とても栄養剤だとは言い訳がつかなかった。目の奥に鈍痛が走り、鼓動は嫌に速い。手に汗をかいていて、ぎゅ、と拳を握りしめる。 「僕じゃ、佳純と…対等な立場でいられないの…?」  喉がつまり、うまく言葉にできたかわからなかったが、佳純が眉間に皺を深く刻み、僕に振り向いた。 「佳純が、僕を守ってくれるように…僕も、佳純の力になりたいのに…」  佳純が楽しいときは一緒に笑いたい。つらいときは一緒に悩みたい。悲しいときは一緒に泣きたい。  そう思うのは、わがままなのだろうか。  唇を噛み締めて、涙をこらえる。佳純は苦し気に奥歯を食いしばる。 「違う、そうじゃない…っ」  低く唸るように吐き出すと、佳純は俯いて、小さく震えていた。まるで、怯えた子犬のように見えて、胸が締め付けられるように強く痛む。 「佳純…」  僕、ずっと一緒にいたいよ…  声になりそうな言葉を必死に飲み込んだ。  リハビリは順調で、前のような恋人らしい二人になれる希望だって夢物語ではないと思っている。しかし、オメガとして不完全であることに変わりはなく、その言葉を堂々と相手に伝えられるほど、僕は僕に自信がなかった。  自分を抱きしめるようにうずくまる大きな彼を抱きしめた。髪の毛から、馴染みのシャンプーの香りしか感じられない。彼の匂いが、嗅ぎ取れない。  口を開くと、情けなくも唇が震えていて、吐息が漏れる。ゆっくりと呼吸を整えてから声にする。 「もっと早くに、ここを出ていけばよかったね…」  ごめんね…、と彼の固い髪の毛に頬を当てながらつぶやくと、涙がそこに浸み込んでいった。僕の言葉に、佳純は身体をぴくりと動かし、弱々しく、僕の服を握りしめた。 「違う…俺は…」  幾分か細くなってしまった腕に優しく抱きしめられ、体温を分かち合う。呼吸の乱れた彼の背中や頭を愛おしく撫でる。彼が苦し気に僕の名前を囁くと、身体の奥から感情があふれて、より強く抱き寄せる。ずっと、こうしていたかった。  お互いの呼吸が落ち着いた頃に、僕は、そっと身体を離し、俯いている彼の顔に手を当てた。頬を包み、目線をあわせられるように持ち上げる。目の下を親指で撫でると、佳純は今にも泣きそうに顔をゆがめた。 「その腕の痕のこと…、最後のお願いだから、教えて…」  最後、という言葉を聞くと、佳純は瞳を澱ませた。冷えた手のひらが僕の手首を淡くつかみ、手のひらに頬ずりをする。愛おしさが増すのに、胸が苦しい。 「最後なんて言うな…」  震える熱い吐息と共に手のひらで囁かれれば、脳の奥が脈打ち大きく揺れる。視界がにじんで、彼の表情はよく見えない。もう一度、教えて、と小さく伝えると、彼は目を伏せて、僕の手のひらに唇を押し付ける。しばらく、じ、と見つめていると、彼は渋々話し出した。 「…俺が、作った抑制剤だ…」  凛太郎から製薬会社の御曹司だということは聞いていた。そして、今思い返せば、彼は校外で読んでいる書物は英語やドイツ語の医療情報のものだった。  かすれて、力ない彼の声に、喉の奥がつぶれそうなほど苦しいが、その先を促すと、時間を使いながらも彼は答えてくれた。 「……、アルファ性を…抑える薬だ…」 「え…?」  彼がこんなにも苦悩しながらも話していることから、それがただ、発情を抑えるような抑制剤ではないのか明確だった。ぐらぐら、と身体が揺れている気がする。脈打つ心臓が痛むが、彼の言葉をじっと待つしか僕にはできない。 「俺のアルファ性が、少しでも抑えられれば……七海を苦しませずに済む…」  だから、か。抱きしめても、僕の大好きな彼の匂いがしない。  今、こうして彼とこんなにも至近距離でいても、身体に嫌悪感が生まれないのは、僕の容態が改善されたのではなく、彼自身が、身体を変化させているからなのだ。