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ピアス②

「……だから、こういう気持ちになるのも初めて……。 俺の知らない響の過去があって、俺が今まで知らなかった感情を響は前から知っていて、 俺とするより前から、好きな人とするキスやセックスの気持ち良さも知っていて……。 それを想像したら、想像している自分が惨めになった。 響が何か悪いことをした訳でもないのに、心がざわつくのが意味不明過ぎて。 響に対してなのか、自分に対してなのかも分からないような苛々した気持ちが心を覆ってる。 ——だからこのモヤが晴れるまで、ここに居ようと思った」 奏はそう話すと、両膝の間に顔をうずめた。 背中が僅かに震え、泣いているのだと分かる。 響は子どものように泣く奏の背中をそっとさすると、白い息を吐き出した。 「……奏の気持ちも考えず、あんなこと話しちゃってごめん」 「……だから、響は悪くないって。 俺が勝手に落ち込んでるだけ……」 「——確かにさ、奏が言うような過去を経験してきたし、俺の中で良い思い出になってるのも事実だよ。 ……だけど俺だって、奏のことが羨ましくて、ちょっと妬ましいとすら思ってるんだよ」 「……なんで」 「女の子とデートしたり、友達と遊んでいたのって、全部逃避行動だから。 ——音楽から逃げてしまった俺が、音楽以外にすがれるものを見つけたくて、恋愛とか遊びとか、それから勉強とか仕事とか……音楽以外で自分を満たそうとしてきた結果なんだよ」 響は寒さに震えながらも、奏の背中をさすり続けた。 「前にも話したと思うけど、俺は小さい頃に奏の音楽と出会って、それからずっとピアニストを志してきた。 周囲から持ち上げてもらって、俺ならばきっとピアニストとして生計を立てられるくらいの活躍ができるだろうなって傲慢にも信じていた。 それが自分の不注意で指を骨折して、代わりに見つけた作曲家という夢も、如月奏という圧倒的な才能を前にして心が折れてしまった。 俺なんかじゃ奏みたいな作曲家にはなれない——そんな風に自分の限界を定めて、自分に失望して、音楽から逃げた。 ……だけど、自分の心を守るためにはそうするしかなかった。 それまで人生のほとんどを音楽に捧げて生きて来た俺が音楽をやめてしまったら、俺の人生には何も残らない気がしたから。 みんなが青春を送った学生時代に、俺だけ何も残せないのはあまりに虚しくて—— 反動で音楽以外のあらゆることを充実させてやろうって、躍起になってたところもある。 ……だから、音楽家として誰もが認める功績を作って来た奏のことが羨ましい。 人の耳に、人の心に残るものを生み出せる奏にどうしたって嫉妬してしまう。 音楽で認められて、音楽で生きていける奏のことが本当に羨ましいんだよ」 奏がそっと顔を上げた。 「……本当?」 「本当。もちろん、奏は奏で辛い過去を色々経験して来たと思う。 だけどスランプも乗り越えて、音楽だけじゃなく演技でも評価されて、着実に成長していく奏が俺には眩しくて仕方ない。 ——いくら恋愛にかまけても、本当に欲しかったものが手に入らない虚無感はずっとあった。 楽しい思い出は残せても、本当に残したかったものが何も残せていない俺とは正反対だよ」 「……響が本当に欲しいものは……音楽なんだね」 奏はぽつりと呟いた。 「俺は……音楽をあまりにも身近に感じていたから…… そんなに響に羨ましがられるような生き方をしているとは思ってなかった」 「結局、お互い無いものねだりってことだね」 響が苦笑いを浮かべると、奏はかぶりを振った。 「俺は懐かしくなるような思い出はないけど、今、響と恋愛してるから。 俺は音楽も恋愛も、どっちも持ってる」 「……なんだよ」 響は呆れたように笑った。 「じゃあ、俺だけ無いものねだりをしている可哀想な人間じゃん」 「響だって、どっちも持ってるでしょ。響は良い曲を作れるんだから」 「奏みたいな曲は作れないよ。俺は奏のような曲作りの才能が欲しかったんだよ」 「……才能を響にあげることは、物理的にできないけど……」 奏はどこか申し訳なさそうに言った後、不意に響の顔を見た。 