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【番外小話】欠けて繋いで新しく
爽やかに晴れた空は、どこまでも高く青く澄んでいる。石畳の隙間を縫って生えてきた雑草をあらかたむしり終えると、ハウはひと休み入れようと思い、手を洗った。
大きな水瓶の隣には低い木の棚がある。その棚と壁との間に、白い布にくるんだ小さな包みを隠すように置いていた。ごみではない。ただ、とても壊れやすいものだ。
ハウは秘密の宝箱でも開けるように、そうっと包みを開いた。中に入っているかけらがぶつかり合い、がちゃがちゃと乾いた瓦礫のような音を立てた。
大小さまざまな陶片を、ハウはずっと捨てられなかった。古臭い陶器の水差しは、把手と分厚い底こそ残ったけれど、胴体部分が粉々に砕けてしまった。植木鉢になら再利用できるだろうが、水を汲むのはもう無理だ。だったら新しいものを買ってくれば済む話なのだが、ハウはそれができずにいる。
割れた水差しが格別貴重なお宝だったわけではない。素朴な陶器だった。市に出かければ、もっと新しくて気の利いた水差しがいくらでも見つかる。
神殿の主人であるスヴェルには、好きなものを買ってよいと言われている。しかし、いくらまめに市に足を運んでも、どんな逸品を目にしても、ハウにはしっくりこない。派手さはないが使い込まれた器のかけらは、割れてもなお飴色の釉薬が艶めいていて美しい。新しい器を選ぶのが、裏切りのように思えてしまう。
寝ている間に優しい魔法使いがやってきて、元通りに直してくれたらいいのに。そんなおとぎ話のようなことを、ハウはとりとめもなく考えていた。
困ってないけど地味に悩んでいる、とユールに打ち明けたところ、「修復ができる職人に相談してみたらどうだ?」と提案された。なんでも、ユールの家の近くには、割れた器を修復してくれる店があるらしい。
ハウはちょっと半信半疑だ。
「本当に直せるの?」
「さすがに魔法みたいにはいかねえけどな、『金継ぎ』っていうんだと。欠けた部分を器用に繋いで、また使えるようにしてくれる技術だよ。母ちゃんが昔、父ちゃんにもらった盃を割っちゃって、修理に出したんだ。お気に入りは、割れても欠けてもお気に入りなんだから、って。今でも大事にしてるよ」
ユールの母の気持ちが、ハウにも分かる気がする。
道具として役に立たない形になっても、ハウはやっぱり、昔から使ってきた水差しが捨てられない。代々の神殿守りが使い継いできた調度品。古臭くて燻んだ色をしていて、華美さはいっさいないが、あの水差しでなくてはダメなのだ。それをお気に入りと呼ぶのは少し違う気もするが、使えないから終わりと切り捨てられるものではない。ただの道具というよりも、ハウにとっては、もはや体の一部といってもいいものだった。
午後のお勤めがひと段落したあと、さっそくユールにその店まで案内してもらった。
「ほう、スリップウェアか。赤の島の作陶だな。島でとれる赤い粘土を捏ねて作陶するんだ。おや、うわぐすりには植物の灰を混ぜてるね。古いが確かな逸品だよ。大事にされてきたんだねえ」
店にいた老職人は、ふさふさの白い眉毛をひょいと上げて、感心したように水差しを検分した。
「土の色を生かした器は、金が悪目立ちしなくて良い味が出るものだよ。この水差しなら厚みも充分だから、しっかり接着できるだろう。胴体の部分は、こちらで相応の材料を用意して補っておくよ。問題は仕上げだね。気になるようであれば、消 し金 にしようか?」
「消し金……?」
なんのことだろうか。
ハウは首を傾げる。聞き慣れぬ言葉だった。
「うちでは、島の森でとれる漆と、外の島から輸入する金属粉を使って修復するんだがね。消し金にすると磨きの工程が省けるから、早く仕上げられるんだ。だが、わしとしては……こういう大事に扱われてきたものには、ひと手間かけてあげたいねえ。以前と寸分たがわぬ姿に戻すことはできないが、装いも新たに再出発させることならできる。傷があるのも、この水差しが積み上げてきた歴史だ。次の世代へ譲り渡す楽しみができるだろう? わしらがやってるのは、そういう仕事さ」
情感豊かな語り口には、職人としての充実した経験がこもっている。このひとになら、水差しを預けてみたい。やりとりを静かに見守っていたユールも、興味深そうに耳を傾けている。
ハウとしては、愛着のある水差しに最もふさわしい手法を選びたかった。修復費用の安さで選ぶなら漆仕上げ一択なのだが、実際に修復された器を並べてもらうと、やはり金色の輝きは捨てがたい。なにより水差しの渋い土色にマッチする。悩むハウに老職人が気を利かせて、修復に使う金の粉を見せてくれた。自由気ままにきらめく黄金色は、ハウの大事な天狼スヴェルの瞳を彷彿とさせる。