それも、承認の降りていないような自作の実験的な薬剤を強制的に使って。  顔に添えていた手から力が抜けて、降ろしてしまうが、佳純が大きな手のひらで包み込んでいた。衝撃に頭がついていかず、目の焦点が彼の瞳に合わせられずに細かく揺れている。それでも、佳純は目線を僕にあわせようとしている。 「どうして…アルファは、恵まれた性なのに…」  周りから認められ、羨望される性なのに…。どうして…。小さくつぶやくと、佳純は苦しんだ。 「七海を苦しめるものならば、そんなものは、必要ない…」  ばらばら、と涙が止まらない。  自分のせいで、彼の持って生まれた素晴らしいものを傷つけているのだと考えると、自分が嫌でたまらなくなる。僕なんかの、オメガなんかのために、佳純が、この優秀なアルファが… 「ご、めん…僕が……僕が…」  今度は、僕が力なくその場にうずくまってしまった。呼吸が大きく乱れ、嗚咽が止まらない。身体はがたがたと震えて、体温も冷たい。  自分が、幸福を感じていた瞬間は、すべて、彼の苦しみの上に成り立っていたのかと思うと、情けなくて悲しくて、消えてしまいたくなった。  もっと早くに、佳純を解放してあげていれば、こんなことにはならなかった。自分なんか、ずっとあの牢獄にいればよかったんだ。と、初めて強く思った。そうか、あの山奥の屋敷で二人のアルファに凌辱されていたのは、恵まれ続けてきた僕への正当な神様からの仕打ちだったんだ。それなのに、佳純に救われて、いい気になっていたから、僕に降りかかるはずだった不幸が、すべて佳純に降りかかってしまったんだ。 「ごめん…ごめんね、かす、み…僕が…、ずっと、…」 「七海っ!」  肩を強い力で握られ、揺さぶられる。初めて聞く彼の大きな声に驚いて、目を見開く。はら、と涙が一粒こぼれると、彼の瞳とようやく交わる。 「俺にとって、アルファ性を失うことは何も怖くない」  まっすぐと強い意志をもって見つめてくる彼の瞳に引き込まれる。一言ずつ丁寧に言葉を選び、しっかりと思いを込める佳純を見つめる。 「俺にとって一番恐ろしいことは、七海を失うことだ…」  優しい手つきで、ゆっくりと僕は佳純の胸元に引き込まれる。 「七海の匂いがわからなくなることはつらかった…それでも、俺は、いいんだ…」  薬の副作用かわからないが、彼には僕のオメガの匂いが届いていないらしい。僕に、彼の匂いが届いていないのと同じなのだと、頭を巡らす。彼の胸元は温かく、心地よい心音が聞こえる。強張っていた身体から力が抜けていくのがわかった。 「七海が、俺の隣で、微笑んでくれるなら…、それだけでいいんだ…」  骨が軋むほど、さらに力強く抱きしめられ、彼の苦しいほどの思いが全身に伝わる。読み取れない佳純の気持ちに、久しぶりに触れられて爪先が震えている。こんなにも、求めてもらえていたことに、全身が喜んでいる。 「俺に出来ることなら、なんだってする」  すべての感情を込めるように名前を囁かれて、うなじがじりじりと焦げ付くように熱かった。 「バカ…佳純のバカ…」  背中に手を回し、力を込めてセーターを握りしめて縋る。胸元に顔を押し付けると良質なセーターは僕の涙を弾く。それでもお構いなしに、押し付けて、バカだと責めた。小さな頭に大きな手のひらがあてがわれて、壊れ物のように優しくおそるおそる撫でられる。 「俺は自分がどの性であっても、七海を見つけて、七海を好きになってた…」 「佳純…」 「七海…好きだ…」  かすかに、果物のような豊潤で爽やかな甘みのある匂いが漂った気がした。彼の胸元に顔を押し付けたまま、好きだと囁いたが心音に飲み込まれてしまった。

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