「でも、俺自身なら響にあげられるよ?」 「……それってもう、プロポーズじゃん」 響はそう言って、奏の背中に乗せていた手を離した。 「プロポーズしちゃ、だめ?」 「そもそも男同士では結婚できないよ。 ——ああ、いや、俺の時代ではパートナーシップってのがあって、結婚に近い制度は認められるようになったけど……」 「じゃあ将来、男同士での結婚が許されるようになったら、響は俺と結婚してくれる?」 奏が問うと、響は少し考えた後、こう答えた。 「……俺も奏のことが好きだし、この先も一緒にいたいって思うよ。 だけどさ、俺ってこの時代には本来存在しない人間だから…… そういう書面での契約を交わすことが、多分できないんじゃないかなって」 「……」 「まあ、あと数ヶ月後には赤ん坊の俺がこの世に誕生すると思うけど。 きちんとした戸籍を持つ赤ん坊の俺と違って、今ここにいる俺は正体不明の不審人物みたいなもんだからさ」 響が自虐するように笑うと、対照的に奏はため息をついた。 「……あっそう。そこまで理由を付けてでも、俺とは結婚したくないわけ」 「いやいや、俺は事実を話しただけで、気持ちとしてはそうなれたらいいなとは思うよ。 ただ現実問題を考えたら、迂闊に承諾できないって話」 「……一瞬だけでも、夢を見させてくれたっていいでしょ」 奏が頬を膨らませると、響は両頬を指で挟み、あっという間にしぼませた。 「一瞬の夢を見せるために、無責任なことは言いたくないってことだよ。 俺、奏が思ってるより、奏のこと真剣に想ってる」 そう言うと、響は奏に口付けた。 「……キスするの、遅くない?」 響の唇が離れると、奏が不満そうに言った。 「だって、やっと誰にも見られない所まで戻って来れたし」 「ワガママなところも可愛いって言ったくせに。 可愛いと思うだけで、ワガママを叶えてくれる訳じゃないんだね」 「今叶えたじゃん」 「俺はさっきして欲しかったの」 「じゃ、今キスされたのは嫌だった?」 「誰も嫌とは言ってない」 奏は響を睨みつけると、こう続けた。 「さっきワガママを叶えてくれなかったから、もっと大きいワガママを言って響を困らせたい」 「どんなワガママを言うつもりなの?」 「響が困るようなことなら何でもいい。何か考えて」 「なんでワガママ言う側が委ねてくるんだよ」 響は苦笑いを浮かべると、 「とりあえず、奏が思いつくワガママを言ってみてよ」 と提案した。 「……じゃあ、一緒にお風呂入って」 少しして、奏が言った。 「……ははっ」 「笑うほど、俺のワガママっておかしい?」 「ううん。予想通り過ぎて笑っちゃった」 「え。俺がお風呂に入りたいって言うのを予期してたの?」 「そこまで詳細にじゃないけど、きっと奏のことだから、俺に甘えるようなワガママを言うんじゃないかと思った」 「……なにそれ」 奏は頬を染めると、ムッと唇を尖らせた。 「とりあえず、お風呂にお湯溜めてよ」 響はバスタブに湯を張ると、奏を呼び寄せた。 「沸いたから、入ろ」 響が服を脱ぎ、洗濯機に脱いだものを入れるのを奏は立ち尽くしたまま見ている。 「奏も入るんでしょ?」 動こうとしない奏を不思議に思って見つめると、奏はふうとため息をついた。 「響が見てる横で脱ぐのは気が引けるんだよ」 「なんで?」 「なんでって。恥ずかしくないの?」 「まあ……銭湯とかで、隣で人が脱いでるのは見慣れてるし」 「俺は見慣れてないから恥ずかしい」 「脱ぐのが恥ずかしいなら、脱がせてやろうか」 響が言うと、奏は目を丸めた。 「馬鹿じゃないの!?そっちの方が恥ずかしいよ!」 「どうせ奏の裸はもう見てるし。 今さら出し惜しむ必要ないでしょ」 「……それって、俺の裸を見ても何とも思わないってことだよね」 奏が不服そうに言うと、響は「そんなことないよ」と言い、奏のシャツの裾をちらりとめくった。 「ひゃっ」 「こことか、何度見ても興奮するし」 「……響ってピアスが好きなの? ピアス付けてるなら誰にでも興奮するってこと?」 「違うよ。