見ているうちに、もうこれしかないと腹を括った。
「えっと、磨きの工程も込みでお願いしたいのですが、……少しお勉強してもらえます?」
「そうだねえ。じゃあ、こんなんでどうだい?」
老職人が、そろばんをはじく。ハウが小さく唸った。
「もうちょっとだけ……」
「うーん、じゃあ、このくらい」
「あとすこし……」
眉をぴくぴくさせる老職人との交渉をどうにか終えて、ハウとユールは街の中心広場へ向かった。
広場に近づくにつれて、浮き立つような祝祭の音楽が流れてくる。
今日は緑の島で一年に一度だけ巡ってくる祭日であり、太陽が沈まない夜だ。
スヴェルは天に昇りながら太陽の巡りを調整していて、一昼夜の間、ずっと不在の予定である。何かあれば駆けつけると言っていたが、祭りの場に現れるような真似はしないだろう。草食の性を持つ島民も多く集まるこの夜に、いくら天狼といえど狼が一匹でふらふらしていては、彼らを無駄に怯えさせてしまう。恐怖を与えるのはスヴェルとて本望ではないはずだ。
「いい職人さんだったろ? 仕上がり、楽しみだな」
「うん。サービスしてもらっちゃった」
「あのじいさん、金継ぎの教室も開いてるらしいぜ。予定があえば、ハウも通ってみたら?」
「いやぁ、そこまでは。神殿を空けると、スヴェル様にも悪いし」
新しい知識を取り入れるのはいいことだとハウも思う。今まで見ていた世界が、さらに輝きを増して見えるからだ。
「おれはいいと思うけどな。ハウの好きなものが増えたら、スヴェル様も喜ぶんじゃないか?」
「そうなのかな……。スヴェル様がね、言ってたんだ。私が傷つかなくて済むように島を変えていきたい、って。スヴェル様の重荷を増やすようなことはしてほしくないんだけどね。でも、すごく嬉しかった」
「そっか〜。ハウ、めちゃくちゃ愛されてんなぁ!」
ユールがくしゃくしゃとハウの頭を撫でた。自分のことのように嬉しそうにしている。
島の守護神に愛されているなどと吹聴して回るつもりはない。少し前までのハウであれば、自分に自信が持てず、信じようとしなかっただろう。胸の内が以前よりも温かく感じるのは、薬蜜の治療効果だけでなく、スヴェルとの確かな心の繋がりが生まれたためだと思っている。
空が菫色に染まりはじめると、街の中心の広場でかがり火が焚かれた。
太陽が沈まない収穫祭の日は、薄暮の空の下、島の人々が一晩中語り明かす日でもある。流れ楽士が弦楽器を奏で歌い、若者たちは意中の子を踊りに誘う。みなどこか、羽が生えたように足取りが軽い。
祭りの日にしか食べれない料理を出す屋台は特に賑わっていて、常においしそうな香りが漂ってくる。
ハウとユールは屋台で新鮮な果実水をもらった。二人とも酒より甘味が好きだ。ひと口飲めば、爽やかな甘さが口の中に広がる。かがり火の明かりから離れたベンチに仲良く並んで腰を下ろし、ハウとユールは祭りの風景をのんびりと眺めていた。
「なあ、ハウ」
「ん?」
「おまえ、やっぱり前より顔が明るくなったよな」
「えっ。そ、そうかな?」
「あーあ、おれも結婚したくなってきたー!」
「結婚って」
なにげなく言うユールは、本当に優しい。騒がせて迷惑をかけてしまったことを根に持ったりもしない。今も昔も、心からハウの境遇を気にかけてくれている。
ヤブノウサギ族の女の子が、ハウたちのすぐそばを通りがかった。用があるわけでもないのに、先ほどから妙に近くを行ったり来たりしている。そわそわとした様子でユールのことを見つめては、ぱっと逃げるようにいなくなり、また戻ってくるのだ。
『気は優しくて力持ち』を体現しているユールは、自分がわりとモテていることに気づいていない。
家業のパン屋の仕事に情熱を注いでいて、普段は仕事一筋。結婚だの適齢期だのと言っていても、実際は余所見をする余裕がないのだ。そういうところも彼の魅力なのだが、このままではモテ期を逃すのではないかと、ハウは密かに心配している。
「ユールなら引く手数多だと思うけど」
「おい。ハウ、適当に言ってないか?」
「まさか。今だってモテてるのに気づいてないよね?」
「あのなあ。モテてるって言われてほいほい信じるほど、おれはお人よしじゃないぞ」
「はいはーい! じゃあ、僕なんてどうですかー?」
明るい声が唐突に間に割り込んだ。後ろから肩をぽんと叩かれて振り向くと、ふわふわとした金の髪が揺れている。
「フィン様。こんばんは」
「ハウちゃん元気そうだねえ。よかったよかった」
きらきらしい蝶は、華奢な腕でハウに抱きつき、むにむにとほっぺを揉んだ。蝶族特有の軽い羽衣がひらひらと舞う。