奏のココが弱いってことを知ってるから、興奮するんだよ」 響はそう言って、奏のヘソに指を差し込んだ。 「はぅ——」 「ほら、感じてるじゃん」 響はにやりと笑いながら、へそピアスを弄ってみせた。 「だめ……くりくりしないで……」 「やだ。奏にもっとそういう顔させたい」 「嫌がらせじゃん……」 奏が頬を染めながら言うと、響は 「嫌がらせされたくないなら、早く脱いで湯船に入りなよ」 と言い、先に浴室へ行ってしまった。 「あっ……」 響の指が身体から離れていき、奏は少し物足りなそうに自分の身体を見下ろした。 僅かに下半身が膨らみを帯びており、こんな姿のまま浴室へ行くことなどできないと思った奏は、昂りが鎮まるまで深呼吸を繰り返した。 「——何してんの?」 浴室の方から、響の呼ぶ声が聞こえる。 「……ちょっと、待って」 「一緒に入りたいんじゃ無かったの?」 「……今、行くから……」 奏は仕方なく服を脱ぐと、恐る恐る浴室の扉を開けた。 響は奏の下半身の違和感には気づいていない様子で、「ちゃんと汗流してから入ってね」と呼びかけた。 「……分かってるよ。それ、前も言われたし」 奏は不服そうにしながら軽くシャワーを浴びると、湯船に足を入れようとして、ふと言った。 「どっちを向いて入ればいいんだろ」 「どっちでも良くない?」 「……」 奏は、響と対面する形で湯船に浸かるのは、自分の下半身に視線を向けられてしまうのではないかと考えた。 響に背中を向ける形で湯船の中に浸かると、響は奏の肩を引き、奏の背中が自分の身体に寄り掛かれるように寄せた。 「——近いよ……」 奏が思わず言うと、響は「そうだね」と返した。 「でも、奏はこういうことがしたかったんじゃないの?」 「……いちいち俺の真意を確かめて来ないで」 「もしかして恥ずかしがってる?」 「悪い?」 「人が見てるかもしれない場所でキスを迫ってくるくせに、二人きりでいる時の方が恥ずかしがるなんて不思議だよね」 響は「これも価値観の違いか」と独り呟いた。 「——奏が俺と裸でくっ付くのを恥ずかしがってるみたいだから、俺も恥ずかしい話していい?」 「え?」 「実は今、ちょっと勃ってる」 「っ!」 奏がどきりと心臓を鳴らすと、響は両腕を奏の身体に回し、ぎゅっと密着させた。 「当たってるの……わかる?」 「……なんか……硬いのがある」 奏は、尾てい骨の辺りに確かにそれが当たる感触に欲求が沸き起こり、さっきよりも自分のものも勃っていることを自覚した。 「俺も今、恥ずかしい気持ちだから…… 奏には俺以上に恥ずかしがって欲しいな」 「?何それ——あッ!!」 響は背後から抱き締めていた腕を少し緩め、右の指先を奏の乳首、左の指先を奏のへそにあてがった。 「や……」 「恥ずかしがってる声、聞かせて」 「や……だ……。同時に責めるの、だめって言ったじゃん……」 「奏が駄目って言うようなことを、俺はしたいんだよね」 響が指先で突起と穴の中をなぞると、奏は指の動きに合わせてピクリと身体を震わせた。 「なん……で……」 「奏がこの体勢で入ってるのが原因じゃない? 俺に背後を取られるって、そういうことだよ」 「どういうことなの……あっ」 響は右手を離し、奏の股間を掴んだ。 先の方に指を当て、 「なんかぬるぬるしてるよ?」 と奏に問いかける。 「……そんなこと実況するな……っ」 「俺のこと、黙らせたい?」 「うん」 「じゃあ、顔をこっちに向けて」 奏が不思議そうにしながら首だけ90度ほど後ろ側に向けると、響はすかさず奏の唇を塞ぎ、舌を絡ませた。 「んッ!?んん……!」 奏は舌とへそ、それから下半身へ同時に快楽が広がり、思考が追いつかなくなった。 あまりの気持ち良さに、頭がぼうっとなる。 身体も頭も溶けてしまいそうだ—— 「……奏」 奏が瞼を閉じかけた時、響が名前を呼んだ。 「……ん……」 奏が答えると、響は奏の耳元に唇を近づけた。 「俺、今が一番幸せ。 どんな過去より、奏と一緒に居れる今が幸せだよ」 「……っ」 「俺が幸せであるように、奏のことも幸せにしてあげたいって思ってるよ。 ——だからこそ言葉選びにも慎重になってしまう。 それが奏を不安にさせたなら、ごめん」 「……響が元からこの時代にいた人だったなら、将来を約束してくれた?」 「そうだね。俺がずっとこの時代に居れる保証があるなら、奏のプロポーズにも迷わず返事が出来たと思う。 だけど未来の保証がない俺たちには、将来を約束するより今の幸せと向き合う方が大事なことだと思うんだ」 「……うん」 奏はコクリと頷くと、今度は身体全体を捻り、響と真正面から向き合った。 「——じゃあ、今できることをしとかないと」 奏はそう言って、響の首筋に唇を這わせた。 強い力で吸われているのを肌で感じ取った響は、少し驚いた様子で 「キスマーク、付けてるの?」 と尋ねた。 暫くして、首から唇を離した奏が言った。 「響が明日居なくなっても、俺のこと忘れないようにって痕を付けた」 すると響は笑って、 「キスマークなんて数週間もしないうちに消えちゃうよ」 と返した。 「何でそんなこと分かるの」 「……あー」 また余計なこと言ってしまったっぽい。 響は内心焦り、表情を歪ませる奏の意識を何とか逸らせようと、こう言った。 「いやっ、ほら。ずっと消えない痕を付けたいならさ! タトゥーを入れるくらいしないと無理だって!」 それを聞いた奏は、目を瞬かせた。 「タトゥー……なるほどね」 「いや、彫るつもりはないよ?!プールや温泉に入れなくなるし。 奏と一緒に温泉旅行とかできなくなるよ?」 「……そっか」 奏は少し考え、なるほどと頷いた。 「じゃ、タトゥーはやめとこう」 「えぇ……彫らせるつもりだったんだ……」 「キスマークより良いアイディアを出してくれたんだとばかり思ったのに」 「っていうか、そんなに俺に付けたいの? 奏のものだっていう痕……」 「付けられるものなら、付けたい」 「……若いなぁ……」 響は呆れたようにため息をついた。 「実際ハタチって若者でしょ?」 「うん、だからまあ、若者らしい発想だよね。 ——学生時代にもいたなあ。 首にくっきりキスマークつけて登校して来る子とか、お揃いのペアリング付けてるカップルとか。 あと、お互いの耳にピアスを開けるカップルとかさ。 いわゆるマーキングみたいな行為? 『この人は自分の連れです』って見える形で周囲にアピールしたくなるのも、若さゆえだよね」 響が他人事のように話していると、奏はふと閃いたように言った。 「お互いにピアス開けるの、それ良いね」 「ヒェッ!?」 響は思わず声が裏返ってしまった。 「ちょっとそれは……」 「嫌?」 「俺一応、元の時代ではサラリーマンとして働いてたんだよ。 俺の勤めてる会社は外見にも規定があって、男が耳にアクセサリー付けてたら、多分『外せ』って言われるから……」 「なんか響の言い様、元の時代に戻る前提なのが引っかかるけど」 「……いや、違——」 「——まあいいよ。開けたくないのは分かった」 奏はそう言って落胆の声を漏らすと、 「……俺のピアスは好きって言ってくれたのに」 と呟いた。 「それは——自分はそういうのには縁のない人間だと思ってたから。 奏のは好きだけど、自分が付ける想像はしたことなかった」 「うん。だからもう、いいよ」 奏が露骨にしょんぼりとした顔をすると、響は顔からたらりと汗を流した。 ——奏だって、好きで開けた訳じゃないんだよな。 母親に無理やり開けられたピアスのせいで、人に裸を見せることが臆病になってしまった奏のこと、 初めてその身体を見た時には『かわいそう』だなんておこがましくも思ったくせに—— かわいそう、って思うのは、結局他人事だと思っているから。 『触りたい』だなんて言って、真の意味で奏の痛みには寄り添えていなかった。 中途半端に同情して、奏に似合ってるとか好きだとか、ポジティブな言葉をかけるだけかけて、 こんなんじゃ奏のことを理解できたことにはなってないよな—— 「……俺も開けるよ。奏と同じ場所に」 気付くと、そんな言葉が漏れ出ていた。

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