華やかな香りがハウの鼻腔をくすぐるが、それがフィンの衣から漂うのか、それとも肌からなのか、分からない。ひょっとしたら呼気から溢れ出ているのかもなどと想像したが、ほんのりと白葡萄酒の匂いも混ざっている。どうやらフィンは、ほろ酔いらしかった。力の加減ができないらしく、じわりじわりとハウへの抱擁が強くなる。
一瞬、青い空と花畑が見えかけて、ハウは慌てて抱擁を振りほどき、顔を上げた。
「フィン様も、お変わりなく」
「えへへ〜。『こんにちは』なのか『こんばんは』なのか、僕わかんなくなってきたよぉ。あっ、そうそう。そこの鹿くん〜、僕と踊らなぁい?」
極上の笑みを浮かべたフィンが、ユールに手を差し出した。祝祭の踊りへの誘いだ。ユールの表情がぴしりと凍りつく。
「勘弁してください…」
「なんでだよう!」
すっかり怯えたユールがぷるぷると震える。ハーブを愛するパン職人のユールは、体こそ大柄だが、中身はけっこう繊細なのだ。
フィンは腰に手を当て、ぷんとむくれた。
「このフィン様のどこが不満なのさあ! 言ってみな! ほら、怒んないから、言ってみろって!」
「お、おれ、怖いの苦手なんです。フィン様といたら、怖くてちびる……」
「ちび……? ちょっと待って、新しい扉開きそう。大の男が僕のせいで漏らす姿かぁ──……んふふっ、あり寄りのありだね」
フィンの独り言に、ユールがどん引きしている。
「やべえ。あのひと、すごく不穏なこと言ってる。おれ消えたい、今すぐ消えたい」
「ユール、これはもう、一回くらい付き合ってみたらどうだろう?」
健気に秋波を送っていたノウサギ女子には悪いが、収穫祭の日は狭い島内で多くのカップルが誕生する恋の季節だ。「良い恋ができるかもよ」とハウは友人の背を押したが、ユールは頭を抱えたまま虚ろな表情になってしまった。自慢の鹿角も心なしか縮んで見える。
「や、やめてくれ、考えただけでしんどい。鹿族の中でもおれの心臓はとびきり小さいんだ」
「じゃあ僕がその心臓でっかくしてあげるよぉ!」
「おれは小者でいたいんですよ、蝶族は専門外…」
「いいじゃん、新鮮で! 初めてづくしだね? 君を幸せにできる予感!!」
わくわくした顔で、フィンはユールの二の腕に巻きついた。さりげなく筋肉のつき方を確かめている。
「おおー、良い体してる〜」
「ヒッ!?」
ユールのつぶらな瞳が潤みだす。今のところ一方通行感が激しいけれど、時間をかければ落ち着いて話ができるかもしれない。案外悪くない組み合わせだと思うが、フィンはひとを振り回すのが上手いから、ユールの苦労は増大するだろう。
ハウは少し遠い目をして友を見つめた。
ユールは恋愛小説が好きだ。これは母ちゃんの本なんだと言いながら、実はがっつり愛読しているのを、ハウは横目で何度も見た。気は優しくて力持ちで、そしてロマンチストなのだ。ひと夏の恋くらい、してもいいのではないか。相手がフィンだとしても、ユールならなんとか立ち直るはずだ。
ハウは菫色の空を仰ぎ、手を合わせた。
「新しい世界を知るのは楽しいと思うよ……ユールに太陽の祝福がありますように」
「おまっ、ハウ! このやろう! おれを見捨てるのか!?」
非力な蝶が相手では、いくら力持ちのユールでも抵抗しきれない。その悲痛な叫びに呼応するように、上空からスヴェルが竜巻の如く降ってきた。
島の守護神の登場に、一瞬、広場がしんと静まり返る。
狼姿から人型に戻ったスヴェルは、ユールの襟首をむんずと掴み上げた。
「貴様、やはりハウのことを──」
凶悪な面相をしたスヴェルの口から、鋭い犬歯が見え隠れする。島で唯一の狼の牙に、草食の性を持つものは恐怖で固まるしかない。
「あっ、あっ、違うんです違うんです!」
はわわわと口から泡を飛ばして、ユールが青ざめる。あらぬ嫌疑をかけられた友人の姿はあまりにも不憫だ。ハウはちょいちょいとスヴェルの袖を引いた。
「スヴェル様、あっちに美味しいケーキの屋台があるんです。お腹ぺこぺこで、もう我慢できません。一緒に食べに行きましょ?」
「そうか、わかった。ふん、命拾いしたな、パン屋」
スヴェルは静かに頷くと、ハウを引き寄せて、なぜか得意げに胸を張った。そのままユールのことなどお構いなしに屋台の方向へ去っていく。
フィンが泥水でも啜ったような顔で、二人の後ろ姿を見送った。
「まじで狼って心狭いよねー。あんなの気にすることないって。僕の心は大空のごとく広いからさぁ! ユールくん、僕とお祭り楽しもーね!」
「くっ……この世に神はいないのか……」
ユールは涙目で思った。これが戯作本の一場面であるなら、【幸せが逃げ出す予感!】という煽り文が添えられるに違いない。はたしてこの予感が的中するかしないかは──どれほど優秀な神様であっても、予想は困難に違いない。
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